第45話 奥の手
”悪魔”の受肉。それは、精霊力の枯渇がもたらす最悪の結末だ。
アリアは精霊魔法を修める者として、その現象を知識として持ってはいた。だが、それを現実のものとして目の当りにするのは初めてだ。
自らの足が大地を踏みしめる度、ぞわり、とした寒気が背筋に走る。ほんの少しでも気を抜こうものなら、恐怖や嫌悪感に押し潰されてしまいそうだ。
だが、そんなものに負けるわけにはいかない。もし、アリアがその感情に負けて膝を突いてしまえば、誰がハンクの無茶を止めると言うのだろう。
――それに、無茶はお互い様だ。
もし、この場にハンクがおらず、アリアが単独でその悪魔と向かい合ったなら、何の抵抗も出来ぬまま瞬時に殺されていたであろうことは、想像に難くない。
例えるなら、厄災級の巨大竜巻を、体一つで止めに行くようなものである。
今もハンクは、アリアの目の前で、イレーネと言う名の悪魔と烈しい打ち合いを繰り広げている。
信じられない事に、元人間だと言う彼女は、受肉と同時に創造神アルタナによって、最高位の
ドルカスで戦った冥王竜ラダマンティス、アルタナの力で
生命核を獲得するに至った彼等は、押し並べて
彼等は生命体であっても、生物ではない。
さらに言えば、”悪魔”達は元々生物ですらない。
悪魔とは無意識化に集合した悪意の塊であり、本質的な悪の超越的存在だ。
彼等は、悪しき意思がそこに存在すると言う不特定多数の認識のもと、概念の外枠を形成し、その内側に生命核を発生させる事で、現世に直接その姿を現す。
その生命核こそが、この世界の”悪魔”そのものであり、決まった姿を持つ事は無い。
その為、悪魔達は出現と同時に、近くにいる手ごろな贄や依代の身体を乗っ取り、生命核の魔力を使って新たな肉体を作成し、”受肉”を果たす。
……しかし、その存在は伝説上のものであり、周囲になんの古代遺跡も持たない山あいの街に突然現れるものでは無い。それに、悪魔が出現するには、いくつもの条件が必要だ。
その一つが、精霊力の枯渇。
精霊魔法を扱うエルフ達が、精霊力の枯渇を絶対の禁忌とする理由はそこである。
だが、いくらコルナフースがアンデッドに占拠されたからと言って、その所為で精霊力が枯渇することは無い。
街が廃墟となったところで、そこある物は雨に打たれ、風にさらされ、長い年月をかけて大地へと還っていく。その自然の営みそのものに精霊達は宿り、自然エネルギーの本質としての精霊力が生まれる。
だからこそ、ぽっかりと空いた穴の様に、この街の精霊力が枯渇し続ける現状は不自然なことなのだ。
通常、精霊力は枯渇しても、しばらくすれば周囲の自然が徐々にそれを回復させていく。空も大地も、世界の全ては繋がっているのだから当然の事である。
だが、コルナフースの街に、精霊力が回復する気配は全く無い。
アリアが最初にこの街に足を踏み入れた時、死者の街だと言う先入観が、精霊力の枯渇をまるで当然の事であるかのように感じさせた。だから、アルタナが虚空から引きずり出したアンデッドが、実は悪魔の贄だと言う事にも、特に違和感を感じなかった。
しかし、よくよく考えてみるとそれはおかしい。3ヶ月もの間、悪魔化もせずにアンデッドでいたなど辻褄が合わない。
(……アンデッドの襲撃、悪魔召喚の儀式、精霊力の枯渇。多分、全部繋がってる。でも、どうやって?)
少しでも情報を集めようと、アリアは前庭の中央で剣戟を響かせるハンクと少女の悪魔――イレーネをじっと見つめた。
その刹那、イレーネが大きく後退したかと思うと、アリアに向けて一気に距離を詰めた。
気が付いた時には、アリアの目の前で、真紅の剣を振り上げるイレーネの姿が目に入った。常軌を逸した憎悪の表情を浮かべるイレーネに、アリアが息を詰まらせる。
咄嗟に腰のショートソードを抜こうと手を掛けたが、とても間に合いそうにない。
やけにゆっくりと振り下ろされる真紅の剣を前に、
――斬られる!
アリアがそう思った瞬間、横合いからハンクが現れて、間一髪、その剣を受け止めた。
「悪い……。隙を突かれた」
ハンクは短くそう言った後、力任せに真紅の剣を押し返して、長剣を横に薙いだ。剣を押し返されて隙だらけになったイレーネは、咄嗟に大きく後退してハンクの剣を躱すと、ゆっくり剣を構えて態勢を立て直した。
ハンクも剣を構え直し、両者が睨み合うと、互いに距離を取ったまま状況が膠着する。
その後ろで、アリアは久し振りに感じた死の恐怖を前に、竦み上がった心に活を入れた。油断したつもりは無いが、余りの速さに反応すらできなかった。だが、逃げ出すわけにはいかない。散々ハンクに啖呵を切ったのだ。ゆっくりと呼吸を整えてから、アリアはハンクの背中に向かって口を開いた。
「ありがとう。助かったわ。……そのまま聞いて。多分、アンデッドの襲撃も、悪魔がいる事も全部繋がってる。何か裏があるはずよ」
「アルタナとは関係なく?」
「ええ。アルタナは、都合よくあの悪魔がいたから、ただ乗っかっただけ。だから、何とかしてこの
「了解。でも、こんな帳の中にいるのに、そこそこ明るいのは不思議だよな。まあ、真っ暗よりいいけど」
言葉だけでおどけた後、今度はハンクが動いた。一気に間合いを詰めて、イレーネと数合打ち合う。アリアは、きょとんとその後ろ姿を眺めながら、はたとある事に気が付いた。
残った城壁や城のところどころに灯る明かり、太陽が昇っていたはずなのに真っ暗だった民家の内部。もし、そういった細かなものに、それぞれのエネルギー源として精霊力が使われていたのだとしたら……
『精霊達! 私の声が聞こえたら応えて!』
探査魔法の要領で、精霊語で叫んだアリアが魔力の糸を周囲に広げる。蜘蛛の糸の様に細く放射状に伸びたそれは、燃料も無く燃える城壁や城内の灯り、薄明かりの中で不自然に淀む暗闇、不必要なほど水路へ流れ込む湧水、そう言ったものを中継点として次々広がって行く。
(思った通りね……無理やり一か所に集められて、継続的に使役させられてる。主に火、闇、水の精霊か……)
精霊達から返ってきた、予想通りの応えにアリアが眉を顰めた。
万物を司る精霊達は、あくまで自然そのものだ。
なんの水脈も無い場所から溢れ出た湧水で水路が逆流したり、燃料もなく炎が燃える事など、自然であるはずがない。
とはいえ、多かれ少なかれ、精霊魔法は精霊達に不自然を強いてしまう。これは仕方のない事実だ。
だからこそ、それを不必要に継続させるのは、精霊魔法に於いて最大のタブーとされている。
魔力をエネルギー源として発現した精霊魔法が、その魔力を使い果たした後、自らの命である精霊力そのものをエネルギー源としてその状態を維持する。それも、街中のいたるところで、大量に。
サラがいるはずのリガルド帝国で、なぜこのような事が起きるのか。正直な所、アリアはその答えを追求する事に後ろ向きである。
何故なら、リガルド帝国に精霊魔法をもたらしたのはサラだからだ。
――でも、今その答えをのんびり考えている暇は無い。
たいした解決策も無しに、トラウマを回避できると思っているハンクを助ける事が出来るのは、私しかいないのだ。
もし、異形の姿で悪魔化したイレーネの心に触れようものなら、きっと無事では済まないだろう。
だからこそ、
アリアは唇をぎゅっと引き結んで、精霊達に一つの指示を与えた。
『あなた達は自由よ。本来の場所に戻りなさい』
その瞬間、魔力の糸が霧散した。
「ハンク! 灯りが消えるわ! 帳を破って!」
「了解! こっちも準備は出来てる!」
そう言い終わるや否や、ハンクはイレーネに見え見えの蹴りを放ち、ワザと防御させて彼女を大きく吹き飛ばすと、左手を天に掲げて「消えろ!」と一言大きく叫んだ。
刹那。ハンクの手から青白く光る粒子が溢れ出した。
可視化された魔力の光が、コルナフースの中心から外側へ向けて、一斉に広がっていく。ものの10秒ほどの間に、青白く光る粒子がコルナフースの街全てを呑み込むと、
だが、すぐにコルナフースの街を魔力の青白い光が照らし、街全体を覆うドーム状の帳一杯にその光が満ちた。
超高密度の魔力の光。それは即ち――
ハッとなったアリアがハンクに向かって走り出す。
そして、アリアがハンクの傍らに近寄った時には、コルナフースの街を覆う漆黒の帳が溶けるように消え、天高く昇った太陽が街全体をその光で照らした。
だが、アリアはそれを確認することなく、ハンクの両肩を力任せに掴んだ。ハンクの両腕はだらりと下がり、その眼は虚ろで、目の前にいるアリアを映してはいない。
「キミ、バカなの! 意味無いでしょ! 何のために私がこんな回りくどいことしたと思ってるのよ……」
形のいい眉を歪めて、アリアがハンクの肩を何度か揺らすと、虚ろだったハンクの焦点が定まり、力の抜けた微笑みを浮かべた。
「はは……ゴメン。でも、お蔭で最悪の瞬間は見ないで済んだ。助かったよ」
「バカ……無茶しないでよ……」
――よかった。戻って来た。
ハンクの笑顔に、アリアは俯いて安堵のため息を漏らした。ハンクの肩にアリアの額がこつんと当たる。このまま、一言くらい文句でも言ってやろうか。そんな考えが、アリアの脳裏をかすめる。
……だがそれが実行に移されることは無かった。
突然ハンクがアリアの肩を庇うように抱え、「《アイギス・テトラ!》」と叫んで盾魔法を展開したのだ。
直後、盛大な爆発が起き、魔法で展開した4枚の盾の内、3枚が砕け散る。
「ここからが本番だってこと、すっかり忘れそうだったぜ」
「……ごめんなさい。私も気が動転してたわ」
アリアはハンクから体を離すと、正面のイレーネを見据えた。ハンクも油断なく長剣を構え直す。その視線の先に、無表情なプラチナブロンドの
――そうだ。まだ戦いは終わっていない。本当の戦いはここからだ。
アリアはハンクの後ろへ身を隠す様に半歩下がった。そして、再び魔力の糸を周囲へ伸ばす。
使役させられていた精霊達を解放した事と日照が戻った事で、この場を中心に精霊力が回復を始めた。とはいえ、その速度はとても緩やかで、今すぐ精霊魔法の使用に耐えられるものでは無い。
「ごめんなさい、ハンク。……私ね、ノルンの依代になれなかったんじゃ無くて、ならなかったの」
「え……?」
咄嗟にその意味を理解できずに、ハンクの返事が気の抜けたものとなった。あまりに予想通りの反応に、アリアがクスリと笑みを浮かべる。
しかし、アリアは嘘をついたつもりなど微塵も無い。
勿論、これからそれを行うのだ。”奥の手”を使って。
「だって、私は精霊の王であるエントの契約者。しばらくの間、私が私じゃなくなるけど、それでも守ってくれる?」
「何意味の解らない事言ってんだよ……でも、アリアはアリアだ。当然だろ」
「ハンクのそういうとこ、嫌いじゃないわ。…………予定通り、
訳が分らないと言った様子のハンクをよそに、アリアは軽やかに数歩後ろへ下がった。勿論、それを
その様子を見ながら、アリアは満足そうに笑みを浮かべた後、ゆっくりと目を閉じた。すると、その足もとから、魔力の糸があらゆる方向に向かって伸びていく。――まるで、樹木が根を張る様に。
そして、アリアは精霊語で精霊王エントへ呼びかけた。
『精霊王エントよ。
その瞬間、アリアの身体が眩い光に包まれる。そのまま光はアリアを核として膨張を続け、瞬く間に光で出来た1本の巨大な大樹がそこに出現した。
(――ハンクを守るために”奥の手”を使うと言うのに、その間、自分の身はハンクに守って貰わなければならないなんて、滑稽な話ね)
そんな考えがアリアの脳裏をかすめた後、視界を埋め尽くす光の中で、彼女の意識は微睡の中へ沈んでいった。
「アリア……そういう事かよ……」
守ると約束したのだ。絶対に傷つかせる訳にはいかない。
その顔に、憎悪の表情を浮かべた
握る手に力を込めた。
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