かすみか雲か はた雪か
その日は珍しく、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
手早く支度を済ませ、朝食を喉に流し込む。せっかく早起きしたのだから、朝のホームルームが始まるまでの間、教室で自習でもしよう。私のクラスの人のほとんどは始業ギリギリに登校してくるから、静かに勉強できるはずだ。
そう意気込みながら勢いよく玄関のドアを開けて、私は「ひゃっ」と声を上げた。
「寒い! 冷たい!」
雪が降っていた。
太平洋に面しているこの地域では雪なんて滅多に降らない。それもこの季節に、うっすらと積もるほどに降るなんて、私が知る限りでは初めてのことだ。
去年、雪が降った時は学校が臨時休校になった。今日も休校にならないかな、と淡い期待を抱いて学校のホームページを確認したものの、特に何も書いてなかったので、改めて学校に向かうことにする。
自転車のタイヤが滑りそうで怖い。しかし他に学校に行く方法もないし、のんびりしていたら時間がなくなるので、私は意を決してカッパを羽織り、愛用の自転車に
学校に着いてからカッパを脱ぐと、雪の塊がぼたぼたと地面に落ちた。冷たい風と雪に晒された手が真っ赤になっている。手袋をすればよかった、と後悔しながら両手を擦り合わせるも、じんじんと感覚が麻痺している感触は消えない。
このままじゃシャーペンもろくに握れない。せっかく早く来たのに、と独りごちたところで、白い物体がぬっと視界に入って来た。驚いて顔を上げると、目の前に
国見は私が口を開くより先に、何かを私の手に押し付けた。
「しもやけになるから、ちゃんと拭いといたほうがいい」
「え、あ」
声をかけられて、私はようやく自分の手にあるのが彼のハンカチだということを理解した。申し訳なくて使えない、と突き返そうとするも、彼はさっさと自分の自転車を停めにかかってるし、何より私の喉が渇ききっていて咄嗟に声が出ない。
仕方ないので、ありがたく手を拭きながら生唾を何度か飲み込む。やっと手と喉の感覚が戻って来たところで、国見が振り返った。
「手、大丈夫そう?」
「うん、ありがとう、それとおはよう。ハンカチ、洗って返すよ」
「いや、そのままで大丈夫。ほら貸して」
ひょい、とハンカチが取り上げられて、手のひらに冷気がまとわりついた。その感覚が鬱陶しくて、さり気なく手のひらを擦り合わせる。ほぉっ、と指先に息を吹きかけると、指の周りの空間が白くなった。
日常の音が、不自然なほど遠くに聞こえる。自転車を停める音、生徒の話し声、校舎に向かって駆けていく足音。音に溢れる世界から私たち二人だけが切り離されてしまったような、そんな感覚。もどかしく、くすぐったい。
私はすっかり手持ち無沙汰になって、彼に改めて礼を言ってからこの場を立ち去ろうと顔を上げた。そうしたらまたしても、私が喉を震わせるより先に、彼が口を開いて。
「佐々木さん」
不意に放たれたその一言に、心臓が跳ねた。
身体の奥の方の熱が一気に膨らんで全身を駆け巡る。この数分間どうにか抑えていたそれは、あっという間に私の頬や手を覆い尽くしてしまった。
優しい声。いつもよりワントーン高い声。大好きなその声で私の名前を呼ばれると、自分が自分でなくなってしまう気がする。頭が真っ白になる。心臓の音がうるさい。
もっと名前を呼んでほしい。もっと一緒にいたい。やっぱり私は、この人のことが--。
しかし、私はこの気持ちを国見に気づかれたくないのだ。バレてしまえばきっと、気恥しさと気まずさが生まれて、こんな風に何気ない会話をすることも無くなってしまうかもしれない。私はそれが、怖いのだ。
ここまで、この年の瀬まで隠し通したんだ、どうせなら最後まで隠し続けてやる。
ここまでの思考にかかった時間は一秒にも満たなかった。大丈夫、私、不審な反応はしてないはず。いつも通り、そう、いつも通り。
私は何もかもを身体の奥に押し戻しながら、できるだけ明るい笑顔で彼を見上げた。
「なに?」
「カイロもあるけど、使う?」
「え、いやそんな悪いって」
「何個かあるし、気にしないで。ほら」
まっすぐな瞳が、早く受け取れと催促してくる。私は彼の手元に目を落とし、両手を差し出した。ぽすん、と無機質な温もりが手のひらを包む。
「それじゃ」
「あ、ありがとう!」
私がカイロを受け取ったことに満足したのか、国見は口の端に笑みを浮かべて歩き去った。
取り残された私は、そっと、カイロを握りしめる。
放熱しきっているカイロは、しもやけになりかかっている手には刺激が強い。痛みと痺れが襲ってきても、私はそれを手放す気にはなれなかった。
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