十七話 胡蝶の夢

◼️



「きっと上手くいく、わね。……彼らなら」


 二人の姿が地平線に消えていく。

 彼女はそれを眺めていた。眠たげに目をこすりながら。


 一つ目の力の封印は解き放たれ、彼らは更なる旅路に着く。勇者と魔王は、今日も。


 彼女はもう一度眠りに着くだろう。

 その街は、彼女の眠りによって支えられている。と言っても過言ではない。

 彼女の良き夢は、人の良き夢を生み出す。

 この街の富は、彼女のお陰でもあるのだ。


 だが、それはきっかけに過ぎない。彼女は、そう思っていた。

 人が夢を叶えるのは己自身の力によるもの。

 彼女は、人の本音を引き出しただけだと。


 彼女は瓶を鞄の中から取り出した。

 その中に入っているのは最弱の魔物スライムに見える何か。無形で無色透明。だが確かに、生きている。

 彼女はそれを地面に投げ捨てた。

 当然のように、硝子で出来た瓶は砕け散る。

 まるで夢の世界が崩壊するように。


 中に閉じ込められていた魔物のような何かは、もう弱り切っていた。逃げ出す気力さえ、残っていない。


【炎よ】


 彼女は小さく呟いた。

 それは、火の魔法。端的に言うとするならば自分の指定したものを燃やす魔法である。とは言え、それは魔法の中でも最下級に位置しているために大した威力はない。本人の魔力の強さに依存するところもある。


 だがそれは、簡単に燃え尽きた。


 彼女はその特殊な力ゆえにか、魔力が強い方ではない。


 それは、それほどまでに弱り切っていた。

 それは、この街の負の集合体。と言ってもいい。光あるところに闇はある、と言わんばかりの存在。


 彼……いや、彼女。性別はこの際どちらでも良い。それは、ただの人間であった。腕っ節はそこそこ強く、戦士として少しばかり有名になったこともある。


 だが、堕ちてしまった。その街の魔力に惹かれ、取り込まれてしまった。

 それは、上手く立ち回ることが出来れば大した脅威ではない。人であれば誰しも乗り越えられる壁だ。だがその人間は、この街の負の部分を自ら受け入れてしまう。

 奥の奥まで入り込み、果ててしまった。


 その人間に目を付けたのが、騎士団長イーシュ。その人であった。


 そして、邪気を与えられた人間の欲望は、尽きることなく、負の部分と同化する。その結果として産まれたのが夢の怪物であった。

 夢の怪物は、街を取り込み、ウルを取り込むほどに強大に膨れ上がっていた。

 しかし、負の感情を力とするそれは、ほとんどの負の感情を抱かなかったウルに敗北する。

 本人にさほどそのつもりはないが、彼は確かに街を救っていた。


「……さて、もう一眠りしますか」


 二人が見えなくなるまで立っていた彼女は、街に戻る。そして夢の続きを見るのだろう。

 その夢はどのような結末を迎えるのだろうか。

 それは誰にも分からない。しかし。

 彼女は満ちた光に向かって歩いていった。

 悪夢のない、その世界に。

 きっとそれだけで十分だった。


 この全ては、蛇足かもしれないし、そうではないのかもしれない。夢は夢であり、それ以上のものではない。

 夢の世界は、まだ続いているのかもしれない。


 美しい蝶が空を舞う。


 ひらひらと。ゆらゆらと。

 そしてそれは、地平線に消えた二人を追いかけていった。


◼️


 一つの街がそこにはあった。

 だがその街は一つとは言えなかった。

 北と南。街は二分していた。

 北はティグル家。南はリンドブルム家。二つの名家が対立していた。


 元々、二つは一つ。初代当主は、剣の師弟関係にあった。そして免許皆伝を得た弟子は自ら一派を起こす事となる。

 師匠であるリンドブルムは弟子のティグルを大層可愛がっていた。そのために、別れた後も家族同然のように仲の良い関係であった。


 しかし、ある時を境に。

 始まりは、些細な些細ないざこざであったはず。だがそれは、小さな亀裂を産みだした。次第に、大きく。些細ないざこざが積み重なり、完全に決裂することとなる。


 時は現代に戻る。いや、ウルとルシフがこの街を訪れる少し前のこと。


 杖をついた一人の老人が街の門を潜る。

 老人は、しばらく何も食べていなかった。

 向かった先は、飯屋。

 飯屋の中は決して綺麗とは言えないが、これはこれで味のある佇まいであった。

 数人の先客ががやがやと騒いでいたが、老人が入って来るや否や、静まり返る。そしてその全員が老人をじろりと見た。


「……すまんが、飯をくれるか。なんでも良い」


 飯屋の主人は、今にも倒れそうな老人を見て急いで飯をこしらえた。

 人が変わったように飯を掻き込む老人。それを見た主人は、こう尋ねた。


「そんな遠くから、休まずにいらっしゃったんですか」


 老人は箸をぴたりと止め、声の主をじろっと見遣った。


「……ああ、そうじゃ。人を探していてな」


「人、ですか。それはどのような?」


「目付きの悪いガキじゃな」


「……ふうむ、生憎ですがこの街に訪れるかどうか」


「なにかあるのか?」


「……あまり大きな声では言えませんが、今この街では二つの御家が争ってまして」


「ほう」


「随分廃れてしまいました……」


 確かにこの街は廃れていた。

 一番の稼ぎ頭であった産業は、中断。比較的に位置の違い大都市の交流も無くなってしまった。

 老人は周囲を見渡し、食い終わった皿を机に置いた。


「言いにくいことがあるんじゃが、いいか?」


「はい、なんでしょう?」


「わし、一文無しなんじゃわ」


「……は?」


「ま、まて。この街、わしが救ってやる。……お代はそれでどうじゃ」


「……なんだと?」


 その声は、主人のものではなかった。

 周りで聞き耳を立てていた、男たち。

 どの男も屈強、その言葉が似合う。身に纏った筋肉の鎧は、鋭い刃であっても防ぎそうだ。その人相もなかなかに凶悪で、男でさえも道を譲るだろう。


 剣呑な空気が辺りを支配する。


「見掛け倒しか? さっさと掛かってこんかいな」


 対して老人は小柄。体格だけであれば、その男たちには到底及びはしない。だからこそ、その安い挑発は、男たちを逆撫でする。


「……のやろう、殺れッ!!」


 男たちは椅子を蹴るように立った。

 そして一番近くにいた男が腰に携えた剣を抜く。力に任せた一撃を老人に放った。


「……こんなところでそんなもん振り回したら危ねえよ」


 それは、杖。


「ば、馬鹿なッ……!! びくともしねえッ!!」


 杖に仕込まれた刃。

 少しはみ出した白銀の刃がきらりと光る。


「なにやってやがるッ!! おい、お前ら全員で掛かれッ!!」


 老人は、正面に受けた刃を押し返す。

 自分より遥かに大柄であろう男の一撃を易々と。

 そして、刃は神速で振り抜かれる。


「悪いことは言わねえ……。帰って飼い主に『雇わねば斬る』と伝えな」


 老人の前で男は静止する。

 一瞬の静寂。

 男たちは何が起こったか視えなかっただろう。

 だがその雰囲気は、伝播していた。


 

 

 決してその一振りは視えはしていない。だが、分かる。杖、いや鞘に戻っているが、その刃は身体を通っていったと。


 直感、だろうか。

 彼らは粗暴であるが、剣士でもある。その直感が、動けば斬られると伝えていた。それが彼らを制止していた。


 しかし、それは、男が仰向けで倒れた音で破り去られる。

 そして、残りの男たちは、逃げ出していく。我先にと狭い扉を潜り抜けて。その様子はまるで堤防が決壊し、溢れ出す水のようであった。


 からっ風が吹き抜けそうな店内に残ったのは店主と小柄な老人のみ。


「……逃げたら王都に通報しますからね」


「ああ、それで良い。……ここで待っておれば、あの馬鹿弟子も来ることじゃろうて」


 老人の目付きは、少し悪くなっていた。

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