二十三話 満ちる毒の沼


「さほど、強い魔法を使えるわけじゃないぞ」


 勇者の力は、厳密には魔法、魔力ではない。魔法は、理を操る力である。更にその先の力。強力すぎて下手に使うわけにはいかなかった。


「……機会があれば見せてください」


「ああ、先を急ぐぞ」


 俺たちは、速度を上げる。

 霧の雫が身体全身を包みこんでいくのを感じた。あまり気持ちいいものだとは、感じない。べたつく服の気持ち悪さもあるが、それ以上に別の何かが気持ち悪さを助長している。

 おそらくルシフの姿が見えるようになった原因はそれだろう。


 隣の少年を見遣るが、その気持ち悪さはあまり感じていないようだ。


「お前は、ジュリアを心配じゃないのか?」


 彼の表情は、自信に満ちている。少し前の彼とは、まるで別人のようだ。


「……いえ、心配です。でも分かるんです」


「分かる?」


「はい、彼女が生きていることが」


 事実、彼女は生きている。それは俺にも分かっていた。気を読む力。それは、この先にいるジュリアの気を確実に捉えている。


「……明鏡止水の境地か」


「どうやら、そうみたいです」


 明鏡止水の境地。それは対峙する相手の行動を完璧に読み切ることが出来る状態。

 トニオはそれを拡大し、世界に当てはめることで彼女の状態を『読んでいる』のだろう。

 俺の『一の太刀』は模倣に過ぎず、そこまで至ることはまず無理だ。


「……じゃああれもあの正体も読めるか?」


 俺は、霧の中から現れた黒い外套を指差した。


「……いえ、あれは一体」


 その正体は分かりはしない。しかしその気配に俺たちは既に、足を止めていた。

 黒い外套は、俺の二倍ある身長を足元まですっぽりと覆い隠している。肌はほとんど見えない。頭に被っている先の尖った帽子は、広い鍔が顔まで伸びている。ちらりと見えるのはその紫色の唇だけ。


「……なんだろうなあれは」


 ──その様子は、まるで魔女。


 古い御伽噺に出てくる悪者。子どもをとって食う魔女に瓜二つ。

 だがそれが邪気に包まれていることが俺には、分かっている。

 その気配に触発させられたのだろう。邪悪で禍々しく、人を意味もなく絶望に追い詰めるようなその気配。

 彼は、その境地に至ったが故に当てられたのだ。


 彼は一歩踏み出し、剣を抜く。

 ドレイクの剣に比べるとまだ小さいが、それでも通常の剣よりは大きい。鍛え抜かれた身体は、その剣を掲げた。


「僕が、やります……!!」


 それに反応するかのように魔女のような何かは、声を上げる。それは怪鳥の鳴き声でもあり、男性の低い声のようでもあった。そしてどこか悲しげでもあった。


 溢れ出る魔力の奔流。黒い渦がそれを中心に渦巻き、天を衝く。……それはただの魔力では、ない。黒々しい魔力の渦は、闇の力だ。しかし渦巻く魔力を電流が走るようにぱちぱちと黒く光る。

 普通の魔法使いであればそれを見逃したろう。俺ならば、その正体は分かる。間違いなく、邪気に侵食された魔力だ。


「いや、待て。ここは、俺に任せろ」


「し、しかし」


 ティグルの剣であれば、その邪気を斬れるかもしれない。

 しかし彼の現状は覚醒したばかりで不安定だ。もしこの魔女のような何かの『心を読めた』としても取り込まれる可能性は重々にあり得る。


「……お前には、やってもらわないいけないことがある」


「やってもらわないといけないこと……」


 呟くと、トニオは緩やかに剣を降ろした。


「これが終わればすぐ分かる」


 黒い魔女は、ただそのやり取りを見ていたわけではない。服か、それとも肌か。艶のある黒い手を上から下に振り下ろした、魔力の渦が黒い手の方向に弾き飛ぶ。……それは、地面。

 茶色の肌をした地面に紫の液体が溢れ出す。

 黒から紫へ。

 地面を一度潜った魔力は変貌する。

 これも無詠唱魔法の一種なのだろう。


「…………!!!!」


 魔女が声にならない声で鳴いた。

 揺れる。木が揺れる。木の葉を揺らし、そして落とす。落ちた葉は、みるみる内に緑色を失っていく。そして、水に溶けた砂のように崩れ去ってしまった。


「飛べッ!! トニオッ!!」


 その判断は的確。

 我ながら流石だと思う。


 地面は紫で満ちていた。


 さながら紫の海。生える樹々を腐り倒し、この世に存在する何よりも脆い物質へと変貌させる。

 超強力な毒の力。

 これがこの魔女の力。毒の魔女の力。


 木を余裕で超えるほど跳んだが、いずれ落ちる。俺は大丈夫かもしれんが、隣の少年は無事では済まないだろう。


 さっさと済ませる、か。

 俺は『視る』。そして理解する。

 誰かが言った。その力は異端だと。だが俺自身、特殊なことを何一つしたと思ってはいない。魔力を使ったわけでもないし、況してや気の力を使ったわけでもない。


 ただ『分解して、因果を把握』する。

 それだけのこと。


 その魔法の根源。その力の源泉。

 毒と土と水。紫と茶と青。

 ……こんなもんか。あとは、感覚だ。


「──さあ、やるぞ。ルシフ」


 【魔王の一噛】だ。


 俺とルシフの声が重なった。

 それを皮切りに、頭蓋骨が現れる。黒い煙を纏い、禍々しくも神々しい。それは、俺たちを包み込んでいく。

 もちろんそれは人の骸骨でなければ、魔物の骸骨でもない。黒い魔力で形取られた頭蓋骨。まさに、魔王の象徴。


 黒帽子の魔女は、俺たちを視る。

 その目が見えるわけではないが、視線が俺たちに刺さるのが分かる。憎悪はない。敵意も、ない。……そこにあるのは、果てしない悲しみのみ。


 対決、と行こうか。

 

 地上の紫色が一点に集まる。

 そしてそれは、伸びる。肉薄する。

 一直線に俺の元へ。撃ち込まれたのだ。


「……喰らえッ!!」


 【魔王の一噛】と毒の力がぶつかり合う。

 力と力が衝突は、轟音を生む。まるで頭蓋骨が叫んでいるかのように。

 その力は、強大。邪気に満たされた分、上乗せされている。


 ──だが、俺が負けるはずないだろう?


 拮抗は崩れる。

 骸骨が喰らう。魔力の奔流を。それは、誰にも止めることは出来ない。世界を喰らいつくすように。何もかも糧に変えるように。


 ──ああ、美味いぜッ!!


「おおおおおおおッ!!」


 それは、悲鳴。

 いや、感謝かもしれない。

 その業を喰らう、この頭蓋骨に向けた奉謝。


 黒き魔女は、その姿を失っていた。

 ……いや、元に戻ったというべきか。


「……ま、さか」


 地面に俺たちは降り立った。

 毒々しい紫色は失われ、残ったのは不毛と化した地面。周囲の緑は全て果ててしまったのだろう。


 その真っ只中に一つの遺体が転がる。

 黒く艶やかな肌は、白骨に。肉という肉は溶け落ち、人としての輪郭は消え失せていた。残ったのは亡者としての嘆きと、誰であるかを示すのはその身に纏った衣服のみ。

 豪華絢爛なドレス。それはあの舞踏会で、俺たちが見ていたドレス……。


「な、なんで母さんがこんなことに……」


 白骨の元で膝をつく少年の肩を叩く。

 少年は、ドレスから転がり落ちた小瓶を握っていた。


「……説明はあとだ」


 それが酷なのは、理解する。

 いや、理解しきれていないのかもしれない。母親が元からいない俺にとってその気持ちは、理解できないのだと思う。


「な、何か知っているのですかっ!?」


「……ああ。だが今は、ジュリアを優先する」


 それは、優先順位の問題。

 俺だからこそ決断できる所業。

 ……恨まれたって構わない。


「……くそっ!!」


 その表情は、いくつもの感情が入り乱れているのが分かる。

 だが今は、行かなくてはならない。


「……彼女はあとで葬ろう。今はジュリアを追うぞ」


 これ以上、犠牲者を出してはいけない。

 許しては、いけない。

 その胸糞悪い力を。その悪意に満ちた、手引きを。

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