八話 空飛ぶ少女

◼️


 それから時間がしばらく経った。陽は少し落ち始め、辺りは茜色に染まっていく。

 そしてここまで何事もない、快適な海の旅が続いていた。


 船を動かしている龍の名前は『リーフィ』と言った。

 海の魔物も近寄ってくることはない。それが俺の背にいる魔王のおかげなのか、強力な龍種であるリーフィのおかげなのか、それとも両方のおかげなのか分かりはしない。それが良いことなのは間違いないが。


「様子が変だ」


 更にしばらく進んだ頃。ルシフがそう言った。それは俺も気が付いたことだった。


「風が止んだ……いや、船が止まった、か」


「いや、休憩するために止まることはたまにあるんだよ……気になるなら呼んでみるかい?」


「ああ、頼む」


 彼女は、ひょいと樽を担ぐとそのまま海に投げ込んだ。

 樽はその重さに見合った速さで海面に到着する。飛沫を上げ、何度か浮き沈みを繰り返す。


「変だね……普段なら落ちる前に食べてしまうんだが」


 リーフィはまだ幼体である。人間で言えば子ども。遊びたい盛りなのは間違いなく、食べる以前に樽を水面に落ちる前に捕まえるのが遊びの一つだと言う。

 彼女テティスと同時に産まれていようが、人間と魔物では時の流れが違う。テティスが二十年前後生きていようが、リーフィにとっては四、五年……いや、もっと少ない時間経過でしかないのだ。


「幼い龍は食欲旺盛。食べ物の匂いには敏感なはず……」


 兜が海を覗く。


「……二人ともこっちを見てみな」


 甲板に積んであった大量の樽が忽然と姿を消していた。あった、とされる場所に女船長は立つが樽が戻ってくることはない。


「ッ!? おいッ!! 避けろッ!!」


 触手、だろうか。それが手すりを伝い、彼女を狙う。音もなく、気配もない。少し前に俺は同じものと戦った記憶がある。


「なんだッ!?」


 突き飛ばした彼女は驚きの表情と共に尻もちを付く。


「今の触手は、もしや……?」


「ああ、ウルよ。海の魔物クラーケンだ」


 クラーケン。俺の船を沈めた魔物。亀……いや龍のような顔と体躯を持ち、無数の触手を使って船を沈める巨大な魔物。

 船を沈め、陸まで追撃を掛けたクラーケンを撃退したものの殺すには至ってない。

 さすがの俺でも海の中で自由自在に戦うのは無理だ。


「【魔王の一噛】、やるか?」


「いや、ウルよ。下をよく見てみろ」


「……?」


 戦っている、いやこれはもしや。

 ……遊んでいるのか?

 二体の魔物は、絡み付くように肩を組んでいる。その表情は人間ではきっと見ることはできないであろう。鋭い目つきと口角は緩み、談笑しているようにも見える。


「このクラーケンはまだ幼い子ども。リーフィと気が合ったのだろう。……これほど巨大な魔物の子どもが揃うのは珍しいからな」


「こいつは、俺が追い払ったのとは違うのか?」


「ああ、違う。あれはこの子の父親だ」


 なあ、ケト。

 そんなルシフの呼びかけに魔物は、甲高い鳴き声と共に跳ね上がる。


「こいつは俺の事、恨んでいないのか?」


「ああ、むしろ殺さなかったことを感謝しているぞ」


「魔物にも家族愛、というものは存在しているんだな……」


「テティス殿も銃を降ろしてくれ」


「あ、ああ、驚いたが理解はできるぞ」


 それは、突然降ってきた。詳細を言えば、何かが降ってくるのを気がついてはいたが、なぜだか迎撃する気が起きなかった」


「ちょっとおおおおおおおおおおおおお!!!!」


 叫びながら目にもとまらぬ速さで甲板に何者かが着地する。


「なんでクラーケン大人しくなっちゃってるのよっ!?」


 黒い翼を折りたたんだ少女は、手すりに走る。そして海面に向かって叫んでいた。……似たような誰かをどこかで見た記憶があるな。


「なあ、こいつ、誰か知っているか?」


「ああ、四天王デミウスの一人娘であり、黒翼隊の隊長、ユースティアだな」


 父親と体格は、天と地ほどの差はあるが特徴は良く似ている。黒色の翼に、黒い尻尾。肌は白い。しかし、顔立ちは似ていない。なかなかな美人であるところは認めざるを得ないだろう。おそらく母親似なんだろう。だが勝気で傲慢さが溢れ出しているところは、あの父親とよく似ている。


「ユースティア隊長、ここに何をしに参った?」


 ルシフの部下なのは間違いない。


「魔王様っ!! どうしてそのような輩と連んでいるのでございますかっ!!」


「つ、つるんでる? ……いや、我は協力関係を」


「……何を言っても通じないようですね。ならばその人間を八つ裂きにするのみッ!!」


 そりゃこっちの台詞だ。どうしてそうなる。心の中で突っ込みを入れる。親父同様、そそっかしいみたいだな。……こりゃ部隊は苦労するはずだぜ。


 翼を広げ、空に飛び立った。


「私は、父とは違う。あのような立派な体格も持ち合わせていない」


 筋肉……馬鹿……。もうその認識でしかない。


「だから私は誰よりも速く駆けるッ!!」


 身体がぶれ、普通の人間では見えない速さまで加速する。彼女の名誉の為に言っとくことがある。その並々ならぬ速さで俺の周囲を飛び回るのは至難の技。空中で角度を変えるのは、優れた魔物でさえ出来ないだろう。


「……だがな、相手が悪いぞ小娘」


 俺の目は確実に捉えていた。そしてその動きについて行くことも出来る。あの狼より、遅いかもしれん。


「ちょ、ちょっとなんで掴めるのっ!?」


 ちょろちょろした尻尾が俺の手に収まっている。驚いて目を丸くしている小悪魔だが、正直そんなに難しいことじゃあない。


「は、はなせっ!!」


「……ほらよ」


 変な声を上げながらユースティアは、甲板に激突する。


「いっつつ……何すんのよっ!!」


 息を飲みつつ、飛び退く。黒き翼は、立ち上がるときにも便利だ。そこそこの距離を取って警戒しながら彼女は罵倒を投げかけている。


「……加減しているうちに去れ、ユースティア隊長よ」


「ま、魔王様っ!? どうしてそのようなっ!?」


「我々は、遊びに出かけているのではない。重要なことを成し遂げに行こうとしているのだ」


 たまには威厳のあることを言うじゃねえか。最近、ちょっとぽんこつ気味になってきていたが、魔王は健在というわけだな。


「くっ……!!」


「……いや、ちょっと待て」


「だからなぜ、尻尾を掴むっ!!」


 なぜって掴みやすいからに決まっておろう。高速で逃げ去ろうとするユースティアを俺は捕まえていた。常人に目で見れば、消えたと思ったら俺の手元にそいつがいるような感覚。まるで魔法のような感覚だろう。


「……辺りをしっかり見ろ」


 まるで雲の中を飛んでいるように。辺り一面を白い霧が包み隠す。俺は、この現象を知っている。


「お、おい、なんだこれは……ほんの少し前まで何もなかったじゃないかっ!!」


 どうやら俺の手元で喚いているこいつの仕業ではないらしい。

 綺麗な夕焼けはいつのまにか飲み込まれ、あるのは白い景色のみ。夜の訪れ、だろうか。ぐっと気温が落ち込んだように寒い。だが、星々や月の光が差し込みはしない。一寸先は闇。下手をすれば暗闇より暗闇だろう。

 

 何かが水面を搔きわける波の音。それだけを残し、一瞬の静寂が訪れる。誰も声を出しはしない。耳を澄ませば呼吸音が聴こえてくるかもしれない。

 急激な変化に誰も理解が追いついてはいないのだろう。

 それは、俺でさえも。


「……フライング・ダッチマン」


 巨大な船が姿を現わす。霧の中を彷徨うようにゆらゆらと、ゆらゆらと。


「知っているのか?」


 ぼろぼろの帆が広がり、船の端の手すりは所々壊れている。少し見ただけでもそれは分かった。夥しい数の切り傷や、弾痕が刻まれている。


「ああ……もちろん。……父を殺したのはこの船だ」

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