第19話桜の道

 あれだけ街を彩った春の色は、どこに消えたのか。まだほんの少し冬の翳りを残す風が、諦め悪く時折吹く頃。至る所に植えられている樹木に、“春”は花を咲かせる。足音を響かせ、“春”が訪れた事を生あるもの達に知らせる。


 街が“春”で埋め尽くされ、“春”の匂いにくるまれ、“春”の色で塗られ。しかしその時間は実にごく僅かなもので、それこそ春の陽気に絆されぼうっとしていたら、あっという間に終わってしまう。“春”の散った街はいつの間にか、すっかり春らしさが消え失せてしまっていた。あとはもう、ただ夏を待つだけとなっていた。


 花が無ければ実を結ぶことも無い。春らしさが失われた春の樹が植えられた並木道の下を、赤いランドセルを背負った少女が、軽やかに駆け抜けていく。

 空は紅く色づき、傾いた橙の陽が樹の影をゆらゆらとした現実味のないものにする。

その合間を縫うように、少女は走っている。


 と、その時。踏み出したと思った少女の足が、氷の上を滑るように傾いた。あっと思う間も無く、次の瞬間には派手な音と共に、少女の体が地に伏せていた。

 この道には、桜の花弁が降り積もっていた。桜色の絨毯と言えば聞こえはいいかもしれない。だが今この絨毯は、言葉の響きほど美しいものではなかった。降り落ちてだいぶ時間が経ってしまったせいか、花弁のすみはやや茶色く変色を始めている。その上昨日降った雨のせいで濡れてしまっており、余計に滑りやすくなっていた。


 悔しそうな、泣き出しそうな表情で、少女は上半身を起こした。唇を噛み、泣き出しそうだ。しかし少女は目元を袖で拭うと、体全身を起こし、服をはたいて、また駆け出した。

 強い風が吹いたのは、まさにその時だった。思わず目も開けてられないほど強い風。剥き出しの枝が風に揺られ、音を鳴らした。春にこういう風が吹くことは、特段珍しいことではない。時間にしてほんの一瞬のことで、すぐに風はやんだ。

 静寂を取り戻した並木道の下には、あの少女はいなかった。


 私は愕然とした。口が勝手に開き、歯が合わさってかちかちと勝手に音を立てる。

私は今、階段を上りきった場所にいた。眼下に見えるあの並木道をまっすぐ行くと、この階段に辿り着く。桜の樹が両端に植えられたこの階段は段数も多いしかなり急だ。

 途中、濡れた花弁に何度も足をとられ、転びかけた。登り切った頃にはへとへとになっていた。振り返って一息ついていたら、先程まで私が通っていた並木道を、学校帰りらしい子どもが走ってくるのが見えた。あんな頃もあったなあと、懐かしい気持ちが蘇り、ただ何の気なしに眺めていた。そう、ただそれだけだった。それなのに。

 立ち並ぶ樹の枝には何もついておらず、少女の姿を遮るものは無い。あの並木道は真っ直ぐで、途中脇道があるとかそういったものも何一つ無い。そしてあの道を通ったということは、必然的にこの階段を上ることとなる。


 しかし少女の姿をした何かは、いつまで経ってもこの階段に現れない。

どこに行ってしまったのか。どこに、消えてしまったのか。

 だが私に、階段を下りる勇気は無かった。確かめてしまえば、何かが終わる気がした。

見てはいけない何かを見てしまうような気がした。毎日通る桜の並木道が、絶対に踏み行ってはいけない場所のように思えてならなかった。

 桜の木の下には、死体が埋まっている。そんな話を聞いたのは、いつの日だったか。

その話をしたのは、誰だったか。大真面目に話したその人を、私はやめてよと笑い飛ばしていた気がする。しかし今、その人のことを笑い飛ばせる自信はまるで無かった。


 桜の木の下には、死体が埋まっている。その死体を元に、桜は可憐で美しい花を咲かせる。その花を、生きている者達は何も知らずに、愛でる。

 靴底越しにコンクリートの冷たさが伝わる。冷たいはず無いのに、足の底から冷たい空気が立ち上ってくるような感覚がする。


 足を上げ、靴の裏を見た。つぶれて崩れた桜の花弁が、べったりと張り付いていた。



「桜が盛りを過ぎ、地面をその色に染める頃、コンクリートでできた階段で不意に、かすかな震えに襲われた話」

#さみしいなにかをかく

https://shindanmaker.com/595943

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