二十二話 森を彷徨う者
◼️
「ノルン……どこまで歩くのかしら」
「……ジュリア様、あちらの沼までです」
苔むした木々が鬱蒼と生い茂り、道はあるようでない。地面を生い茂る草草は、ところどころ禿げている。そのために、茶色の地面が見え隠れしているが、それだけじゃない。少し紫がかった色も伺える。
「ノルン。二人きりの時は、ジュリアで良いと言ったでしょう」
ジュリアとノルンが二人並んで歩く。
美しい女性が並んで歩く姿はさながら絵になるようだ。この霧が立ち込める鬱蒼とした森でなければさぞかし、美しい絵になったことだろう。
赤い髪を後ろで一つ結びにした彼女は、ノルンと言う。ノルンの方が一つ二つ歳は上である。
「しかしジュリア様……」
「ノルン」
くりっとした瞳は、ノルンを睨む。
と言っても、それは悪戯な笑みを含んでいた。
「はい、ジュリア」
それに気がついた彼女は、微笑むように返事をする。
「……大変なことになっちゃったわね」
「……はい」
ジュリアとノルンは姉妹のように育った。
と言うのもこの男が多い環境で、それは必然的にそうなったとも言える。母は早くに亡くなり、彼女は一人だった。そんな中に現れたのがノルン。二人は母と子のような仲でもあり、真の姉妹を超えるほどの絆で結ばれていた。
しかしいつしか立場は二人を分かち、ぎこちない雰囲気を生み出すようになってしまった。
「あの頃に、戻れたらどれだけいいか」
と言ってもそれは、ノルンだけが感じていること。立場の低さが生み出した虚像に過ぎない。ジュリアは全く気にしておらず、むしろその態度に不満を抱いていた。姉のように慕っていた美しい女性はいつしか、他の屋敷の人間と変わらなくなってしまった。
「……ジュリア、聞いてください」
二重瞼は、意を決して見開いた。
「……なにかしら?」
「私は奥方より貴女を始末するように命令されました」
「そう、だと思っていたわ」
その真実を彼女は、予想していた。彼女自身、お嬢様育ちであることは否定出来ない。世間を知らないことも否定は出来ない。
「では、なぜここまで……」
しかしその聡明さは、年齢という範疇を大きく超えていた。
「私がいなくなったほうがトニオは幸せになれると思うから……」
誰よりも聡明で、優しく強い。
だからこそ彼女は、自分自身を恨んでいた。
──私に剣を握る力があれば。
生まれつき身体の弱い彼女は、激しい運動が出来なかった。
彼のような強い剣士には、もっと強い女性が似合う。彼女はそう思っていた。
頼りなさげな少年との逢瀬は、一度だけではない。舞踏会が開催されるより前に彼女たちは出逢っていた。身分を知らず二人は愛し合っていた。そして逢瀬を重ねる度に彼女は、彼を深く愛し、より深く知った。誰よりも優しく誰よりも強い、その心の強さを。
そしてそれは、トニオの邪魔になるのでは。その想いに繋がっていった。
「……すみません、ジュリア。私はここまでです」
彼女は妹のように触れ合ってきたジュリアの決意を目の当たりにする。
それは、手に掛けた刃を。
──その決意を砕いた。
「……そう、わかったわ」
彼女は、運命に委ねる。
決して愛しき妹を自分の手に掛けることは出来ない。しかしそのまま帰れば、自らの命を落とすことになるのは間違いない。
彼女に妹を護りきる自信はなかった。
とぼとぼと、霧の中に消えていく黒髪を見送る。
「奥様、私には出来ませんでした……」
彼女には、無事を祈ることしか出来なかった。
◼️
森を少し歩くと、拓けた広場が現れる。
と言っても森の中であることは変わりない。その上、霧も晴れたわけではない。
どんよりとした空気は、彼女の気持ちを奈落に叩き落とすようだった。
追放。いや、これは処刑なのであろう。
戦う力を持たない彼女が、魔物の徘徊する森を彷徨う。それが何を意味するかなんて、この世界に生きる人間であれば大抵が理解するはずだ。
「こんなところでどうなさいましたか?」
「……貴女は?」
霧の中からぬっと現れた何かに、彼女は驚いた。しかし彼女は、安堵する。目の前に現れたものが間違いなく人間の姿をしていたからだ。
死の恐怖が付き纏うこの場所で、魔物以外に遭遇すると思ってもいなかったのだ。
「……これはこれは、申し訳ありません」
と言ってもそれは、何の力も持たない人間の観察力である。
彼女は、高名な騎士の娘であるが何の力も待たない小娘と大した変わりはない。
「私は街の林檎売り。隣村まで林檎の配達から帰ってきたところ」
確かに彼女は、聡明である。
頭の回転が速く、機転が利く。
だが、それには限界があった。魔物やそれに類するものは人に化け、人を騙す。
彼女は、それを知らなかったわけではない。
しかし魔物と戦ったことのない彼女には、それを見破る術はなかった。
「あ、ああ。聞いたことあるわ」
彼女は街の果物屋を思い出す。
それまでその店は、栄えてもいなかった。一人の老人が切り盛りしていたが、彼もその内に亡くなってしまう。そんな果物屋に現れたのが彼女。
「これは光栄でございます」
年老いた女性は、深々とお辞儀する。
顔に刻まれた皺は、間違いなく彼女を老人だと示す。しかし伸びた背筋は、どこか若々しさを感じさせる。
彼女は亡くなった店主の妻だと言う。彼女が彼に変わって経営すると言うが、誰もが気に留めなかった。しかしその果物屋は、売れ行きを大きく伸ばすこととなる。
「霧が深いわ……気を付けて帰ってくださいね」
その果物屋の林檎は、赤々として特に美味だと噂があった。それは、深窓の令嬢である彼女にも伝わったのだ。
「ありがとうございます。……よろしければ林檎を一ついかがですか?」
「そんな……売り物を悪いわ」
差し出された林檎は、噂通り赤々と美しい。
「いえ、いいのです。いつもお世話になっているお礼でございますので」
おそらく、リンドブルムの屋敷でも老女の果物屋との取引があるのだろう。
その言葉から彼女は、容易に想像する。
「そ、そう。……なら頂きます」
もう昼を超え、黄昏に入ろうとする頃だ。
彼女は、昨晩から何も口にしていなかった。それは昨晩、追放の命が出たからだ。悲しみにくれる彼女の喉は、何も通すことを許しはしない。
しかし、人とはどんな時でも空腹というものに襲われるものだ。……何かしらの病気を患っていない限り。
彼女は至って健康体であった。
みずみずしく、肉厚のある大きな林檎。
その林檎は、彼女にとってどんな御馳走をも超える。
「それでは、私はここで」
「……はい、ありがとうございました」
老女を見送りながら彼女は、その林檎にかぶりつく。
歩み去る老女の頬に一筋の涙が流れた。
背中を向ける老女の涙を彼女が見ることは、ない。
霧はどんどんと深くなっていくのであった。
◼️
走る。駆ける。
追放された彼女の元に向かい、足を動かす。
俺たちは雨が降り始めていた屋敷を離れ、森に向かった。いや、もう既に随分と経っている。おそらく追いつく頃には、沼地へと辿り着いているだろう。
俺一人であれば、もう追いついているがそうもいかない。
彼女を助けられるのは、隣を走る金髪の少年だけだ。
「ところでウルさん」
「……ん?」
その視線は、俺の背後を狙っていた。
「……そのずっとくっ付いている鎧は、なんですか?」
「……視えるのか」
鎧を着た背にいるものと言えば、ただ一人しかいない。
間違いなく、魔王ルシフだ。
禍々しい鎧を身に纏い、兜を被る。俺でさえ、その素顔を見たことはない。……あれ、未だに見たことがないぞ?
「はい……この霧に入った辺りからじわじわと」
「あー……なんだ。使い魔みたいなものだ。気にするな」
詳しい事情を説明すればややこしくなるのは間違いない。
なにより、その説明で彼は目を輝かせる。
「ウルさんは、魔法も使えるんですね……!?」
剣士を目指す者。彼らは魔法というものに得てして一度は、憧れるものだ。
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