第9話 アナイアレイター

 アイアタルの咆哮に合わせて、彼女の周囲から紫色に輝く猛毒の粒子が宙に舞い上がった。

 急速に増加する猛毒の粒子が、歩くような速度でゆっくりと範囲を拡大していく。アイアタルを中心にドーム状に拡がったそれは、呑み込んだ木々や下草をじわりじわりと枯らしていった。

 不自然に一部分だけ枯れた森の中で紫色に輝くその光景は、アイアタル自身の姿も相まって、邪精霊たる彼女のおぞましさを一層引き立てるものだった。

(切り飛ばすつもりで斧を当てたのに、鱗が何枚かえぐれた程度か……)

 猛毒の粒子の中でうねるアイアタルの尻尾には、先ほどハンクが両手斧を横薙ぎにして攻撃を防いだ時の傷が付いていた。

 筋力強化を掛けて全力で振りぬいたはずなのに、思っていたよりも傷は浅い。鋼鉄製の両手斧をものともしない強度が、あの鱗にはあるのだろう。

 背中に付いたドラゴンの翼は飾りでは無く、鱗にもそれと同じだけの強度があると言う事なのだろうか。

(それにしても、あんなヤバそうなやつ目の前にして、あまり怖いと思わないのは、この身体のお蔭なんだろうな……。思いっきり叩きつけてきた尻尾の動きも普通に見えたし)

 そんなことを考えながら、両手斧の切っ先にちらりと目を落とす。……少し欠けていた。

(次に尻尾の攻撃が来たら、《アイギス》で止めよう!)

 借り物に傷を付けた後ろめたさから、ハンクはそう決意する。そして、目線をアイアタルに戻そうとしたとき、地面に1本のナイフが落ちているのが見えた。

 女密偵が持っていたナイフが、衣服と一緒にはじけ飛んだのだろう。

 ――気を抜くと死ぬのは変わらんがな。

 唐突に、魔神の一言が脳裏に蘇る。ハンクは、すかさずそのナイフを左手で拾い上げた。

(あの紫の粒子も、ただの猛毒ってだけじゃないだろう。試してみるか……)

 ハンクはナイフを右手に持ち替え、アイアタルの上半身目掛けてそれを投げた。

 当然、ナイフなど投げたことは無い。昔読んだマンガの投げ方をマネしてみただけであったが、ナイフは真っ直ぐアイアタルへ向かって飛んで行った。

 筋力強化魔法を掛けている訳でもないのに、ナイフは弾丸のような速度でアイアタルへと襲いかかる。

 しかし、ナイフが紫色の粒子に触れた瞬間、熱した飴の様にどろりと溶け、彼女に届くことは無かった。

 アイアタルの作り出す紫色の粒子は、一つ一つが高密度に凝縮された、魔法による猛毒の塊なのである。生物が少しでも触れれば、たちどころに致死量を超え、無機物であっても、強酸の様なその性状によって溶かされてしまうのだ。

 ドロドロに溶解していくナイフを一瞥した後、アイアタルはハンクを見て、爬虫類の様な細長い虹彩をさらに細めて、にたりと嗤った。

(アリアの言った通り、あの紫の粒子を何とかしないとダメってことか)

 先ほどアリアの言っていた「猛毒の粒子を魔力の粒子で対消滅させた」という、その言葉を思い出しながら、ハンクは自身の内より滔々とうとうと溢れる魔力に意識を集中させた。


「なんなのさ、あれ! 粒子一つ一つが、ものすごい魔力を持ってる。なんで、突然あんな魔物が出て来るのさ!」

「密偵達は、精霊語が使えたんだろう? 自害するくらいなら、邪悪な精霊に身体ごと魂を差し出して、俺達を道連れにしようとしたんじゃないのか?」

 突然の事態を前に、事情を知らないシゼルとハッシュがそれぞれ武器を構えた。

(――マズイな。魔神の仕業なんてとても言えねぇ……)

 自身の魔力に意識を集中させながらも、独り心の中で冷や汗をかきつつ、ハンクは周りをちらりと見た。3人とも一様にこわばった表情を浮かべてアイアタルを凝視している。

「アイアタルは何百年か前に、エルフの精鋭達に討伐されて姿を消したはずよ。存在しないものを召喚なんて出来ないわ」

「存在しないはずなのに、なんで出て来るのさ、まったく! 《プロテクション》」

「逃げたら逃がしてくれるような相手でも無さそうだし、腹を括るしかないか……」

 アリアの言葉にハッシュが毒づきながらも、防御魔法を全員に付与し、シゼルが剣を握る力を強めながらアイアタルを見据えた。

 その間にも、じわりじわりと猛毒の粒子は体積を増していき、アイアタルがゆっくりと移動を開始した。

「あの粒子にちょっとでも触れたら、簡単に致死量を超えるわ。絶対、接近しちゃだめよ!」

 アリアが全員に注意を促しつつ、右手を弓の弦から離して手前にかざした。

土の精霊ノームたち! アイアタルを貫いて!』

 精霊語でアリアがそう言うと、アイアタルへ向かって、地面から太い槍のような岩が何本も突き出た。さながら、岩で出来たファランクスである。

 だが、アイアタルは尻尾をくねらせた横薙ぎの一撃で、自身に迫り来る岩の槍を粉砕した。それでも、粉砕を免れた何本かが、アイアタルの下半身に直撃したが、何枚かの鱗を抉る程度の傷を与えただけであった。

「下半身はダメね……上半身を狙いましょ」

「《ヘリクスランス・トリプルディスチャージ!》」

 ハッシュが返事の代わりとばかりに、両手で杖を掲げて魔法を発動した。

 次の瞬間、杖の周りに3つの魔法陣が浮き上がり、それぞれの魔法陣から螺旋状に回転する青白い魔力の槍が射出された。ハッシュの習得している魔法の中で、最大の貫通力を持つ魔法である。

 3つの槍がアイアタルの上半身目掛けて飛翔し、猛毒の粒子に突入する。螺旋状に回転しながら進む槍の様な太さであったそれらは、猛毒の粒子として半分ほどの細さになった。

 そして、もう少しでアイアタルに届こうかと言う所で、アイアタルは背中の翼で身体を護った。3本の槍は、アイアタルの翼を抉り、その痛みに咆哮が漏れる。しかし、咆哮が終わった途端に傷口が再生を始めた。

「反則じゃないのさ……」

 致命傷を与えるにはほど遠い現実に、ハッシュのうめき声が漏れた。

「さすが精霊王クラスとしか言いようがないな……」

 剣の出番が無い事を早々に悟ったものの、頼みの魔法で致命傷を与えられないことに、シゼルが苦虫をかみつぶしたような顔で呟く。

 ハッシュやアリアの魔力は、未だ十分に残っている。しかし、これでは圧倒的に手数が足りない。

 過去にアイアタルを討伐した際には、エルフの精鋭部隊が動いてるのだ。それを考えると、今の戦力で戦いを挑むのは無謀と言うものである。

 アリア達3人の間に、ほんの少しの沈黙が流れた。

「――みんな、下がって守りを固めるか、逃げてくれないか? アレは俺が相手をするよ」

「キミ、何言ってるの!? 一人で何とかできる相手じゃないでしょ!」

 唐突にハンクが言った一言に、アリアが強い口調で反論した。

「森で目が覚めた時から、俺には魔力の粒子が見えてるんだ。自由に動かしたりも出来るらしい。そして、俺が魔法を使いたい時は、思い描いたイメージをその粒子に伝えるだけでいいんだ」

 静かにそう言って、ハンクは左手を前に出した。

 その瞬間、ハンクの左手から眩しく光る青白い魔力の粒子が溢れ出した。

 この世界で魔力とは、生命力や意志力と言った、魂の力そのものである。

 修練によって魔力の強さを感じる事が出来るようになっても、純粋な魔力の粒子を直接見ることは誰にも出来ない。それは、魂そのものを目で見る事と同じであるからだ。

 もちろん、それを誰かに意図的に見せるなど、普通は在り得ない。

 アイアタルが放つ紫の粒子は、猛毒の魔法と言う指示の下、たまたま紫色の粒子の姿をしているに過ぎない。

 だが、ハンクが放出した純粋な魔力の粒子は、それらの常識を打ち破って姿を現した。

 シゼルとハッシュが、信じられないものを見る目でその光景を凝視する。

「純粋な魔力の光を見るなんて、有り得ない事だと思ってた……」

 ハッシュが呆然と呟き、シゼルもその言葉に黙って頷く。そして、一度この光景を見ているアリアも、息を飲んでハンクの左手を見た。

「これで猛毒を対消滅させて、あの化け物を黙らせてくる。下手に4人で行っても、あの猛毒の範囲じゃ全滅するだけだろ?」

 ハンクの言う通り、猛毒の粒子が全員を呑みこむまで、それほど時間は要らないだろう。

「でも、魔力を放出するだけじゃ対消滅は起きないわ!」

「うん。ハッシュの魔法が相殺したのを見たお蔭で参考になったよ。それで、対消滅を魔法としてイメージしてみたんだ。だから、俺に任せてくれよ」

 そう言ってハンクはアイアタルの方へ向き直る。猛毒の粒子は近くにまで迫っており、既にアリア達3人が逃げる余裕は無くなっていた。

 ――強大な力を制御しなければならないだろうが、後は自分がうまくやればいい。

 ハンクが転生前にかじった知識では、対消滅は粒子と反粒子が衝突することで発現し、結果としてガンマ線が放出されるのだと記憶している。ガンマ線とは放射線の一種である。そんな物騒なモノをまき散らす訳にはいかない。

 魔力同士の対消滅において、そのような危険な現象が起きるかは分らない。しかし、だからと言って不用意に対消滅を起こすのは危険な気がした。

 周囲へ悪影響を及ぼさないよう対象範囲を結界で覆い、その閉鎖された空間内で事象変化を完結させた方がいいかもしれない。

「強烈な光が出ると思うから、目をしっかり守っておいてくれ!」 

 それだけ言って、ハンクは自身の体の中に溢れる魔力に意識を集中させ、イメージを構築し始めた。

 同時に、ドーム状に広がった猛毒の粒子の中を、ゆっくりとこちらへ近づいてくるアイアタルを確認する。

 猛毒の粒子に対抗して、ハンクが魔法を使用しようとしているのを悟ったのか、アイアタルは自身の胸の前で翼を交差させて、身を守る様にゆっくり前進している。

 アイアタルがこちらを警戒してくれるのは、ハンクにとって好都合だった。そのお蔭で、こちらもゆっくりと集中できる。

 そして、ハンクは魔法の構築を完了させた。

「《アナイアレイション!》」

 我知らず声に力が入りながら、ハンクは魔法の起動をコールした。

 その瞬間、アイアタルを中心に円形の魔法陣が描かれ、巨大な青白いドームが猛毒の粒子ごとアイアタルを呑みこんだ。

 そして、ドームの内部が強く輝く青白い光と、紫に輝く猛毒の粒子で一杯に満たされ、とある一対の粒子が対消滅を起こしたのを皮切りに、巨大な青白いドームは、眩い強烈な光の中へ沈んだ。

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