第3話

 ドクターが少女を連れてきたのは、夜更けだった。近頃不眠が続き、今晩もなかなか寝付けなかったリックは諦めてベッドから這い出し、一人でスープを作っていた。ドクターはCGCから帰ってこない。最近は日付が変わってもまだドクターが戻ってこないことが常態になりつつある。


 ここに派遣されてもうすぐ一年。国内最高峰の研究が出来ると聞いて意気込んでやってきたのに、ろくな仕事という仕事もなく、日がな一日座っているだけ。おまけに上司のドクターはいつも無表情で、何を考えているのかさっぱり分からない。天才は皆、ドクターのように他者との交流に消極的なのか? 今朝もそうだ。誰のせいで寝不足だと思っているんだ。自分のような経験の浅い若輩者にこの役が回ってきたのも頷ける。当初はお上の懐の深さに感激していたのが馬鹿らしい。前任者が立て続けに辞めていく訳だ。リックが悶々としているのも知らず、ドクターは毎晩遅くまで、リックの知らないところで研究に掛かりきりだ。

 苛立ちながら鍋に水を張り、火にかける。なかなか沸騰しない水面をうんざりしながら眺めていた。

 ふと、物音がした。深夜の真っ暗なキッチンに、人影が二つ。酷くびっくりした記憶がある。


 ドクターはいつもの白衣を着ておらず、代わりにその隣の少女が白衣を羽織っていた。少女の名前はソフィアと言い、ドクターの親戚か何かにあたるらしい。ドクター曰く、ソフィアは記憶喪失で、あらゆる知識が欠落しているという。だからこれから我々が教えていくんだ、とドクターはいつになく目を輝かせて説明してくれた。ソフィアはこげ茶の髪をショートカットにしていて、くりっとした目元とよく調和している。整った目鼻立ちが一層彼女の無表情を際立たせる。どこかちぐはぐな少女。それがソフィアに対する第一印象だった。

 ソフィアの腹が鳴った。リックはソフィアにテーブルの椅子を勧め、鍋で温めていたスープを器に注ぎ、スプーンを添え、彼女の前に置いた。ソフィアはその一部始終を興味深そうに見つめ、今は目の前の湯気を上げるスープに釘付けになっている。

「良かったら、どうぞ」

 リックがそう言うと、ソフィアは不安げにドクターを目で追った。ソフィアの視線を受けたドクターもまた、リックに求めるような目配せを寄越す。

「──別に毒なんて入ってませんよ! 何なら毒味でもしますか?」

 リックは憮然として噛み付く。

「いや、毒味は結構だ。私は君の忠誠心を信頼している。そうではなく、これは…………所謂、スープというものなのか?」

「もしかしてドクター、スープを召し上がったことが」

 ないよ、と即答された。

「知識はあるけれど、実物を見るのは初めてだ。普段はレーションしか口にしない」

 ドクターは以前、自分は生まれてこの方研究室から出たことはない、と言っていた。まさか本当に箱入り娘だったとは。

「良かったらドクターも召し上がりますか?」

「是非に」

「かしこまりました」

 スープをもう一杯注ぎ、ソフィアの隣の席に置く。ソフィアの横に座ったドクターは、まるで研究対象を試すかのように、目の前で湯気を立てる液体に目を細めている。

 ソフィアがスープの器を両手で持ち上げ、盃を飲み干すかのように思い切り良く傾けた。まずい、と思ったが遅かった。熱々の液体をもろに口で受け止めてしまい、ソフィアが軽く悲鳴をあげる。舌を火傷したのだろう。もしスープの器を取り落としでもすれば、火傷が他の箇所まで及ぶ。二次被害を避けるため、リックは反射的にソフィアの器に手を伸ばした。ソフィアは成すがままになってリックに器を渡し、咳き込んでいる。横でドクターが驚いている。

「申し訳ありません。スープの召し上がり方をお伝えしていませんでした」

 リックは器を元の場所に戻し、ソフィアのスプーンを手に取る。

 スープは大半が熱いものであること。中には冷たいものもあるが。器に触ってみれば分かる、と言いかけて訂正。ご丁寧にも、ここの食器はみな断熱仕様だった。とにかく、湯気が立っていれば熱いと分かる。そのため、スープを飲む時には時間が経って冷めるのを待つか、あるいはスプーンですくって冷ましながら飲むかする場合が多いこと。そして、ボウル状の器に入っているスープはスプーンを使って飲む、ということ。

 以上のことを説明してもソフィアはまだ腑に落ちないようで、首を傾げている。リックはスープをすくい、息を吹き掛けて少し冷ました。

「口を開けて頂けますか?」

 一匙分のスープを飲み込んだソフィアの顔に喜色が浮かぶ。

「これなら熱くないでしょう?」

 リックはソフィアにスプーンを返した。ソフィアの隣のドクターも、見様見真似でスープを口にする。

「助手、これがスープというものなのか!? これほど食欲をそそる味があるとは!」

 珍しくドクターが興奮している。お湯に粉末を溶かしただけの、ただのコンソメスープに、だ。ソフィアも美味しそうに手を動かしている。

 あっという間に二人とも飲み終わってしまった。

「────そういえば、自己紹介がまだ済んでいなかったな」

 器を空にしてから、気付いたようにドクターが言う。

「助手、ソフィアに挨拶を」

 ドクターに促される。

「僕はリックです」

 私の手伝いをしてくれている、とドクターが付け加える。

「よろしくお願いします」

 握手しようとしてリックがソフィアに手を差し出すと、ソフィアは当惑してドクターの方を見た。それを見て、ソフィアにはまだ知識がないのか、と合点する。引っ込めようとした手を、ドクターに握られた。

「改めてよろしく、リック」

 何故、と戸惑ったものの、ソフィアに挨拶を教えているのか、と時間差で飲み込めた。続いてソフィアがリックの手を握る。

「…………よろしく、リック」

 正確にはリックの発音はLではなくRなのだが、今は黙っていよう。


 ご馳走様でした、と言い残して、その後ドクターはソフィアとどこかに行ってしまった。後ろで無造作に括られたドクターのポニーテールと、ソフィアのショートカットが並んで遠ざかっていく。残されたリックは一人食器を片付ける。お陰でリックの分のスープは無くなってしまったけれど。

 さっきドクターと握手をした。予想に反して、ドクターの手は温かかった。そして、助手ではなくリック、と初めてドクターに名前で呼ばれたことに気付いた。

 たったそれだけで、と自分でも思うが、先ほどまでの後暗い気持ちは、スープと一緒に綺麗さっぱり消えて無くなってしまった。

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