第1話 霧の中の本屋
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「……はぁ……」
冬の夜空を自ら吐き出した溜息が白く染める。
高価なスーツに身を包んでいるが、俺の職業はサラリーマンではない。
我ながら整った顔立ちをしているとは思うが、ホストでもない。
もしかしたら、今の仕事よりもそっちの方がまともに稼げたのかもしれない。
もう1度短く溜息を吐くと、俯いていた顔を上げた。
今回の仕事が上手くいっていれば、焼肉でも食べて帰ろうかと思っていたが、生憎仕事は失敗に終わった。
コンビニで肉まんでも買って帰ろうか。そう思い、止めていた足を動かす。
「……なんだ?」
数歩歩き出した時に、突然視界が真っ白に染まった。
勿論、自分の吐いた息だけではこんな風にはならない。
――霧だ。
辺りの景色が消え失せる程に立ち込める霧に、俺は今1度歩みを止めた。
こんな都会で、しかも冬の夜に霧が発生するなんてどう考えてもおかしい。
暫く立ちすくんでいると、強い風が吹いた。
すると、今まで存在していなかったはずの建物が突如として目の前に現れた。
その建物は、現代にはそぐわない古い建物で、入り口には申し訳程度の明かりが灯っている。
だが、この濃霧の中、その明かりは眩しい程に際立って見えた。
俺は、誘われるように足を向けた。
【羅針書店】
木の板には、そう掘られていた。
「本屋か。こんな所にあったっけ……」
俺は首を傾げながらも、木の枠に硝子が嵌め込まれた引き戸へ手を掛けた。
ゆっくりと右へスライドさせると、建付けが悪いのか、ガタガタと音がした。同時に店の奥から「いらっしゃい」と、しわがれた声で迎えられる。
俺は「こんばんは」と、小さな声で答え、店の中へと恐る恐る入った。
店の奥には白い口髭を蓄えた老人が1人座ってこちらを見ていた。まるで仙人のような雰囲気を醸し出している。
客は……俺1人。
なんとも言えない雰囲気に入るんじゃなかったと後悔した。
踵を返そうとすると老人は言った。
「お前さん、人を騙すにはまず自分を騙さないと上手いこといかないぞ」
心臓が止まるかと思った。
何故だ。
何故、この老人が俺の職業を知っている。
「……言ってる意味がわかりませんね。失礼します」
「これは失礼。だが、よいのかな? ここを出たら2度とこの店には入れんぞ?」
耄碌(もうろく)でもしているのだろうか。
俺が苦笑すると老人は信じ難いことを言い放った。
「ここには、人の生涯を記した本を置いている。この世に生まれ落ち、そして永遠の眠りにつくその瞬間までを、な」
そう言って老人は1冊の本を胸の高さまで持ち上げて見せた。
その本の表紙は灰色だった。
「“加藤真”(かとうまこと)。お前さんの本じゃ」
俺は目を細めてその本を凝視した。
灰色の表紙に白字で【加藤真】と印字されている。
紛れもない、俺の名前だ。
「この店にお前さんが来たことも、ここに載っている」
「……騙されるかよ。爺さん、アンタ俺と同業か?」
「嘘だと思うなら読んでみるといい。ほれ」
老人はその本を俺の方へ突き出した。
俺は半信半疑で店の奥へ。
木造の床が軋む音と、本独特の匂いに包まれながら左右に広がる並べられた本を流し見る。
表紙の色は様々だが、どれもこれも人名が印字されていた。
「…………」
自分の名前が書かれた本を手に取ると、老人は深く刻まれた皺を歪ませ、笑った。
なんとも気味の悪い思いをしながら、最初の1ページを捲る。
“1990年12月10日 18時40分、母、加藤正子より産まれる”
――当たっている。
そんな馬鹿な。こんなおかしな事があってたまるか。偶然に決まっている。
だが、読めば読むほど、その内容は自分が経験してきたことが事細かに書かれたものだった。
ラスト1行には、この店に俺が訪れた事が書かれていて、額に冷たい汗がじんわりと滲む。
「アンタ、俺のストーカーか?」
僅かに震える指で老人を正面から指さした。
だが、老人は微塵も狼狽えることなく静かに笑みをたたえている。
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