ワルキューレの微笑
@P_D_
前編
~~~ マレビトの村 逆密室殺人事件 ~~~
<綾瀬川政利救出における顛末>
◆◇◆◇◆
「山菜取りに行くわよ」
仕事の報告書を作成していた俺に、職場である今給黎探偵事務所の所長、
仁王立ちで左手を腰に当て、右手の人差し指を俺にびしっと突きつけるポーズを決めて。
人を指さすな。
「そうか、気を付けてな。暗くなる前に帰るんだぞ」
「アンタも行くに決まってるでしょうが! あたしの荷物は誰が持つのよ!」
今度は両手を腰に当てて前屈みになって睨んでくる。
美形ではあるがもともと目つきがキツイので、表情だけ見ると迫力がある。
とはいえ、身長150センチあるかないか(本人申告「実質155センチ相当と言って過言ではない」)ぐらいの彼女が、190センチある俺に向かってやっても、椅子に座っている俺のほうが目線は高いので、全体的に見れば大人ぶってる子供のようで微笑ましさすら感じられる。
実際、これまでの付き合いから、彼女は我儘を言って怒っている時の方が、俺にとっても、その他大多数の人にとっても、平和な時であるのは理解しているので、あながち間違った感想でもない。
「いや、お前の荷物は普通にお前が持てよ。なんだ藪から棒に」
「時期的にも天気予報的にも今がいいのよ。梅雨が来る前に行かなきゃいけないの。マルコもこの国の色んなところに行って見聞を広めたいって言ってたじゃない。日本の文化を体験するいい機会よ」
「相変わらず計画性のないやつだな。お前、新興宗教の調査の依頼はどうするんだよ。さっきもその件で調査に出てたんじゃなかったのかよ」
「悪徳エセ宗教なんか、少しくらいほっといてもなくなりゃしないわよ。でも山菜の旬は短いのよ」
「なんでそこまで山菜取りに義務感を感じてるんだよ」
「山菜だけじゃないわ。野草も採るわよ。薬草採取は定番依頼よ」
「俺は探偵事務所に勤めてるんであって、冒険者ギルドに登録した覚えはないんだが」
「マルコもすっかり日本の文化に馴染んだみたいね。その侵食の速さに驚くわ。いいから行くわよ」
そう言うと、俺に巨大なリュックサックを放ってきた。
小柄な彩子なら入りそうな大きさの、いつも遠出する時に使うやつだ。
こいつ、本当に荷物持つ気がないな。
◆◇◆◇◆
今給黎彩子は現代に生き残った数少ない名探偵と自称している。
探偵業も企業化が進み、大手が小さな仕事までさらっていく現代において、住居兼とはいえ実際に探偵事務所を構え、メディアに取り上げられるような活躍をしているわけではないとはいえ、探偵業で生計を立て、所員が俺だけとはいえ、人を雇って成り立っているのだから、探偵業という仕事で有能であることは事実だろう。
ただ、一般に名も顔も知られていない彼女が、初見で与える印象は「名探偵」ではなく「美少女」である。もしくは「お嬢様」だ。
目つきはキツイが西洋人形のような整った顔立ちに、日本人形のような長い黒髪。148センチ(自己申告のため実際にはもう少し下である可能性が高い)の小柄な身長と華奢な手足は、小学生に間違われる事すらある。その上、着ている服はヴィクトリア調のドレスっぽいワンピースだ。ふんわりと広がったロングスカートに隠してハイヒールを履いているため身長は底上げされていて、本人も155センチと言い張っている。ただ、残念なことに、彼女の涙ぐましい努力と主張は、彼女の外見が与える印象に何の変化も与えていないし、彼女が理想とする名探偵像に寄せることすらできていない。
彼女の理想の女名探偵像というのは、セクシー&クールらしい。射撃とアクションが得意だが、普段は清楚で頭脳明晰な令嬢で社交界やサロンでは憧れの美女なんだと。
現代日本のどこに射撃が活躍する舞台や、社交界やサロンなどというものがあるのか、寡聞にして全く知らないが、きっとどこかにあるのだろう。
俺は彼女から名探偵論を聞かされるうちに、彼女の理想の女名探偵像に聞き及んだわけだが、それを聞いた俺が、熱く理想を語るちんまりとした彩子を、生暖かい憐みの目で見てしまったのは仕方ないだろう。
ちなみに彼女が探偵事務所の内装から服装までヴィクトリア調で揃えているのは、名探偵界のビッグネーム、かのロンドンのベイカー街に居を構えていた御大を尊敬しているからだ。かの名探偵、あるいはドイル卿が偉大であることは俺も同意できるので異論はない。
そして、なぜ俺がこんな異郷の地で彼女の助手なんかをやっているかというと、半ば彼女に拉致されたからだ。
俺の故郷に彼女が仕事でやってきて一騒動起こした後、故郷で浮いていた俺は何の因果か彼女に連れられてこの国にやってきた。ほぼ、俺への意思確認はなかったので、流されるまま、あれよあれよと進んだ結果だった。
その辺の話は、また機会があればということで。
田舎者だったその時の俺は外国に行くことすら初めてで、どんな手続きが必要なのかとか全く知らなかった。その辺は結局彼女がやってくれていたので、困ることはなかったが、当然日本の事なんか名前すら知らず、最初は言葉を覚えるところからだった。
しかし、俺が故郷で浮いていた原因でもある知識欲や論理的思考は、この国で生活する上で十二分に役立ってくれた。その気になれば大した労力もなく知ることができる膨大な情報を、乾いた大地が水を吸い込むかのように我が物としていった。
さて、そんな俺が知識として知っている現代日本の山菜取りは、セリやワラビなど食用としての植物を採取するものであったはずだ。
決して、毒々しいキノコや、明らかに法律に抵触するヤバそうな植物などをも、一緒くたに採取するものではなかったはずだ。
そもそも、現代日本ではスーパーなんかの店舗で買えないようなものは滅多にないので、山菜取りは半分くらいはレジャー感覚でのイベントと考えていた。ピクニックのようなものだと。おそらく一般的な認識はそれで間違っていないはずだ。
道路が崩れて復旧していないから、とかいう理由で、その場に車を乗り捨ててでも、山奥まで分け入って強行するようなものでもなかったはずだ。
そして何より、夢中になって突き進んだ挙句、車への帰り道が分からなくなったりするのも、一般的な意味で山菜取りとは呼ばないはずだ。
それは普通に遭難と呼ぶと思う。あるいは、山を舐めた馬鹿の末路。
しかし、決めつけは良くない。俺が間違っている可能性だって残されている。
俺の故郷は田舎だったが、だからこそ森で猟なんかをしているヤツは森で夜を明かすこともあった。
今も後ろを振り返りもせずに、無言で山を登っていく(つまりはどんどん奥へ進んでいる)小柄な彼女の背中は、目的地があって進んでいる自信満々な姿に見えなくもない。
それがたとえ、さっきまではしゃぎながら嬉々として食用・毒草お構いなしに採って、俺のリュックに詰め込んでいた時の雰囲気と一変しているとしてもだ。
とは言え、俺の本分は荷物持ちでも、薬草採取の冒険者でもなく、今給黎彩子の
間違っている可能性があろうとも、分かり切っている事だろうとも、口に出すことで名探偵の引き立て役になることが
彼女の長広舌を覚悟しつつ問いかける。
「なあ、もしかして道に迷ってないか?」
「うるさいわね! その通りよ! アンタのせいよ!」
俺の予想を悉く裏切って、端的に三言で直接キレられた。いや、罵倒されたのは予想通りか。
でも、いつもお前が語っている名探偵論とかを放棄するの早くないか?
そんな切羽詰まった状況でもないだろうし。
俺のせいと言われれば、確かに俺がいなければ、運転免許を持たない彼女だけではこんな場所へ車で出かけようなどとは思わないだろうから、あながち間違った指摘でもないのだろう。
「そんな慌てる時間でもないだろう。ほら、さっきお前が採ったハーブでも舐めて落ち着け」
「わあ、ありがとうって、それ毒草じゃないの!」
「大丈夫だ、デカい蛇が膨れた腹を落ち着かせる時に食べてたから」
「蛇含草なの? 溶かす気なの! ほんとアンタ日本文化吸収しすぎじゃない?」
しょうがないじゃないか。何の楽しみもない田舎から、突然こんな面白い文化の洪水に浸けられたら。
「はぁ、まぁいいわ。おかげで落ち着いたし。でも慌てる時間なのよ。アンタの住んでた田舎はだだっ広い森の中だったから馴染みがないでしょうけどね。いくら日の入りが遅くなったと言っても、日本の山はね、夕方になると急速に暗くなるのよ」
「ならなんで登ってるんだ。それだと絶対に山を下りられないだろう」
「山頂に出たほうが結果的には早いからよ。山で迷ったら、体力温存のため捜索が来るまで動かないか、山頂を目指すのは常識よ。今日は日本の山の知識が学べて良かったわね」
嫌味っぽくなく俺にそう言ってくる彼女ではあったが、残念なことに俺はここまでの会話で、彼女が気づいていない事実を指摘しなければならなくなった。
「なら、山頂を目指すのはやめて、その木のところを左に進んでくれ。さっきから幾つも複数の人が定期的に歩いたと思われる跡がある。たぶんそれを辿れば人里に出るはずだ」
とても見つけづらいが、人が踏み分けた跡がある。田舎の森で猟の手伝いをした知識も役に立つものだ。
俺が親切に指摘した事実に対して、今給黎彩子は顔を真っ赤にしてプルプルと震えながら絶叫した。
「なんで早く言わないのよ! やっぱりアンタのせいだったんじゃないのよぉ!」
親切に対して怒声で応える。
やはり名探偵という人種はかくも異常者なのである。
◆◇◆◇◆
「うひゃぁ!」
気の抜けた声とともに、腰も抜けたのか、驚いて尻餅をつく中年男性。
畑仕事でもしていたのか、手には使い込まれた鎌を持っているので、むしろ危険を感じるのはこちらの方だと思うのだが、夕暮れの陰の濃い森から出てきた俺たちと突然遭遇すれば、そうなるのもむべなるかな。
暗がりから現れた金髪碧眼の190センチの外人。ベージュのスラックスとベストにワイシャツとループタイ。仕事中に連れ出された俺は、背負った巨大なリュック以外は全く山にそぐわない格好だ。
更に隣には目つきはキツイが、黒髪ロングのちびっ子美少女。
靴こそいつものヒールから山歩き用にブーツに履き替えている(そのせいで身長を実質155センチ相当と言い張るのは過言になっている)が、黒髪黒目であるものの、服装はいつものヴィクトリア調にコーディネイトされたドレス風ワンピースのままのためお人形のようでもある。
付け加えるなら、もちろん、山にこんな格好で来る奴はいない。
妖怪に出くわしたかのような反応も頷ける。
日本の
これは間違われないためにも声をかけなければ。
「ワタシ オニ チガウ。ヨウカイ チガウ。ニホンゴ オーケー」
「短くない付き合いだから、どんな思考を辿って、そんな発言になったか大体わかるけど、……なんでカタコトなのよ! アンタその辺の日本人より流暢に喋れるでしょうが!」
ブーツで俺の足を蹴り上げながら、彩子のツッコミが冴えわたる。
そんなコントじみたやり取りに毒気を抜かれたのか、中年男性はようやく立ち上がる。
「あ、あんたら、山の外から来なすったんか?」
「イエス! ヤマノ クサ トリニ うぼぁ」
「黙りなさいエセ外国人。驚かせてごめんなさい。私たちは山菜採りに来て迷ってしまった者です。麓の町か、山中の車道まで戻りたいのですけど、どなたか車でそこまで行く方はいませんか? よければ同乗させてほしいのですが」
俺の鳩尾に肘を叩き込んで、何事もなかったかのように会話する生き人形。
傍若無人でありながら、必要に応じて外面を取り繕えるのは、亀の甲より年の劫というやつ……おっと、静かな殺気が飛んできた。思考を読むとかサトリの妖怪かな?
年齢に関しては以前マジギレされて半殺しにされたので、言葉にしないように学習したのに、思考すら許さないとか言論統制を超えて思想統制かよ。
そんな殺気には全く気付かず、中年男性は立ち上がると、今度は胡乱げな表情で問いかけた。
「はぁ? 山菜採り? こんななんもねぇ山奥までかぃ? 普通山菜採りはもっと行きやすい場所でやるもんだろぅ?」
ですよね。俺の知識間違ってなかった。いいぞ、もっと言ってやれ名も知らぬおっさん。
思わず、見ず知らずの男性を応援してしまう。
「ええ、だから山の中を彷徨っていたんです。もう日も暮れそうなのでどうしようかと思っていたところ、偶然ここに辿り着きました」
ニッコリ笑いながらも、疲れた様を前面に押し出して答える彩子。不遇の困難の中で掴んだ幸運に喜ぶ健気な薄幸の美少女演出が入っている。
ぶっちゃければ、通行止めされているのに強行して山に入った挙句、食用でもないヤバげな草の群生に狂喜して突き進んだ結果の遭難なので、自業自得以外の何物でもないのだが。
おっさんは暫し考えた後に答えが出たのか、予想外の回答をした。
「それなら、マレビト様だな。歓迎が必要だぁでついてくるといい」
踵を返すと、数件しかない家がある方向へ歩き始めた。
いや、歓迎とかどうでもよいので帰りたいんですけど。
見れば彩子はチェシャ猫のような顔になっている。
おっさんの言葉は完全に彩子の興味を引いたようだ。
こうなったら俺の言う事なんか全く聞かないのは経験則上理解している。
俺は、意気揚々と歩く、生き人形の外見にチェシャ猫の顔をつけたサトリの後を、ため息をつきながらついていくのだった。
◆◇◆◇◆
案内されたのは、最低でも築30年以上は経っていると思われる家屋が5、6件寄り集まっている場所だった。家よりは比較的新しく建てられたと思われるものが、一番安っぽいプレハブの倉庫っぽいものだというのが哀愁を誘う。
少し離れた場所にも、家屋がポツリポツリと点在しているようだが、そのどれもが、すでに廃屋と呼んだほうがいい状態になっているようだ。
山中の少しだけ平坦になった場所に畠が作られ、家々はその畠を囲うように斜面にへばりつくように建てられている。
その畠も、ほとんどがおざなりな手入れがされているだけで、とても農家が管理しているとは思えないお粗末な状態だった。
如何にも山奥の過疎の村といった風景だが、一点だけ、予想に反してというか、根底を覆す現実があった。人が沢山いたのだ。若者が20~30人ほど。過疎でも何でもない。しかし、異様な光景だった。
男性ばかりの十代後半から二十代前半の若者が、思い思いの場所にたむろして煙草を燻らせていたり、談笑したり、体を休めたりしていた。
どう見ても民家に入り切る人数ではない。
そして、彼らの風体もまた一般的なものではなかった。
それを見てテンションを上げる者が一人。なんと俺だ。
『彩子! 見てごらんよ! もう都会では見ることのできなくなった絶滅危惧種のヤンキーだよ! ほら、あの派手な色の前に突き出した髪! 警戒色かなぁ? 彼なんかカッコいい漢字がいっぱいお経みたいに書いてある服着てるよ。クールだね。耳無しホーイチみたいな防御特化かな? モヒカンもいるのにトゲ付きパッドがないよ? ここってもしかして絶滅危惧種保護の動物園とかかな? ガングロコギャルとかもどこかにいるのかな? おおっ! 睨んでるよ! これがヤンキー特有の威嚇行為メンチ切りってやつだね! 同じようにメンチ切って近づいていくのが礼儀なんだよね。やったほうがいいのかな?』
テンションが上がりすぎて思わず母国語で彩子にまくし立ててしまった。
彩子は呆れたような目でこちらを見つつ同じ言葉で返してくれた。
『アンタのテンションの琴線がわからないわ。日本語で言わない辺りに理性が残ってるんだと思いたいけど、単なる偶然みたいね。威嚇行為はやめなさい。動物園で動物にちょっかいかけるのは禁止行為よ。この人数で大乱闘したいなら私のいないときにしてよね。撮影もしちゃだめ! ステイ!』
興奮状態の俺を犬でも躾けるように、ループタイを引っ張って首を曳きやがった。
ひどい飼い主もいたもんだ。
その様に、ヤンキーたちの態度が威嚇から嘲笑に代わる。
子供みたいな彩子に逆らえずに引っ張られているからだろう。
しかし、彩子の言った動物園で動物にちょっかいをかけないというのは、なるほどと納得できたのでおとなしくする。絶滅危惧種を保護しているのに、ちょっかいを出してストレスとかで絶滅されてしまっては申し訳がない。
そのままおっさんは集まっている家の中で一番大きくて一番古い家に入っていくので、後について入ると畳敷きの和室に通された。
「長々と歩かせてすまんかったなぁ。食事の用意をさせるんで、この部屋で待っとってくれぇ」
「あの、一応聞いておきますけど、麓には送ってもらえるんですか?」
「そりゃ無理だぁ。ここにつながる道はこの前の雨で崩れてしもぅて復旧しとらん。電話線やらなんやらも全部その時に切れてしもぅとる。歩いて下りるのも山に慣れとらんモンはやめたほうがええ。特に夜はなぁ」
おっさんが部屋を出ていくと、彩子は
俯いて肩を震わせている。
こういう時に、俺は彼女を慰めたりなどしない。どころか、彼女に関わろうともしない。
彼女を無視して背を向け、ようやくという感じで大きなリュックを部屋の隅に下す。
失意に沈む美少女を放置するとは何事か! との叱責が聞こえてきそうではある。
だが、その意見は甘いとしか言いようがない。彼女を知らない素人の見解だ。
こちとら彼女との付き合いはそれなりにある。
数年ではあるが、住居も職場も一緒なのだ。
正しくおはようからおやすみまでなのだ。
そんな
彼女は今とても気持ち悪い笑みを浮かべているはずだ。歓喜に打ち震えながら。
◆◇◆◇◆
「くっろーずどさーくるキタコレ!」
案の定、おっさんの気配が遠く離れると右手を突き上げて、気色悪い笑顔で叫んだ。
「
これでもかと、好物を並べられた満漢全席のようなものだ。彩子が喜ばないわけがない。
しばらくぶつぶつとどのパターンなのかとか、妄想を呟いていたが、俺が淡々とリュックの中身を整頓し終える頃には意識が現実に戻ってきた。
「ねぇ、
「雇用主の要望には従いたいところなんだが、今から犯人を用意するとか、後期クイーン問題の状況を作るのは無理だろ。死体を用意した場合は俺が直接犯になるわけだが、見逃してくれるのか?」
「まさか。真相を究明しない名探偵なんていないわよ。いい海沿いの断崖なら紹介してあげるわ」
「いや、真相を究明した場合お前が黒幕なんだが。それに、なんで結末が2時間サスペンスなんだよ。せめてライヘンバッハの滝とかにしろよ」
「教授と同じ場所とか烏滸がましい。それにそれだと私も落ちるじゃない。海沿いの崖なら下は海だし、アンタ頑丈だから多分落ちても死なないでしょ。消失トリックであんたは無事、私は希望を叶える。ウィン-ウィンじゃない」
「たしかに海とかに落ちた人間は生きてるのがお約束だけど、頑丈だから崖から飛び降りて平気でした、なんて脳筋な答えの消失トリックとか炎上待ったなしだな。あと、お前の中で俺が粗い扱いでいいという認識なのはわかった」
実際には崖の真下は岩場なわけで、港でもない限り、落下の衝撃を受け止めてくれるほど深い海ではないし、上から認識できないほどの距離がある高さなら、水面だとしてもコンクリートに落ちたのと変わらない衝撃はあるはずだ。
そして俺のことを烏滸がましいと非難しておきながら、さらっと自分は伝説の名探偵ポジに入れているあたり彩子らしい。
「事件がなくても謎はあるだろ。山奥の村が
俺の言葉に、彩子は小憎らしい顔をして答えた。
「悩むような謎なんかないわよ。私が悩むのは華麗な解決の方法だけよ」
◆◇◆◇◆
「あいつらはマレビト様なんだってよ」
「なんだよ、手伝いじゃねぇのかよ」
「ちっこいのはともかく、あのでっかいのはオッサンだったろ。俺らと同じわけねーべ」
「マレビト様かぁ。どーすんのかね。こんな時に」
「小さくて、人形みたいに綺麗だったよな。折角のチャンスだし狙ってみるか」
「げ、おまえロリコンかよ。やめとけ、やめとけ。勝手にやってあとでバレたらてーへんだぞ」
「村長に見つからずにとかムリだろ」
「ロリじゃなくても女がいないここじゃ、狙ってるやつ多いぜ。それにああいう綺麗なのは壊したくなんだよ」
「にしたって、あのデカいのがいたら無理だろ」
「バッカ、おまえ見てたろ。あんな首引っ張られてるような木偶の坊ならワンパンよ、ワンパン」
「だな。和尚とはくらべもんにならねーべ」
「マレビトなら消えちまうかもしれねーし、先にやるのもありかもな」
「……っていう話を外の絶滅危惧種たちがしてたぞ」
「アンタほんとに耳がいいわね。私にはうるさいエンジンの音しか聞こえないけど」
「それはおそらくディーゼル発電機の音だな。電気が使えるのはそのおかげだな。それでマレビト様って何だと思う?」
「ねぇ、私が狙われていて危険だと思わないの? それよりマレビトの方が気になるの?」
「危険って誰が? 襲う彼らがってことか?」
「かよわい女が狙われてるんだから、そこは『俺が守る』くらいの事を言いなさいよ!」
「そうだな。俺が守らないと絶滅危惧種が本当に絶滅してしまうかもしれないからな。彩子は俺が守るから、彼らを見逃してやってくれ」
「……希望通りの台詞を言われてるにもかかわらず、真逆の方向性なのが釈然としないわね。まぁいいわ。古い風習でマレビト様ときたら、基本はまれびと信仰と見て間違いないと思うけど、折口信夫はわかる?」
「柳田國男の弟子としか知らない」
「聞いといてアレだけど、むしろ、知ってる方が驚きよ。どんだけ本読んでるのよ。民俗学の内容は知らないってことね?」
「面白そうな本から読んでるから学術書はまだ手を出せてない。この国は本の刊行が早すぎるんだ。民俗学がテーマの面白いマンガがあったからその時に名前だけ覚えた」
「日本の民俗学は独特だから、この辺りは流石に日本で育ってないと理解は難しいかもね。
まれびと信仰はその折口信夫が、日本のどこの共同体でも見られる共同体外部からの異邦人をもてなす風習を、スピリチアルな側面から定義した言葉よ。
古代の日本は超自然の存在だろうが、人間だろうが、自分たちと違っていて理解できない存在は全て神というカテゴリーに分類したの。だから、共同体の外から来た異物は神としてもてなす風習ができた。
良い神であれば、共同体に利益をもたらしてもらうために。
悪い神であれば、共同体に災いをもたらさないように。
これがベースにあるのは間違いないと思うんだけど、問題はここの環境よね」
「何か問題なのか? 今の話だと客にはいい事しかないみたいだが」
「問題は2つ。1つは、ここがかなり隔絶した共同体だという事よ。こういった場所の場合は、かなりの確率で平家の落人伝説がセットでついてくるわ。落人伝説はわかるわね?」
「源平合戦の負けた方が落ち延びてできた隠れ里の伝説だよな」
「ええ、日本の隠れ里には落人伝説が多いのだけれど、その真偽は様々よ。共通しているのはそこが隠れ里、つまりは日本の支配勢力に知られたくない共同体だということ。政治闘争に敗れた一族だったり、脱税のための隠し田だったり、犯罪者たちの隠れ村だったり、被差別民族だったり、平家かどうかは関係ないの。ただ、そういった場所にとって
「場所を知られたくない訳だから道理だな。でも現代でもそれが続いている意義ってあるのか?」
「それが問題の2つ目ね。明らかにここの住人ではない
推測は難しいと言いながらも、その口ぶりは、彼女の中で予測が形となっていることを示すものだった。
名探偵たる彼女は、このような四面楚歌の状態にあってもここから引く気はないようだ。
ただ、彼女の話を聞いてしまうと、俺は嫌でもこの村を脱出する方法を考えざるを得ない。
しかし、ここには助手として仕事で来ている以上、残念なことに雇用主ボスの意向は無視できない。
「なぁ、今すぐここから逃げ出さないか? 俺なら夜目も利くし彩子を抱えて夜でも山の中を動けるぞ」
「いやよ。なんで今から面白くなりそうなのに逃げ出さなきゃいけないのよ」
「だよな」
名探偵を標榜する彩子が、こんなおいしいシチュエーションから逃げ出すはずがない。
ううむ、どうしたものかと考え込む。
「なに? アンタまさか私を守り切る自信がないとか言うつもりなの? もしかして私の事心配してるの?」
おもしろい玩具を見つけたように、にやぁと笑顔を作って下からのぞき込んでくる。
「そうよねぇ、あんな野蛮人どもに囲まれてこの美女に何かあったらいけないものねぇ。ついにアンタも私の魅力を認めて心配するようになったのよねぇ。いいのよぉ。私のような絶世の美女の魅力を理解しているのは、いつも傍にいる助手ですものねぇ。嫉妬に近い感情で心配してしまったとしても、仕方がないわよ。でもね、安心していいのよ。アンタの事は能力も含めてこの今給黎彩子が太鼓判を押してあげる。私の傍に居ることを認めた唯一の助手として、あんな有象無象如きが束になっても……」
「じゃあさ、俺だけでもここを抜け出して帰っちゃダメか?」
「……は?」
彩子がいつもの如く、何かをまくしたてていたが、どうせいつもの名探偵論だろう。『探偵が雪山の山荘から逃げるなどありえない』とか言って正当化していたに違いない。
今はそんなことより、一刻も早く事務所に戻る方法を考えるのが重要事項だ。
幸い拓けたこの村に来たことで大まかな方角は目星がついた。俺の体力に任せて移動すれば、道路か町に出ることは可能だろう。
選択ミスだった。学術書が面白くないなんて間違っていた。民俗学がそんなに面白そうな学問だったなんて。もう俺、ここのマレビト様とかどうでもいいから、早く戻って民俗学とかの本を読みたくてしょうがないんだけど。先に民俗学を学んでおけば、あの本とかあのマンガとか、もっと面白かったに違いない。
気が付くと、彩子が顔を真っ赤にして俺をポカポカ殴っていた。
「アンタ、勝手に帰ったりしたらクビよ! クビ! クビになったらアンタなんか強制送還だからね!」
やはりダメか。仕事で来てるんだからそうだよな。俺の帰りたい理由とか『見たい番組があるから仕事放り出して帰りたい』って言ってるのと同じレベルだもんな。
うなだれた俺は、鬼上司に恨みがましい視線を向けたが、何故か鬼の形相で睨み返された。
解せぬ。
◆◇◆◇◆
「……だから民俗学っていうのは『現在の状況』と『民間伝承』から『過去の文化・風土』を考察して再構築する学問で、『出土物』という物証に重きを置く考古学とは、同じ歴史を考察する学問として切り口や対象年代が違ってくるわ。
そしてその性質上、探偵と民俗学は親和性が高いの。
『犯行現場の状況』と『証言』から『犯行の過程と犯人』を考察して再構築するのが探偵で、『証拠』という物証に重きを置く警察とは、同じ犯罪を解明する職業として手法や対応対象が違ってくるのも同じね」
「それで、彩子が詳しいのか」
「理由はそれだけじゃないけどね。でも面白いのは確かよ。一つ目小僧の考察なんかはとても面白かったわ。私は最初民俗学には否定的な考えだったんだけど、フィクションだった物語が、
「彩子がそこまで言うなら凄いんだろうな。読むのが楽しみだ。ところで妖怪の考察があるのか?」
「むしろそれがメインと言ってもいいわね。
さっきも言ったように古代日本では、自然現象から祖霊崇拝、物霊や言霊まで、何でもかんでも『神』にしていたの。
これは私個人的にはおそらく分類する言葉が足りなかったことも原因だと思うのよ。今でこそ日本語は文化の発達に伴って、色を表す言葉が『
でも、そんなことだから、日本全土に『神』が溢れかえったわ。八百万の神と言われるくらいにね。同じ自然現象でも場所が違えば違う名の『神』がいた。
これには日本の古代史も関係していると思うけど、まだ国家としての体を成していなかった日本に、すでに中央集権的なものを築いていた大陸の文化概念が流入した結果なんじゃないかしら。
結果、日本は世界でも類を見ないほど神の多い多神教の文化が成立したのね。
そして、文化が醸成されて言葉が追い付いてくると『神』も区分けされていった。宗教的概念で和魂・荒魂などの分類が為されたり、目に見えない仮定存在を隠オニと分類したり。更に日本の統一国家として大和朝廷が成立すると、政治的な分類もされるようになった。
そういった諸々の分類過程を経て現在があるの。それを指して、柳田民俗学では『妖怪とは神が零落したものである』というスタンスなのよ」
「つまり、妖怪がなぜ妖怪になったのかを紐解くことで、神の座に戻すのか。壮大だな」
「いや、そこまで壮大じゃないわよ。むしろ現実に引きずりおろしてるという方が正しいんだけど」
「じゃあもしかして、水木しげる大先生も民俗学者なのか?」
「大先生って……。アンタ、その敬意の一片でも雇用主に向ける気はないの?
あの人は民俗学には関わってなかったはずよ。会長だった世界妖怪協会には民俗学の人もいたと思うけど。でも意図せずして民俗学の闇を払ってくれた人でもあるわね。妖怪を語る上で民俗学に無関係の両巨頭の一人ね」
「水木しげる大先生の他にも大先生がいるのか? 是非読みたいな」
「現代の人じゃないわよ。鳥山石燕っていう江戸時代、1700年代の絵師よ。そもそも妖怪にも二種類あって…………ねぇ、この話まだ続けるの?
今は他にやることがあると思わない?
いや『そんなことあるの?』みたいなキョトンとした顔しないの。私たちいま絶賛監禁中なんだけど」
そう、今、俺たちは寺のお堂に閉じ込められている。
あの後、精進料理っぽい総菜詰め合わせみたいな食事を出された後に、マレビト様のしきたりとか言われて、明日の朝までお篭り堂に入ることを強要おねがいされた。
曰く、精進料理で饗し、村の繁栄祈願を寺のお篭り堂で一晩祈祷する習わしだとか。その報酬として村は祈祷の後にマレビト様の願いを一つ叶えるとのこと。
その風習の真偽はともかくとして、効果のほどは村の繁栄っぷりを見ればお察しであるし、麓へ送るという願いすら叶えられない状況では報酬にも期待できそうにない。
その寺であるが、村の奥の急斜面に、丸太を埋め込んだだけの足元の悪い階段を十数メートルも上った先に、そこそこ立派な山門の寺があった。
鐘楼はあるが鐘はないといった荒れ具合だったが、やけにしっかりとした比較的新しい作りの12畳くらいのお堂があり、それがお篭り堂だった。
意外なことにこの寺にも数人の寺男がおり、作務衣のようなものを着た坊主頭の男が数名、生気を感じさせない無気力な仕草で雑用をこなしていた。
だが、寺で迎えてくれた住職は、見るからに胡散臭い生臭坊主だった。
体は俺ぐらいにデカくて、袈裟からはみ出した腕や首回りはムキムキで俺の二倍くらいの太さがある。
夜だというのに薄い色のサングラスをかけ、首にはゴールドのチェーンネックレス。高級腕時計にピカピカの爬虫類系の革靴。袈裟は全く似合っておらず、手にしている数珠は梵字の刻まれたブレスレットにしか見えなかった。鼻の良い俺にはタバコと酒と焼肉のタレの匂いがしたので生臭確定。というか、目の前で悪びれもせず、悪趣味な金のライターでタバコに火をつけやがった。剃髪はしているものの、スキンヘッドという形容の方が相応しく思える。袈裟以外はヤのつく武闘派暴力系の組織の人に見える。
俺が抱えていた彩子に、まとわりつくようなネットリとした視線を隠すことなく向けていた事からも、かなり業の深い生臭っぷりのようだ。
ちなみに何故俺が彩子を抱きかかえていたかというと、彩子が階段を見た途端に自力で上るのを嫌がったのが原因だが、寺への連行あんないにおっさんだけではなく絶滅危惧種ヤンキーも四人ほどついてきたので、彼らが彩子に変なちょっかいをかけた時に対処できるようにと考慮した結果だ。
そういった理由なので、最初は右手が空くように左手一本で小脇に抱えたのだが、至近距離から強烈な左フックを鳩尾にアッパーの角度で入れられるという抗議を受けて、両手でのお姫様抱っこに変更させられた。
そして彩子は寺に着いてからも、キョロキョロと寺の敷地内を子細に見まわしており、下りる気配がなかったので、結局お篭り堂に入って、外から太い木製の閂がかけられるまで自分の足で歩かなかった。
あと、寺まで連行あんないされる時に、おっさんが
お堂の中はがらんとしていた。別に祭神が伽藍だから伽藍堂というわけではなく、本当に物がない12畳の板間で、意外にしっかりとした作りだった。天井は高く4mくらいだろうか。四方の壁には天井との境目あたりに明り取りの小さな窓がある以外には窓などはなかった。入るときに六段ほど階段を上ったので、1mくらいの高床式の建物だ。
特に荷物は取り上げられなかったので、大きなリュックからキャンプ用のランタンを取り出して明かりとしている。同じくキャンプ用のチェアを出してランタンを挟んで向き合って座っている。
彩子はリュックの容量が大きいのをいいことに(そして持つのが自分でないため)、旅に出るたびに入れたものを整理しないものだから、どんどんリュックの中身が増えていく。しかしこういう時に役立ってしまうため、咎めづらい。
「監禁されてるからこそだろ。こんなところに閉じ込められてスマホも圏外なんだから、話す以外にすることないだろ。それなら今もっともアツい民俗学の話題以外に話す内容なんかないじゃないか」
「それ、アンタの中だけのブームだから。それよりもあの扉付近の、いかにも『扉を開けようと必死にもがきましたけどダメで力尽きました』と言わんばかりに主張しているひっかき傷とか、明かりをつけると明らかに見分けられる、床にある血液っぽい染みとか、壁にある頭をガンガン打ちつけたような跡とか、いろいろツッコミどころ満載でしょうが、この部屋。今ホットな話題としてはこっちでしょ」
「心情的にはちっともホッとしない話題だけどな。言うから思い出しちゃったじゃないか」
リュックを探って、目当てのものを取り出し、顔の下半分に装着する。
「……なんで脈絡もなく、今ガスマスクを取り出して装着したの? どう見ても不審者よ」
「こうやって役に立つからリュックを整理しようって気にならないんだよな。鼻がいいと、この環境は辛いんだよ。さっきの住職もひどい臭いだったけど、この部屋は更に酷い。血とか吐瀉物とか体液、汚物、香水みたいな甘いような変な臭いとか一緒くたになってその辺に染み付いてる。楽しい話で意識しないようにしてたのに、思い出してしまったからもう我慢できない」
「だからってガスマスクはないでしょ。ランタン一つでガスマスクと面と向かって語らう美女ってシュールすぎるでしょ。どこのホラー映画よ」
「これが一番臭いをカットしてくれるんだよ。それにこれはお前のためでもあるんだぞ」
「なんでよ」
「朝までここに閉じ込められるとして、トイレはどうする気だ? おそらく扉と反対側の床にある20センチ四方の穴がそうなんだろうけど、リュックを衝立にするとして、耳は塞いどくが、臭いはどうしようもないだろ。お前も嫌だろうし、俺だって御免だ」
その瞬間、彩子の表情が抜け落ちた。
「マルコ、ナイフ出して」
「先に聞くが、なんに使う気だ?」
「マルコ、あなたはいい助手だけれど気が付きすぎるのが玉に瑕ね。ちょっと目と耳を潰させてくれるかしら。大丈夫よ、戻ったら病院で治してもらいましょう」
「おいまて、無表情で迫るのやめろ。お前の方がよっぽどホラーじゃないか。お前が言うと冗談に聞こえないし、本気ならタチが悪い。それに鼓膜はともかく目はヤバい。病院じゃ治らないだろ。俺にはそんな排泄を鑑賞するようなマニアックな趣味はないから安心しろ。興味ないから」
「くっ、美女はトイレなんか行かないから、私には関係ない話ね」
「なに一昔前のアイドルみたいな宣言してるんだよ。そんな生物いたら腸閉塞で死ぬだろ」
「ここは名探偵の威信にかけて、この密室を破らないといけないわね」
「安いな名探偵の威信。破るだけなら扉に俺が本気で体当たりすれば、破れなくはないと思うぞ。もちろん大きな音はするし修復不可能だが」
「その力業のどこに名探偵的な要素があるのよ。
ふむ、扉も壁も床も頑丈な分厚い木材ね。うわ、ひっかき傷に爪が残ってるわ。何があったのよ。両開きの扉の蝶番は外側かもしくは埋め込み式ね。こちらからの小細工は不可能。隙間もないから針と糸の密室は無理ね。隙間があったとしても、あの重そうな太い角材の閂を動かすのは針金でも難しいでしょうけど。入るときに見たところ、あの閂は差し込むタイプではなくて、両方の扉の受け金に上から落とすタイプだからずらすことぐらいはできるかも。
明り取りの窓は天井付近。届かないし届いたとしても人間が通れる大きさではない。奥の床の穴は大きさ的に同じく論外。確かに外につながってるわね。1mほど下に地面と大きめの空からの一斗缶みたいなのが置いてあるわ。絶対使わないんだから」
「ビニールシートを敷いてその上に保温用のアルミシートを重ねて敷いたから、寝る時はここを使えよ。こんな床に直で寝るのは嫌だろ。あと自分の着替えは自分で出せよ。間違ってお前の下着を掴んだとかいう間抜けで不名誉な死因は嫌だからな。水はさっきの家で折り畳み式のポリタンクに補給しておいたからここに置いとくぞ」
「なに着々と泊まる準備を淀みなく進めてるのよ! 囚われシチュからの脱出も探偵ものの定番でしょうが!」
「いや、そんなこと言っても、こういう単純物理な密室はシンプルなだけに物理で殴るしか解決法はないだろうが。幸いその手段はあるわけだから、余裕をもって状況の推移を見守るしかないんじゃないか? お前がいつあの穴トイレを使ってもいいように、耳栓して寝ずの番をしとくから、横になって体休めとけよ」
「使わないって言ってるでしょ! でも寝ずの番とか優しいじゃない。どうしたのよ」
「守ると言ってしまったからな。この状況なら『まだらの紐』をまずは疑うだろ。おあつらえ向きに上と下に人間が通れない穴があるし。大きさ的にオランウータンは除外できるけどな」
「内側からの密室じゃないから意味ないとは思うけど、内部の状況的に何かは起こるんでしょうね。隠す気ゼロみたいだから、無事に帰す気はないってトコかしら」
「肝試しドッキリで帰してくれるかもしれないぞ」
「自分でも信じてないことを言うのはどうかと思うわよ。さっき境内を見たけど、こんなお寺あるわけないわよ。このお篭り堂と奥の住居らしき建物が一番しっかりしてて、本堂は荒れ放題、鐘楼に鐘も吊ってないし、墓地もボロボロ。その上住職はエセ坊主。あれだけ煩悩塗れの視線を送ってきてて何かしてこない訳がないでしょ」
「確かに『仏罰上等』な感じの住職だったけど、本物の僧職の可能性もあるだろ」
「そうだといいわね。あれが坊主でまかり通るなら、仏教徒は皆極楽往生できるわよ。もしそうだったとしても、どうせ書類上の僧職とかでしょ。賭けてもいいけど『南無阿弥陀仏』か『何妙法蓮華経』以外のお経の文句なんて知らないわよあの筋肉ダルマ」
「確かに、御仏じゃなくて筋肉が信仰の対象っぽかったな」
「マルコと同じくらい手足も大きかったわね。日本人としては珍しいゴリラよね。リンゴとか片手で握りつぶしてジュース作ってそう」
「それよりも丸太を持って吸血鬼と戦ってる方が似合ってると思うけどな。吸血鬼は出ないと思うが、実際何が起こるか分からないんだし、寝て体力温存しておけよ。俺は誰かさんがこき使ってくれるおかげで、一晩くらい寝なくても問題ないように体が慣れてしまったから、気にしなくていいぞ」
「まあ、そんな便利な体になったなんて、マルコはその誰かさんに最大限の感謝を捧げるべきよね。きっと美貌と知性を兼ね備えた人徳溢れる聖人君子に違いないわ」
「ホントに気にしてないな。まさかの全肯定かよ。清々しい程に微塵も反省する気がないな。もういいから寝ろ。子守歌代わりに、この前行ってきた『ワトソン会』で聞いたジョークを話してやるから。ホームズとワトソンがキャンプに出掛けて、テントで一晩を明かすんだが……」
「それオチ知ってるからいいわ。どうせ子守歌なら、不気味なわらべ歌とかがどこからともなく聞こえてきて、朝には歌に見立てた奇妙な死体が転がってるとかでお願いするわ。じゃあ後は任せたわよ」
物騒な事を願いながら、寝る準備をして横になる彩子だったが、彼女の願いは翌朝半分だけ叶うことになった。
お篭り堂を出るまでついぞわらべ歌などは聞こえてこなかったが、凄惨で奇妙な死体は転がっていたのだから。
◆◇◆◇◆
「うー、気分悪いわー」
寝起きの彩子の第一声はそれだった。
「気温はそこまで下がらなかったが、こんな場所で板間に寝てたんだからな。ほら、コーヒーだ」
キャンプ用のコンロで沸かしたお湯で、ドリップバッグのコーヒーを淹れて彩子に渡す。
安っぽいアルミのコップだが、それなりにいいお値段のするコーヒーは、
「アンタえらくスッキリしてるわね」
「時間だけはあったからな」
有能な助手たらんとする俺は、彩子が起きる前に、顔を洗い身だしなみを整え、着替えも済ませている。
昨日は事務所からそのまま連れ出された上に、まさかこんな山深い中まで連れまわされると思ってなかったのでスラックスだったが、山歩きすると分かっている以上、動きやすいカーゴパンツにタートルネックの厚手の長袖コットンシャツという服装に変えている。全身黒で、スッキリというより没個性だ。
「でもまだ早朝のようね」
明り取りの窓からは、陽光が入ってきているものの、まだ高く昇っていないことが分かる。時計を確認すれば7時を過ぎたあたりだった。
ご相伴にあずかり、俺もコーヒーを味わう。
「そういえば耳栓とガスマスクはどうしたのよ?」
「お前が起きる気配がしたから外した。臭いはコーヒーの香りでかなり楽になったからな」
「なら最初からコーヒー淹れれば良かったんじゃないの?」
「だって起きてる間にコーヒー淹れたらお前も飲むだろ。コーヒーって利尿作用が高いらしいからな」
「はっ! 孔明の罠かっ! アンタやっぱり!」
「バカな事言ってないで顔でも洗ってこい。夜が明けたんだからそろそろ出してもらえるだろ。それまで我慢できないならアイマスクと耳栓とガスマスクを付けるから先に言ってくれ」
「わかったわよ。うわ、水、軽っ! あんたアタシが寝てる間にどんだけコーヒー飲んでたのよ」
「いいだろ。寝ずの番だったんだからそのぐらい」
俺たち双方にとって幸いな事に、この場から解放されるにはそこまで時間はかからなかった。
間もなく、扉の外から悲鳴が聞こえてきたのだ。
◆◇◆◇◆
しかしながら、悲鳴の後は外では混乱が起こったようで、俺たちが外に出るためには、もう幾ばくかの時間が必要だった。悲鳴の後に、コンロやシートなどを片付けていたので、その猶予はありがたかったが。
外から村長が声をかけてきた。
「マレビト様ぁ、無事ですかのぉ?」
「はい、特に何事も起きていませんが、朝なので出してもらえるのですか? 何か騒がしいようですけど?」
「出すのは…………ええ、お篭りは終わりですが、ちょっと扉が開きにくくなっとるもんで、少し待って下せえ」
「先に写真撮るぞ!」
「そこ踏むな、脇から行け」
「マジか、アレ触るのかよ」
「重っ! ムリムリ! 和尚じゃなきゃ一人じゃ無理だ。誰か手伝え!」
「まっすぐ、閂だけ上げて、そっと横に下ろせ!」
「右側は触るな!」
「ぐぅぇおぇぇ、ムリ、ムリ、すぐ横に腕が、おうぇぇぇぇ」
「吐くなら退け、バカが!」
扉の外から、おそらくあの不良少年たちの悲鳴に近い声が飛び交い、ようやく扉が片側だけ開かれた。
お篭り堂の前には、明るく健康的な自然の中で、強張った顔の村長と不良少年たちがこちらを見ている。
先に出ようとした彩子が何かに気づくと、振り返って両手を伸ばしてくる。
昨日のようにお姫様抱っこをお望みのようだ。
仕事なので逆らわずに抱え上げる。別に重くはないが、リュックも背負っているので、片側しか扉が開いてないと通りにくいんだが。
彩子を抱えて外に出ると、扉を見た彩子が俺に囁いた。
「前衛的なオブジェね。汚れたくないから私を下ろしちゃだめよ」
彩子の言葉に開いていなかった側の扉の表側を見ると、肩からもぎ取られた太く逞しい左腕がぶら下がっていた。
彩子は満足げに楽しそうな笑みを浮かべていた。
◆◇◆◇◆
お堂の扉は大きく頑丈な両開きの扉で、外へ開くように作られている。左右それぞれの扉の中ほどに幅30センチほどもある分厚い鉄のU字型の受け金があり、閂を受けるようになっているのだが、開いていない方の、外から向かって右側の扉の受け金は、大きな力で引っ張られたかのように変形させられていた。
U字形の底の部分が曲がり、外側の縦棒の部分が垂直ではなく30~40度ほどに傾いていた。強力なウインチか何かで引っ張ったように思える損傷だが、ここは不整地の階段を上った先にある場所であり、車などは入れないし、そんな轍も残っていない。
何よりそのウインチのフックの役目を果たしたと思われるものが、受け金に残っていた。
逞しい人間の左腕が、曲がった受け金を掴んでぶら下がっていたのだ。
床面はその腕から垂れたと思われる血液でどす黒く染まっている。
血液が垂れた跡がもう一か所あり、その元を探してみると、外されて脇に置かれているか所、木製の閂の端にも同じような右腕がぶら下がっており、どれだけの握力があればできるのか、その五指は強固な木製の閂に穴を穿ち、決して離すまいと掴んでいるようだった。
お篭り堂から出た俺たちが、腕のぶら下がった扉のすぐそばで子細に現場を観察していると、俺はともかく彩子が悲鳴も上げなかったのをどう解釈したのか、村長が心配げな声をかけてきた。
「マレビト様ぁ、大丈夫ですか? さ、階段も少し壊れとるみたいなんで、脇を通ってこっちへ」
特に彩子に止められなかったので、促されるままに階段の破損した部分を避けつつ地面へ下りる。
周囲にはおそらくこの村にいるほぼ全ての者が集まっているようで、村長を筆頭に不良少年が勢ぞろいしていた。
昨日見た寺男たちはいない。境内から昨日と同じく掃除しているような音が聞こえるが、この状況で日常生活を続けているのだとしたら相当なものだ。寺男の方が悟りを開いているのかもしれない。
あと、一番目立つであろう住職も見当たらない。あの腕の太さからして犠牲者が誰かは想像がついているので、平然といたら逆に驚きではあるのだが。
「で、どういう状況なんですか、これは?」
「それはこっちが聞きてぇくらいで。昨晩外から聞こえた事を教えてもらえんですか」
彩子の問いに村長は問いで返す。
さすがに話す態勢ではないと思ったのか、俺の腕から地面に下りた彩子が俺を見上げるので、俺は肩をすくめて首を振った。
こっちは耳栓をしていたのだから、お篭り堂の中にでも入ってもらわないと気付きようがない。
「夜はぐっすり眠っていたので、外で何が起こっていたのかは分かりません。それより住職は?」
村長だけでなく、集まっていた不良たちも一斉に呆れたような顔になった。
あの環境で安眠して着替えまでして出てきた俺たちのメンタルを評価してくれているのだろう。
すぐに気を取り直した村長だったが「和尚は……」と言いよどむ。
何かを悩むように沈黙した村長だったが、彩子にデジカメを差し出す。
彩子がそのデジカメを操作すると、扉が開かれる前の凄惨な現場の画像が小さな画面に映し出された。
閉じたお篭り堂の扉から2本の腕が垂れ下がっている。左腕は右扉の受け金を掴んでぶら下がり、右腕は受け金から右に突き出した閂を掴んで垂れ下がっている。
その下の床板は血でどす黒く染まっているが扉や壁には血の跡はない。
地面にはお篭り堂の前から何かを引きずったような跡が森の木立まで続いている。
扉を開ける前に、可能な限り詳細をカメラに収めようとしたようで、角度や場所を変えて何枚も写真が撮られており、現場だけではなくお篭り堂も四方からの画像を残す徹底ぶりだった。
村長が撮ったのだとしたら、意外に慎重で頭の回る人物なのかもしれないと認識を改める。
デジカメの画像は更に続いており、引きずった跡の先も撮影されていた。
森の中にある巨大な岩の上に、肩から両腕を失った和尚の巨大な体躯が俯せに横たわっており、岩も血に塗れていた。
岩は和尚の身体を基準に考えると、4m四方ほどの大きさで高さ1m前後の台形だった。
建築途中のピラミッドのような形といえば分かるだろうか。
当然自然の物なので、ごつごつしていて斜めになっていたりと、ピラミッドのように綺麗な形ではないが、他には岩などない森の中で、そこだけ岩のせいで拓けていて、まるで舞台のようだった。
今日撮影された画像はその二箇所の数十枚のみで、後は以前に撮られた長閑な寂れた農村で、農作業に勤しむ不良少年たちの活動風景だけだった。
「見なさったか?」
村長が声をかけてくる。
「ええ。そちらも確認は済みましたか? 変わったところはなかったでしょう?」
彩子に真正面から問われて、村長はバツが悪そうに答える。
「お篭り堂ん中は何の異常もねぇようでした。……マレビト様に何事もなく良かったです」
どうやら村長は俺たちがデジカメに見入っている間に、お篭り堂の中をチェックしてきたようだ。
お堂の中に抜け出せるような所がないか確認したのだろう。
やっぱりこのオッサンは思っていたより有能なようだ。
「それで、この和尚の身体はあの木立の中ですね。見に行っても?」
「面白れぇもんでなし、村の家に戻ったほうが……」
「マレビト様のお願いは一つ聞いてもらえるんですよね? 私にこの件を調べさせて下さい」
お願いを聞くつもりがないから忘れていたのか、お願いをこんな事に使われると思ってもいなかったのか、最初村長はきょとんとした顔をした後に、難しい顔になって唸る。
「まぁ、犯人でねぇことは確かだけぇ別にええが……」と呟きながら、先に立って森の中へ俺たちを誘って歩を進めた。お篭りのお陰で俺たちへの疑いは払しょくされたようだ。
皮肉な事に、彼らに密室に閉じ込められたおかげで、彼らの信用を得たようだった。
◆◇◆◇◆
現場は思ったほど離れていなかった。
お篭り堂から20~30mほどの、目を凝らせばお篭り堂からも木々の間に岩が見える程度の場所だった。
そこはデジカメの画像通りの光景で、和尚の遺体は岩の上に横たわっていた。
彩子は周囲をぐるりと回り、地面や岩、彩子の胸の高さ位の岩の上面とそこにある死体をつぶさに観察すると「マルコ、持ち上げて」とバンザイするので、後ろから両手を脇の下に入れて垂直に持ち上げる。
視点が2mを超えた彩子は、俯せている死体を俯瞰で観察し終えると「もういいわ」と言うのでおろす。
「この岩は何か特別なものですか? 朽ちてなくなってますが
「はぁー、ほんとに探偵みてぇだな。元々は磐座だったみてぇだが、戦後は誰も祀ってねぇんで『隠れ岩』とか『膳岩』とか言われてる岩だ」
「じゃあ、別に上っても問題なさそうですね。マルコ、遺体を脇の地面に仰向けで下ろして。引きずらずに持ち上げて下ろすのよ。岩の血痕も踏まないように」
彩子の注文に従うために、磐座に足をかけ血痕に注意して遺体に手をかける。
生臭が幸いして、僧服は袈裟だけで下は普通に洋服だったため、ズボンのベルトを持って真上に持ち上げる。両腕がないおかげで、一割ほど軽くなっている。
そのまま岩の外へ移動させ、地面に側面を下にして一旦下ろしてから、仰向けの状態に転がす。
周囲で見ていた不良のうち数人が、呻き声を漏らして顔をそむける。
両腕のないトルソーのような死体は、胸と腹がぐちゃぐちゃにひしゃげていた。
まるでトラックに衝突したか、墜落したような状態だったが、頭部には損傷が少なく、和尚であることは間違いなかった。口から血を吐いているその死に顔は何かに驚いたような表情だった。
彩子は先に村長に磐座と遺体の写真を数枚撮らせてから、しゃがみこんで遺体を検分しはじめた。
「マルコ、ナイフ」
彼女の差し出す手に素早くカーゴパンツのポケットからナイフを取り出して渡すと、遺体の服を裂き、血で固着した服を剥がして胴体の損傷を検め始めた。
この頃になってようやく、周囲の不良ギャラリーには彩子が普通ではないと分かり始めたようでざわつきだした。
「なんだ、あの女、妙に手馴れてねぇか?」
「てか、今、ナイフいつ出した? 見えなかったけど」
「躊躇なく死体いじってんだけど、おかしくね?」
「磐座に上って血だらけのトコ見始めたぞ」
「あの和尚が死ぬとかありえねぇわ。バケモンでも出たんじゃねえか?」
「いや、たけートコから落ちてもあんな風になんじゃね?」
「ばっか、岩しかねーのにどっから落ちんだよ。腕引きちぎったバケモンがいんだよ」
「和尚たしか試合でテンション上がって人殺してホされた格闘家だろ」
「クマなら素手でヤれるって豪語してたべ」
「その和尚殺すってどんなバケモンだよ」
「そういやシンヤ君いねーぜ。シンヤ君もヤられたんじゃ」
「おい、森ン中バケモンがいて道が塞がれてるってやべーんじゃ」
「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!」
思わず最後の台詞を聞いた瞬間に村長を見てしまったが、村長の発言ではなかった。
誰だ今の言ったヤツ。ネタだとしたら余裕あるな。
しかし、彼らの発言で思い出したことがある。
目の前で転がっている和尚の顔に、脳内で髪と髭を付け加えてみる。
確かに1、2年前に生放送の大一番の試合で、ライバルだった選手を殺めて騒がれていたプロの格闘家のようだ。
交友関係や言動などで、何かと黒い噂の絶えなかった人物で、非合法の地下格闘技(もちろん物理的に東京ドームの地下にあるようなものではない)との関りや、麻薬使用などの疑いもあったので、試合での殺人も偶然ではなく故意ではないかと噂になって、捜査が始まった途端に行方をくらましていたと記憶しているが、こんなところに隠れていたとは。
流石にないとは思ったが、村長に小声で聞いてみる。
「バケモノとか熊とかこの辺にいるんですか?」
俺から声をかけられた事に驚いたのか、ビクッとして俺を見る。
いやいや、出会ったときにも話しかけたで……ああ、そうか、あの時はカタコトだった。
「この辺に熊が出たことはねぇし、バケモンの話なんか聞いたこともねぇ。
…………ただ……和尚が銃や刃物で殺られてたならまだわかる。でも、そうじゃなさそうだ。和尚の成れの果てを見て、素直に考ぇると、夜中に、お篭り堂の外で襲われて、もの凄ぇ力で引っ張られて、閂に掴まって抵抗したのを、腕を引きちぎる力でここまで引きずられて、こっから空に引き上げられて、膳岩の上から落とされたように見える……」
いつの間にか、ざわついていた場は静まり返り、遺体を見ながら訥々と語る村長の声を皆が聞いていた。
きっと今の言葉を想像しているのだろう。
夜空からお篭り堂の傍で和尚に襲い掛かる、空飛ぶ恐ろしいバケモノ。
驚き、お篭り堂へ逃げる和尚。
中へ逃げ込もうと閂に手をかけたところで、後ろからバケモノに足を掴まれ引っ張られる。
必死に閂に手をかけ抵抗するが、段々と引きずられ、関節が外れ引きちぎられ腕だけを残した和尚の身体は地面をずるずると引きずられる。そのまま岩まで連れてこられた和尚をバケモノは空へと連れ去って、遥か岩の上から真っ逆さまに落とされた身体はぐちゃりと潰れ、驚愕の顔で和尚は絶命する。
彼らは皆一様に、森の奥や空を不安げに見まわしている。
おそらく、今まで感じていなかった恐れを抱いているのだろう。
「そ、そうだ、そうに違いない!」
「和尚なら、もし襲ってきたのが熊だとしても、戦ってるハズだ!」
「和尚が逃げるしかないようなバケモンがいるってことじゃねーか!」
「シンジ君もきっとそいつに連れてかれたんだ!」
「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!」
だから誰だよ、しつこく天狗を推してるヤツ。
不良少年たちが軽くパニックを起こしかけていたが、小さいが良く通る声がそれを鎮めた。
「それはないわ」
彩子が磐座の上からふわりと飛び降りて宣言する。
「犯人は空を飛ぶバケモノなんかじゃないわ」
本来なら安心すべき台詞なのだが、否定されたことに刃向かう
「なんでだよ! 証拠があんのかよ!」
「あるわ。そこのゴリラの死因は胸部打撲及び圧迫による内臓破裂よ。体の前面に内出血の痕もいくつもあるから、複数回、数えてないけどかなりの回数殴打されてるわ。それに、口から血を吐いているという事は、それまで生きていたという事。たとえゴリラでも、人間は生きたまま両肩から腕をもがれたら、その時点で失血死するわ。つまり、順番が逆。死んだ後に腕をもがれたの。
それに死因の打撲痕と、俯せていた磐座の凹凸が明らかに合致しない。犯人はまず殴打して殺害してからこの磐座に遺体を叩きつけて、その後に両腕をもいだのよ。
空が飛べるなら、少なくともそんな面倒なことはしないわ」
彩子の淡々とした理路整然な説明に、集団の熱は引いて大人しくなっていく。
その機を逃さず、村長が大きな声を出す。
「ここに居っても仕方がねぇで、いったん村に戻んぞ」
このまま不安を煽る森の中においておくのは良くないと判断したのだろう。
今のうちに村に戻すことにしたようだ。やはり有能だと思うが、違和感がある。
なぜ彼らは村長に従っているのだろうか?
あの和尚なら不良たちが従うのも理解できる。
暴力は彼らの世界の
だが、村長は体格に勝るわけでもないし、隠れた武術の達人というわけでもなさそうだ。
そんなことを考えていると、村長は彩子に「先に戻っとりますんで昨日の家に来てくだせえ」と言うと不良少年たちを引率していってしまい、彩子と俺が残された。
そう思っていたが、声をかけられた事でもう一人残っていたのに気付かされた。
「残念だなぁ。天狗じゃなかったかぁ。お見事、お見事。『おちつけ! 天狗なんているはずない!』を論理的に証明されちゃったねぇ」
その男は小太りでぼさぼさの髪に、首回りや袖口の伸びた草臥れたスウェットの上下に同じく草臥れたスニーカー、その上から元は白かったであろう、色んな染みで薄汚れてカモフラ柄のようになった白衣をぞんざいに羽織っていた。
おっさんというには若い、かといって不良少年たちに分類するにはとうが立った三十代くらいの男。
「「誰?」」
思わず彩子とハモってしまった。
「僕はハカセって呼ばれてるよ。大学院どころか大卒ですらないから博士号なんて持ってないけどね。連中ときたら白衣着てたら医者か博士のどっちかとしか考えつかないみたいでさ。白衣なんてエプロン代わりの作業着でしかないのにさ。それで、実際のとこ、どうなんだい? 犯人は村の人間? それともバケモノ?」
声からして、さっきの天狗推しメンのフォロワーはこの男のようだ。
早口の喋り方からしても、見た目からしても、人付き合いは苦手そうだ。
「死体が出てすぐに犯人が分かるなら警察も探偵もいらないわ。あなたはなぜ私たちに声をかけてきたの?」
「そりゃあ、この村で君たちが唯一犯人でないことが証明されてるからさ。お篭り堂に閉じ込められてた君たち以外はアリバイなんか証明できない。で、どうなんだい? さっきの証明は空を飛ぶ・・・・バケモノがいない証明であって、バケモノ自体の否定じゃないよね」
「生憎と無駄に悪魔の証明に付き合うほど暇じゃないの。あなたの口ぶりだと、なんだかバケモノが犯人であってほしいようね。あなた村の人の無実を信じたいようには見えないんだけど? 何か知ってるの?」
「しっ、知らない! でも、もし和尚が狙われて殺されたなら……次は僕だ……ひっ!」
音がして、周囲を見ると、人がいなくなったからか、和尚の遺体を狙ってカラスが集まり、周囲の木々にとまってこちらをヒッチコックの鳥のように窺っていた。
それで気付いたのだが、おそらく博士は怯えていたのだ。
何らかの理由で和尚の次は自分だと思って。
だから和尚が意味もなくバケモノに殺されていてほしかったのだろう。
だが、彼はそうであったとしても、自分が安全である事にはならないと、自然やバケモノは等しく脅威だと、今、カラスに囲まれて思い至ってしまったのだ。
「こ、こんなところにいられるか! 家に帰らせてもらう!」
そういうと、彼は足早に皆を追って村へと帰っていった。
◆◇◆◇◆
「盛大にフラグだけ立てていったな」
「でも、案外ああいうタイプは後の方まで残るものよ」
「俺たちはどうする?」
「このままだと荒らされてしまうし、とりあえず遺体はお篭り堂の中に入れておきましょう」
仕方なく、俺は和尚の遺体をお篭り堂の中まで運ぶ。
その途中で彩子が話しかけてくる。
「もうかなり風化しているけれど、境内と磐座の間に矢来みたいなものの跡があったのに気付いた?」
「やらい?」
「壁とまでいかない仮囲いの柵みたいなものよ。風化の具合から見て戦前くらいまでは手入れされてたんじゃないかしら。大きさ的には人間ではなく猪程度かそれより大きな獣避けのためのものっぽいわね」
「それがどうかしたのか?」
「あの磐座はもともとこういった用途だったのではないかという推測が成り立つってだけよ」
「こういった用途ってなんだよ?」
「生贄。現実的な言い方をするなら遺体処理」
「聞こうじゃないか」
「まず磐座を寺の外に隔離するように矢来を作るのが不自然なのよ」
「なんでだ? 磐座って神道系だろ。仏教の寺の外にあるのは自然じゃないのか?」
「知識として知っただけのマルコには理解できてないだろうから、基礎をざっくりと解説するとね、日本には2つの宗教があるわ。
仏教と神道よ。日本人は無宗教だと思ってる人が多いけど逆で、この2つの宗教が文化レベルで浸透してしまっているから、宗教と認識していないだけなの。日本人の大多数の異質なところは、信教が1つであるべきという概念がない事なのね。だから仏教も神道も矛盾なく並立しているの。むしろ、文化と宗教の区別がないと言った方がいいかしら」
「なるほど、いいかげんなんだな」
「ええ、愛すべきいいかげんさね。
だから、仏教が日本に入ってきてからの長い時間の中で仏教と神道は融合した部分もあるの。神仏習合と言ってね、どうせどっちも敬うなら一緒にしちゃえってことね。だから、仏教のお寺に神道の注連縄を使った磐座があっても別に不思議じゃないの。
でもね、磐座っていわば御神体みたいなものなのよ。山の上とかにあるならまだしも、こんなに境内に近い場所にあるのに、態々、間を仕切るように獣避けの矢来を作るのは不自然だわ。
逆ならまだ理解できなくもないけど」
「逆ってどういう意味だ?」
「約一世紀ほど前に、国家宗教として神道を利用するために、神仏分離令が出されたの。その時の令に従って、神道の方を保護して、仏教の施設を矢来の外に追いやったのならまだ分かるけれど、これは神道が外に追いやられてるわ」
「それだと、どうして生贄って話になるんだ?」
「磐座の名前が『隠れ岩』『膳岩』でしょ。『膳』っていうのは食事を乗せるテーブルの事、『隠れ』は乗せていた供物がいつの間にか消え失せるから『隠れ』なのか、奉げる対象の目に見えない超自然の存在の呼び名『
併せれば『鬼の食卓』って意味よ。名前からして生贄を連想させるじゃない。
実際にはさっきのカラスや矢来の大きさ的にイノシシとかが片付けてたんでしょう。寺もそれが分かってたから、矢来を作る時に磐座を内側に入れなかったのよ。これが矢来の場所の理由として一番合理性が高いわ。
日本では珍しく鳥葬の風習も可能性として考えたけれど、寺には荒れてはいたけどちゃんと仏式の墓地があったから違うわね。
もう磐座はきちんと祀られてはいないみたいだけれど、祀られていた過去には、一体生贄には誰が捧げられていたのかしら?」
「…………マレビト様……か」
「そう。村の墓に入れる者でなく、俗世に戻らせる訳にもいかない者。もちろん中には村に帰順したマレビトもいたかも知れないけれどね。位置関係的にもお篭り堂のすぐそばなんて、利便性が良さそうじゃない」
食事を奪われたカラスのうらめしそうな鳴き声を背に、俺たちはお篭り堂まで戻った。
◆◇◆◇◆
お篭り堂につくと、和尚の遺体を中に入れて、ついでに腕も中に入れた。腕だけ外に残して置いたら、遠からずカラスの餌になるだけだ。
死後硬直のためか、腕を外すのには苦労したが、何とか受け金の方の左腕は外すことができた。
閂の右腕の方は指が食い込んでいたので外すのを諦めて、閂ごと中に入れた。
その間に彩子はお篭り堂の周囲を調べていたようだ。
「何かわかったか?」
「筋肉量と死後硬直からみて大体10時間くらい前の犯行かしら。どうせアリバイなんかない時間だから絞り込みに意味はないけど。血痕は腕から滴った分だけのようだから、やっぱりここは解体現場じゃないわね。それよりこれね」
彩子は自分のスマホを俺に見せた。
画面には湿った地面に落ちた、悪趣味な金のライターが映っていた。
「お篭り堂の下、あのトイレの下に落ちてたわ。私たちが排水に使ったからビチャビチャだったし、私は使ってないけど、アンタがトイレとして使ったかも知れないから、とても手に取る気にならなかったわ。これゴリラが使ってたライターよね」
確かに昨日和尚がタバコに火をつけていたライターだ。
これが落ちていたという事は、俺たちが閉じ込められた後に、和尚がお篭り堂の下に潜り込んでいたという事だ。
「あの穴の下にいたなら、私たちの会話くらいは聞こえたかもしれないし、中に入れないまでも様子を伺うくらいはできたかもね。ホント使わなくて良かったわ」
穴を使おうと屈みこんで、用を足し始めた瞬間に、穴の下がライターでぼんやりと照らされ、穴から和尚の顔がぼんやりと照らし出されたら…………下手な妖怪より怖いな。
あの和尚にそれを愉しむマニアックな嗜好があったかどうかはわからないが、そんな目にあったらトラウマ確定だ。
「だが、少なくともお前が寝るまでは、誰も下には潜り込んでなかったぞ。そんな音も気配もなかった。潜り込んだとしたら俺が耳栓をした後だな」
「そう、じゃあ盗み聞きは目的じゃないのかもね。というかそっちが目的であってほしかったわ。ピーピングが目的だとかだったら気持ち悪すぎよ」
彩子は顔を顰めると、本当に気持ち悪そうに身じろぎした。
そしてその身じろぎは止まらなかった。もじもじし始めた。
「さ、さあ、私たちも早く村長の家に行きましょうか」
「もう、この辺は調べなくていいのか? 寺の他の場所とか寺男たちとか」
「そ、そういうのは後でもいいわ。まずは村長の家に行くのよ。そろそろ限か……限界集落も調査しないと」
明らかに不自然な彩子の言動に、俺は察して紳士的にふるまう。
俺はラノベの鈍感系主人公ではないのだ。
「大丈夫だ。今ならカラスとかだけだし、茂みに隠れてすればいい。なんなら俺がここを出ていこうか?」
リュックからティッシュを取り出して差し出しながら、さわやかな笑顔で優しく聞いた。
途端に彩子は顔を真っ赤にして、結構本気のパンチを俺の腹に叩き込むと怒り出した。
「いいからさっさと行くわよ! ホンっとデリカシーの欠片もない鈍感男ね!」
彩子はモジモジしながらお篭り堂を出て村へと向かった。
俺もお篭り堂の扉を閉めて、彩子の後を追った。
惨殺死体のある場所で用を足せと言うのは、確かにデリカシーに欠ける提案だったなと反省しながら。
◆◇◆◇◆
足早に村へ戻り、彩子は一目散に村長宅へ駆け込んだが、俺は村長の家の前で足を止めた。
村の雰囲気は一変していた。
昨日はだらけた雰囲気だったが今はピリピリとした緊張した空気が漂っている。
不良少年たちは不安を交えた攻撃的警戒心をあらわにして、村のそこかしこで数名ずつ寄り添ってボソボソと小声で話し込んでいる。
和尚を殺したのが山に潜むバケモノなのか、村の誰かなのか、彼らでは答えの出ない問いに疑心暗鬼が増大していっているようだ。
そんな中で、村に戻って落ち着いたのか、博士が倉庫のようなプレハブから草を家に運んでいるのが見えた。
開いた扉から倉庫の中が見えたが、収穫期ではないためか穀物や野菜などはなく、草が雑然と積まれており、俺の背負っているリュックの中身をそのまま大きくしたような状態だった。
博士の家からは、薄く煙が上がっているようなので、何かを作っているのかもしれない。
博士の家には博士だけではなく何人かの村人?が出入りしていたので、博士の白衣の汚れなどから見て、家というよりは、村の特産品づくりの工房のような扱いなのかもしれない。
なぜ村人?と疑問符を付けたかというと、2、3人の中年男性ではあったのだが、俺の持つ寒村の住人のイメージとは違っていたからだ。
着ているものこそ、村長のような農作業できそうないかにもな普段着だが、腰には鉈や手斧などをぶら下げており、とても村人とは思えない剣呑な雰囲気をまとっている。
村人というよりは冒険者ギルドにいそうな感じだ。
見ていると、冒険者Aと目が合ったので、軽く会釈して村長宅に入る。
なんか凄い睨まれた。
アレか、この地方ではメンチ切るのが初対面の挨拶とかいう風習なのか?
家に入ると、余裕を取り戻したスッキリした顔の彩子が俺を待っていた。
「さあ、調査開始よ!」
「それはいいんだが、聞き込みは難しいかも知れないぞ。村の中が脱出物サバイバルホラーのパニック直前みたいな雰囲気だ。次のイベント発生で松明と農具持って襲ってきそうだ」
俺はさっき見た村の光景を彩子に話して聞かせた。
とはいえ、これで彩子が止まるとは思っていないが。
俺の話を聞いた彩子は急に真面目な顔になって、俺に警告してきた。
「いい、マルコ。今から大事な事を言うわね。この後に何が起こったとしても、これから言う事だけは絶対に守って」
俺が無言で頷くのを確認すると、その警句を口にした。
「寺男だけは、何があっても傷つけないで。他は何をしてもいいけれど、それだけはダメよ」
俺は彩子の言葉の意図は分からなかったが、素直に神妙な顔で頷いた。
だが不満はある。こいつ俺のことを破壊神か何かと勘違いしてないか?
俺は故郷の村一番のインテリで温厚だと言われていたのに。
彩子はそんな俺の心中はお構いなしに、俺の反応を見てそれでいいとばかりに頷くと、俺に単独で情報収集を命じてきた。
聞き込みが難しいなら、特技を活かして聞き耳を立てろとの指示だ。
要は盗み聞きだ。
昨日のようにバカみたいな大声ではないが、不安に駆られてボソボソと内輪で数グループに分かれて話をしているので、こちらが隠れて近づけば聞き取れなくもない。確かに俺の得意分野だ。
その間、彩子は何をしているのかと問えば、この家で村長から話を聞く予定らしい。
俺の精神安定の観点から言えば、この家から出ずに大人しくしていてくれるのなら、それに越したことはない。そう思い、早速出かけようとしたところで彩子に呼び止められた。
「隠れて盗み聞きしに行くのにリュックを背負っていくな」と。
昨日から背負っているのが普通になっていたのですっかり忘れていた。
とはいえ、この重いリュックを彩子に預けるのは一抹の不安があるのだが、そんな不安を解消するように、リュックを持ち上げると「昨日の部屋に置いておくわね」と言って家の奥へ入っていった。
……やはり、別行動でなにかと不安はあるので、早めに終わらせて帰ってくるとしよう。
◆◇◆◇◆
結論から言えば、お互い特に問題はなく目的を達成できた。
俺が戻って来た時には、丁度彩子も村長との話を終えたところで、昨日の部屋で情報の交換をした。
まずは俺が聞き集めた情報を伝える。
・彼ら不良少年たちはここで農作業の真似事をさせられることはあるが、主な作業は草刈りや山菜・キノコ採りであること。
・行方不明になっている「シンヤ君」は17歳で、女子小学生に対する傷害と強制性行為で少年院送りの経歴あり。昨日彩子を狙う発言をしていたのもコイツらしい。
・「シンヤ君」は昨夜遅くにこっそり寝所を抜け出したようで、それ以降目撃はされていない。無理やり連れ出された形跡はない。
・村につながる唯一の山道は、俺らがやってきた側とは別の方にあり、そちら側にはこの村の車がまとめて止めてある広めの空き地があるらしい。車のカギは持ち主に関わらず博士の家で保管しており、不良少年たちは博士の家には入ってはいけないルールになっている。
これを聞いた彩子の反応は
「ロリコン死すべし、慈悲はない。もうそのシンヤ君ってのはバケモノに殺されたってことでいいんじゃないの?」
という身も蓋もないものだった。
そして彩子が村長から聞き出してきた情報を聞く。
・この村の不良たちは社会復帰の更生プログラムとして、社会奉仕活動のため宗教法人としての寺が預かり元となって預けられている。
・管理は和尚が行っていて、寺にいる寺男たちは『無我の行』を行っているため、自身の意識を深く鎮めて、毎日決められた行動を行うという修行を行っているため、会話には応じないだろうとの事。
・『無我の行』とは寺の宗派独自の修行で、『無言の行』の更に高位の修行であり、個を無くすことにより無の境地に至り悟りを啓くものらしい。
・住職は一年程前に今の和尚に代わり、以前の和尚はこの村を離れた。和尚の過去は知らない。
・この村に駐在はおらず、無線などもないため、警察への通報はできていない。
・山歩きのできる村の者を一人、麓の町まで徒歩で出したが、順調に行っても到着は半日以上かかり、警察が来るのも道が復旧しないと難しい。
「本当に通報に人を出してると思うか?」
「100パーないわね。村長は警察を呼ぶ気なんか微塵もないわよ。この後、村人で会議ですって。何を話し合うのか知らないけど、犯人を捕まえる気は薄そうよ。私との話も上の空で、何か考えてたみたいだったし」
「じゃあこの後はどうする?」
「会議してる間に、寺に戻って調査しましょう。アンタの話を聞いて調べたい事ができたわ」
◆◇◆◇◆
彩子を境内に下すと(彩子は当然の如く階段を上るときは俺に抱えられた)、彼女はまず境内を手入れしている寺男に一人一人声をかけて話を聞いていったが、誰一人として彩子に反応を返す者はいなかった。
実験なのか悪戯なのか、寺男の一人に自分の香水を吹き付けたりしていたが、やはり反応はなかった。
相手にされなかった腹いせではないと思いたい。仏罰当たるぞ。
寺男からの聴取を諦めた彩子は、俺を引き連れてお篭り堂へと向かった。
しっかりと造られたお篭り堂の扉は、閂がなくとも動物に開けられるようなものではなく、しっかりと閉まった状態で和尚の遺体を守ってくれていた。
中に入ると、昼は明り取りの窓があるおかげで、薄暗く感じる程度で、ランタンを点けなくても光量は十分だった。
しかしそれでも、彩子はライトを要求したので、リュックからゴツめのフラッシュライトを出して手渡した。
彩子は奥の穴まで行くと、ライトで穴から下を照らして覗き込んだ。
俺も彩子に倣って、彼女の上から下を覗き込むと、一斗缶の中に黒く濁った水が溜まっていた。
一斗缶の外に落ちた水は地面が吸収したのか、湿ってはいるようだが特に水溜まりなどはない。
ライトの光を反射してキラキラと光るものが落ちているが、あれが和尚のライターのようだ。
満足したのか、彼女はライトを消して俺に返すと、今度は和尚の遺体を探り始めた。
主にポケットを探っているようだ。
そして目的のものを探り当てたのか、和尚のズボンのポケットから、小さな缶を引っ張り出した。
それはライターオイルの缶だった。
和尚のライターはオイルライターだったので、その缶があることは不思議ではないのだが、彩子は満足そうに頷くと、オイル缶を和尚の遺体の上に置いた。
今度は和尚の遺体の横に置いてある腕を確認しはじめた。
右腕の閂に食い込んだ指を調べると、左腕の指も確認した。
「両腕ともに内出血の痕跡があるから、やはり死因の打撲は腕が千切れる前に行われているわね。右手の指は第二関節まで閂に食い込んでいるから、死後硬直がなかったとしても簡単には外れないでしょうけど、食い込んでいるところは血で埋まっているから、指先は損傷しているんでしょうね。左手の指も親指以外の四指は潰れているわね」
一つ一つ、確認したことを呟いている。
今、彩子の中で推理が組み立てられているのだろう。
こういう時は
彩子は顎に手を当て、黙考しながらお篭り堂を出ていく。
後を追いつつ、きちんとお篭り堂の扉は閉めておく。
そのまま山門に向かって歩く後姿を早足で追う。
もしあのままあの階段を下るのなら、十中八九転んで大変な事になる。
追いついたのは山門の所だったので、いつ彩子が転げても飛び出せるように腰を落として両手を前に出した状態で後ろにつく。
それと同時に、彩子は結論に至ったかのようにハッと顔を上げ、同時にくるりと後ろを振り向き、真剣な目を俺に向け、数瞬の後「はぁ」と気が抜けたように息を吐きだし肩を落とす。
俺はそんなに間抜けなポーズをしていたのだろうか?
俺にとってはいつでも彩子を助けられる姿勢だったのだが、彩子から見れば、巨大な飛べない鳥の名をつけたトリオ芸人のようなポーズに見えたのかもしれない。
すっかり気の抜けた表情の彩子は、もうここでやることはないとばかりに、山門の外に踏み出す。
「もういいのか?」
「ええ、もうここでやるべき事はないわ」
「じゃあ、謎は解けたのか?」
俺の問いに彩子は再びくるりと振り返ると、堂々と俺に言い放った。
「言ったでしょ。私には悩むような謎なんかないわよ。私が悩むのは華麗な解決の方法だけよ」
大自然を背景に小憎らしい表情で宣言する彩子の姿は、山門をフレームとした美しい一枚の絵画のようで、その一瞬をカメラに収められないことをとても残念に思った。
◆◇◆◇◆
村長宅に戻り、部屋でリュックに入れていた携行食で簡単な昼食を済ませていると、外が騒がしくなった。
ちなみに村長たちの話し合いは終わっていなかったのだが、俺たちへの食事を気にもかけていない事から、もう取り繕う気もなくなっている感がひしひしと伝わってきた。
それはさておき、どうやら村の不良たちが騒いでいるようで、その声はすぐに俺たちの部屋にも聞こえてきた。俺が伝えるまでもなく、彩子にも直接聞こえる大きさだ。
「シンヤ君もどったってホントか?」
「おう、めっちゃビビッてガタガタ震えてる」
「山ン中逃げまくってボロボロだ!」
「バケモンが来る、バケモンが来るっつって、ぶつぶつ繰り返してんぞ」
「シンヤ君ぶっ壊れてんぞ」
「やっぱ、バケモンはいるんだ!」
「おい! なんかエモノ持ってこい! メリケンでも
「やってやんよ、バケモンでもなんでもやってやんよ!」
どうやら
さて、どんな風に状況が転がるのかと注目していると、話し合いが終わったのか、騒動を聞きつけて出てきたのか、村長の声が響いた。
「静かに! 静かにせんかっ!」
見かけからは想像できない、ドスの利いた一喝に不良たちも気圧されたのか黙り込む。
「バケモンなんぞおらん!」
「で、でもよ、村長、シンヤ君が和尚を殺したのはバケモンだって……」
「バケモンなんぞおらん! ……じゃが、この村に悪い事が起きとるちゅうことは、原因があるはずじゃ」
「原因って……変わったことって言えば……あの二人か」
「あいつらが来てからだ」
「和尚が死んだときもあいつらがそばにいた」
「マレビト様か」
「そうだ、マレビト様だ」
村長の誘導に乗った不良バカたちの声が伝播していく。
そして村長の声がそれに指向性を与える。
「マレビト様のお篭りが失敗したからに違えねえ! 責任とってもらうしかねえ! ついてこい!」
「おー!」という不良バカたちの声を聞きながら、俺は「なるほど、そうやってもっていくか」とか、「お手本のような暴徒扇動だなあ」とか、その標的であるにもかかわらずのんびりとした感想を思い描いていた。
だが、ふと彩子を見やった時に、見てしまった。
彩子の邪悪さを滲ませた氷のような美しい微笑を。
悪い考えをしている時の彩子の微笑を。
俺が秘かに
これが出た時点で、彩子は自重とかモラルとかを完全に捨て去っている。
そして、必ず誰かが酷い目にあうことが確定している。
俺は諦観し、心底楽しそうな、その美しい微笑を見つめるのだった。
††† 読者への挑戦 †††
さて、誰かは知らないが、拙い文章をここまで読み進めて貰ったことに感謝を述べたい。
これを読んでいる時点で、俺の知り合いの誰かだとは思うが、先に謝っておく。スマン。
事の起こりは、俺が作成した報告書を一年以上の間、読みもしなかった彩子が、一つの事件につき4~5枚程度のフォーマット化した紙資料に要点をまとめていた報告書を、何の気まぐれからかざっと目を通した挙句、ダメ出しをしてきた事に端を発している。
曰く「これじゃあ、事件の概要は掴めても、関係者の詳細な行動とか機微が全く伝わらないじゃない。具体的には私の活躍とか台詞とかが! アンタも
それを聞いた時に怒鳴らなかった俺えらい。誰か褒めてくれ。
それまで、他の探偵の登場する本を読んでいたことや、本棚を整頓した結果できた隙間を気にしていたことは無関係だと思いたい。
だから、もし俺の手間を省こうとして、この報告書という名の小説を読んだのであれば、それは間違いと言わざるを得ない。遠慮せず俺にどの事件の事を知りたいのか言ってくれ。これ以降の事件の紙資料は今読んでる小説みたいなものしかないからだ。
ただ、これ以降の事件も全て、以前の形式の報告書は作成してある。彩子の目に留まらないようにデジタルデータのみでの保管なので、おそらく必要としているそちらを見せることができる。
しかしながら、だからと言ってこの小説形式の報告書をここで読み止める事はお勧めしない。
この読者への挑戦は伝統的形式として彩子の指示で入れるように言われている。
そしてこの報告書には、真相を看破せずに読み進めたり、最後まで読まなかった者には不幸が降りかかる本気の呪いをかけると言っていた。不幸がどの程度のものなのかは知らないし知りたくもない。ただ、あの今給黎彩子が本気でかけた呪いだ。髪が抜け落ちる程度なら軽い方だと喜ぶべきだろう。
そういう訳だから、ここまで読んだ以上諦めて真相を看破して最後まで読み進めてくれ。
俺たちの知り合いなら、誰であろうが難しくないだろう。素直に考えて思った通りの結論で間違ってないはずだ。
途中、詳細な描写を抜いて、かなり端折った箇所などもあるが、この報告書には虚偽の記述は存在しない。端折った理由は、一事件の報告書を作成するのに、今までの数十倍の作業量を余儀なくされた俺の、報告書を何とか短編小説の分量に抑えようとした努力の表れだと理解してほしい。
ちなみに、これによってどんな不幸に見舞われたとしても、それは俺を経由することなく直接彩子に文句を言ってほしい。
……それと、まずない事だと思うが、これを読んでいるのが俺や彩子の知り合いでなかった場合。
許可なく読めている時点できっと優秀な人間なのだと思う。
しかし、いくら有能であったところで、俺たちの知り合いでない時点で、残念ながら基礎知識に開きがありすぎるため、この問題はアンフェアだと先に断言しておく。
この事件の殺人における『真相』は「フーダニット」と「ホワイダニット」である。
つまり、「
なんにせよ「
アンフェアなりのせめてもの誠意だ。
…………最後に、最もあってはならない状況ではあるが、何らかの抑えがたい衝動に駆られて、彩子がこの報告書を自ら流布させた場合であるが、その場合はご愁傷様としか言いようがない。
そのせいで、東奔西走する羽目になる関係各方面の人々や読者の皆様の文句は、やはり俺ではなく彩子へ直接お願いしたい。
では、この報告書という名を借りた物語の終焉まで、あと少しお付き合いいただきたい。
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