第六話.作者殺し シーン1



「言えよー」

 と酒々井しすいさんにからまれたのは登校中、駅から学校へ伸びる坂の途中だった。通学路であり、ほどよい勾配こうばいからか多くの運動部がランニングコースに使っている。

 さすがに朝練のランニングに柔道着は着ていない。体操着姿の酒々井さんは、すらっとした体付きもあって美少年のようにも見えた。体操着の首元を引っ張って胸元に風を招き入れる姿からは、目をそらさざるをえないけど。

「いや……なんの話?」

 端的すぎる要求に戸惑って聞き返すと、酒々井さんは息を整えて続けてくる。

新巻あらまきくん、帆影ほかげと付き合ってるんだって? なんで早く教えてくれないんだよ」

 自分でも不思議なくらいに、動揺した。

「それっ……誰に聞いたんだ?」

「兄妹して同じことくなー。帆影だよ」

「帆影が……?」

 単に訊かれたから答えただけかもしれないけど、他の人に僕とのことを明言してくれた。今までにも言う機会はあったろうに、自分からは言わなかった帆影が。

 喫茶店、本屋、下着売り場にロボ見物。いっしょに出かけたりして、なにか変化があったのだろうか。だとすればうれしいけど……

「その話をした時の帆影、どんな感じだった?」

「え? いつも通り、として、なに考えてるか解らない感じ」

 ……まぁそうだよな。

 結局、帆影が僕との関係をどう捉えているのかは、外からじゃ知りようもない。直接的に質問したって、たぶんまだ「よく解らない」という答えが返ってきそうな気がする。

 僕にはそれを責められない。なぜなら、僕にもまだよく解らないからだ。

 帆影が大人しい子で、根暗な僕でも対しやすいから好きなのか。僕の書いた物を読んでくれたから好きなのか。隙の多さに下心を刺激されているだけなのか。どれもあるだろうし、それだけではない気もする。

 恋ってなんだ、愛ってなんだ。

 僕は朝っぱらから深遠な懊悩に想いを囚われながら、そればかりは教えてくれないであろう学舎へと歩きだした。

「え? ウチは放置かよ」

 間もなく梅雨入りを予報された曇天の下、酒々井さんのつぶやきが灰色の背景に溶けて消えた。



 特にこれといった波乱もなく、今日の授業は過ぎ行き――放課後。

 部室で顔を合わせた帆影は、やっぱりいつも通りにとしていた。

 担任の先生の性格なのか、ホームルームは帆影のクラスの方が先に終わることが多い。たいていは帆影が先に部室へ来ていた。

 伊井いいさかはゆもいないから、今は二人きりだ。

 一見ぼんやりと読んでいた本――実際、帆影は読書家だが特に読むのが速いわけではない――から顔を上げ、僕と目を合わせて小さく会釈する。すっかり見慣れた仕草だった。

 今朝の酒々井さんとの会話のせいか、いつもより少し緊張しつつ隣に座る。一年の頃は椅子を一つ挟んで座ってたんだよな、と思い出す。椅子一個分の距離を詰めるのに一年かかったわけだ。

 ちらと横目で帆影を盗み見ると、目が合った。向こうも顔は本に向けたまま目だけでこちらを見ていて、だから驚いたようだった。いつも凪いでいる瞳が広がる波紋のように大きくなっていた。僕も同じようなものだったと思う。

 なんとなく動けなくなり、そのまま目の端で見つめ合う。先に動いた方が負けだという気がしたが、なにがどう勝ち負けなのかは知れなかった。

 いずれにせよ、僕は勝負に強い方ではない。先に口を開いた。

「帆影」

「はい」

 という帆影の返事は、唇の動きだけで聞こえた。

 なぜなら、部室の引き戸が開かれる音にかき消されたからだ。

「……ふぅぅぅぅぅっ……」

 立て付けの悪い扉の悲鳴に続いて、大きな、とても大きな溜息が部室に落ちる。

 ――伊井坂りんだ。いつもうっとうしいくらい溌剌はつらつとしている彼女が、今日は雨に濡れた野良猫のようにとぼとぼと歩を進め、慣れた動作で僕らの対面に座る。肩にかけていたバッグが、力なくどさりと落ちた。

 今さらだけど一応、言っておく。

「お前……せめて漫研となりに顔出してからこっち来いよ」

「今日は休みなんだって」

 小戸部ことべさんとか再放送のアニメ視るって帰ってたし、と答えてきたのは、今日も暇そうな妹だった。来る途中で伊井坂と行き合ったのだろう、開きっ放しにしていた戸を閉めて、僕の隣へ腰を下ろす。

 僕は続けて、当然の疑問を伊井坂に訊いた。

「だったら、どうしてここに?」

「聞いてほしい……話を聞いてほしいんじゃよ……」

 合板のデスクに伏せながら、顔だけを上げて伊井坂は僕と帆影を見る。陰のある目だ。……そういえばこいつ、午後から浮かない顔をしていた気がする。

 僕は帆影と顔を見合わせてから、伊井坂を促した。

「まぁ……聞くだけ聞くけど」

「『歌神うたがみボイスライズ』は知っとるかい……?」

「伊井坂の好きなラノベだろ。ハマったのはアニメからだっけ?」

 たしか、音声合成ソフトで作られ、動画サイトで人気になった楽曲をモチーフに書かれたライトノベルだ。モチーフこそ音楽だが、マイクがたの武器に魂の歌声を込めて戦う少年少女を描く異能バトル物だったと思う。

 僕は視なかったけどアニメ化もしていて、マイクとスタンドが一体化して死神の鎌のようになった武器を構えたパンキッシュな美少年のイラストはネットや書店でよく見かける。何年か前に始まった作品なので旬は過ぎているかもしれないけど、まだまだ根強い人気があるみたいだ。

 伊井坂はぐったりしたまま、顎だけでうむとうなずいた。

「刊行ペース落ちてるなりに、毎刊まいかん楽しみにしてるコンテンツなのだよ……」

「……まさか、打ち切り名前を呼んではいけないアレになったとか?」

 思わず声を落とす。それは古今東西、出版作品を追う者にとって、世界で最も邪悪な事態だ。

 しかし伊井坂は、力なくかぶりを振る。

「そうじゃあないけど…………小説版の作者がね、SNSで差別的な発言をして炎上中なんだよ……昼休みにそれを知っちゃって。

 下手すると、検討中だったアニメ二期がお流れだとかなんだとか……」

 ……あ、ああ……か。僕が反応に困っている内に、スマホをいじっていた映が面白くもなさそうに口を挟んでくる。

「有名人とかでありがちなやつですね。最近は、とにかく騒ぎたい人たちが言葉尻を無理矢理に悪い方へ解釈して叩いてるだけって気もしますけど」

「そ、そうだよ。SNSってメールとかと違って文面確認せずに投稿するから、誤解されただけなんじゃないか?」

 と、僕も映に同調して慰めてみるも、伊井坂の目は死んだまま輝かない。

「いや……カッティングで発言が曲げられてるとか表現の問題とかじゃなくて。

 去年あたりから発言が政治的にぐんぐん偏っていっちゃってたから…………あーあ、ついにやっちゃったよって感じの、まごうことなき暴言なんじゃよ……」

 うわぁ……

「うわぁ……サイアクですね」

 映……兄が思っても口に出さなかったことを言うんじゃない……

 伊井坂はほろ苦い吐息を机に落とした。

「大好きな声優が怪しい健康食品にハマった時もショックだったっけど、そういうのは『ピュアゆえに』と思えばむしろ萌えポイントだったさ……でも今回のはなんか、力が抜けちゃってね」

 気持ちは解らないでもない。

 お気に入りの作品の作者が、いわゆる「イタい人」だったらなんとなくショックだ。失望すると言ってもいい。この場合、犯罪がらみではないようだし、なにを言おうが個人の勝手なのは解っているけれど。

 やっぱり、好きな作品の作者には好ましい人でいてほしい。

 僕などは素朴にそう思うのだが、御存知の通り、この部室には素朴でない者もいる。

「しかし」

 そう、ようやく自認してくれたらしい僕のカノジョ、帆影あゆむだ。

「それのなにが問題なんですか?」

 ふざけているわけでも、なにか挑発しているわけでもない。本気で不思議そうに首を傾げている。

 いや……逆になにが問題でないのか。僕と伊井坂が返答に困っている内に、映がオーバーに眉をしかめた。作品名から検索したらしく、問題の発言のスクリーンショットが映ったスマホを帆影に突き付ける。

「見てみたら、たしかにこれ、偏見バリバリの差別発言ですよ。いくら表現の自由ったって、これじゃ問題視されるのは当然、当たり前です」

 目を細めてスマホの画面を読んだ帆影は、あっさりうなずいた。

「そうですね。因果関係の不明瞭な文面で、これで中傷された人は当然反発するでしょう。攻撃の自由と反撃の自由は常に双子です」

 意見がれられたにもかかわらず、映は頭痛をこらえるような顔になった。

「いや……だから、問題ありだって言ってるんです」

「作者に問題行動があったとして、作品には関係がありません」

 ……そういえば帆影は、家出した果穂かほちゃんを連れ戻しに行った時、「わたしは本と作者は切り離して考えるタイプ」と言っていた気がする。帆影にブレはなかった。

 映はやっぱり納得しない。ますます険悪に目を据わらせる。

「関係ないわけないでしょう。本を書いてるのは作者の人なんだから」

「出版された時点でもう、書いていません。『書いた』だけです」

 なるほど……そう言われると、僕らの手元に本がある時、作者と本との関係は、

「過去形だな」

「はい。わたしたちの手にある本と作者は物理的に分断されていて、この場に来て本を損壊でもしない限り影響を及ぼすことはできません。

『作者と本』の関係と、『本と読者』の関係は完全に独立しているのです」

 そう言われてしまうと自明ではある。彼我は無関係だ。しかしまぁ、映がどう反発するかの予想はできた。

「そんなの……屁理屈ですっ」

「よく見て下さい、妹さん」

 今度は帆影が自分が読んでいた文庫本を開いて、映に示した。……狭い部屋の中、僕を挟んで映と帆影が身を乗り出しているせいで物理的に肩身が狭い。

「これは紙に文字やイラストを印刷して製本しただけの物です。どこを探しても作者はひそんでいません」

「そういう話をしてるんじゃなくて……えっ、と…………そう、作品には作者の精神、心が反映されてるでしょって話をしているんです!

 その作者の人間性にケチが付いたら、作品の価値に影響が出るに決まってるじゃないですか」

 映のひねり出した反駁はんばくに、帆影はちょっと目を机に向けて、それから映に戻した。

「たとえば……オックスフォード英語辞典は、本体二〇巻に加え補遺三巻という単一言語を扱った物としては世界最大の辞書で――重さ六〇キロだとか――、多くの学者、研究者に参照され知見を与えています。

 控えめに言って偉大な大部です」

「はぁ……それは立派な辞書ですね。でも、それがなにか?」

 要領を得ずに聞き返す映。帆影はやはり平板に答えた。

「この辞書の成立に大きな貢献をしたウィリアム・マイナー博士は、殺人犯です。

 従軍時の経験から妄想に取りかれ、無関係の人を射殺して犯罪者用の精神病院に入れられました。

 博士は辞書編纂の協力者を募集する声明に応えて病院から用例を送り続け、辞書の完成に多大な貢献をしたのです」

「なるほど」

 うなずいたのは僕だった。

「成立に犯罪者が関わっていても、辞書の価値には関係ないな」

「はい。精神を患っていたとはいえ、罪もない人間を殺したことは赦されない罪です。だから彼は、あくまで囚人として辞典の編纂に関与しました。

 しかし、当然ながらそのことを理由にこの辞書の価値が疑われたという話は聞いたことがありません」

「そ、それは辞書だからでしょう。客観的で無機質な文章なら、作者の個性なんて関係ないですから」

 映はもう、むきになっているようだった。対照的に帆影は冷静だ。

「いえ、辞書は決して無個性な書物ではありません。採録する語彙の選定、単独で項目とするか派生語として従属させるか、なにより語義の記述などは個性の塊です。

『マンション』という単語の意味を、改版のたびに何度注意されてもしつこく『貧民街スラムのアパート』と定義し続けた辞書などはもう、ちょっとした奇書の類と言っていいでしょう」

「なぜマンションがスラム……?」

 それまでぐったり聞いていた伊井坂が、思わずといったように聞き返す。帆影は机に伏している伊井坂に目線を合わせて答えた。

「当時編集主幹だった人の実体験に基づく見解だそうです。

 その辞書に限らず、辞書はむしろ文芸以上に個性を持った『作品』なのです」

「それでも、重要なのは使いやすいかどうかであって、作者の人格ではない……か。辞書を編集した人のことなんて、普通はあんまり気にしないもんな」

 僕が引き取ってまとめると、体を起こした帆影はこくりとうなずいた。

「本の実体は結局、印字された文字列や図画です。そこにあるのは本と読者の関係だけで、作者の存在はもはや過去のものです」

 こう滔々とうとうと語られてはにわかに言葉を返せず、しかし納得もできないらしく、映は喉の奥でうなった。

 作品の生みの親である作者が、出版された本とは関係を持たないという考え方が直感的に理解できないのだろう。

 帆影はもう一つ例を出した。

「ポール・ド・マンという著名な文学理論家がいます。独自のセオリーで文学作品を読み解く優れた著作をいくつも残し、所属する学派の大物として没しました。

 ところがその死後、ジャーナリストだった戦時中にナチスへ迎合するような記事を新聞に発表していたことが発覚してスキャンダルになります。彼を攻撃する急先鋒になったのは、対立する学説を持つ派閥でした。

 作者の過去を暴き立てることで、自分たちに都合の悪い学説を潰そうとしたのです」

 これは説明されないでも解る。

「学説の内容と作者の過去の行状は関係ないのに、わざと混同して排除しようとしたんだな」

「はい。これに反論したのはポール・ド・マンに近しい学者や弟子筋で、問題の親ナチス的記事に使われた語句の端々から『これは本意で書いたものではなかった』という論拠をひねり出して、スキャンダルの誹謗者たちを猛批判しました。

 ド・マンがナチスシンパだと決めつけられて、身内として巻き添えになっては困りますから彼らも必死です」

 それはそれで、記事の意味をねじ曲げて敵を殴る棒にするような行為だ。ここにあって文章の内容はどうでもよく、ただ政争の口実に貶められてしまっている。

 僕らが理解していることを目顔で確かめて、帆影は話をまとめに入った。

「このように、作者と作品を混同するのは、読書という行為の価値を損なう不毛な行為なのです。

 本を開く時、『作者』はもう死んでいますし、死んでいるべきなのです。

 ですから」

 帆影はもう一度、伊井坂の目線に顔を下げた。

「伊井坂さんも、気にしない方がいいと思います」

「んっ……」

 伊井坂は、その言葉をたしかに受け取った。顎は机に載せたまま、にっこり微笑む。

「ありがとね、ホカちゃん」

 もちろん、帆影と違ってそう簡単には割り切れないだろうけど。

 笑う元気を見せてくれた伊井坂に、僕はこっそりと安堵の息を抜いた。


 ――息といっしょに空の栓も抜けたように、しとしとと雨が降りてきた。

 地面に落ちずに空気で溶け消えるような静かな雨だったけれど、それが今年の梅雨の始まりだった。

 僕も帆影も折り傘を持ってきていたので困らなかったが、伊井坂が忘れた。今日は踏んだり蹴ったりだ。さすがに同情したか、映が駅まで傘を貸すと申し出た。感激した伊井坂に抱きつかれて映は迷惑そうだった。

「あ、でもハユユンはどうするんだい?」

「傘ならあります……て言うか、ハユユンはやめてください」

 顔をしかめた映の言う傘とは、要するに僕のことだった。まぁ、この状況なら兄妹ぼくらが同じ傘を使うのが順当だろう。しかし。

 いざ傘を差して歩き出してみると、いくら映が小柄とはいえ、折り傘だから二人で入るとだいぶ濡れてしまう。こうなると妹の世話を任されていた頃のくせが出て、僕は映の方へ傘をかざして濡れないように注意した。

 仮面優等生らしく物腰は落ち着いているが、足運びが妙にせっかちなのは昔と変わらない。映は時々こっちを見てにっこり笑い、

「あんまりくっつかないでね」

 と、人道を外れた発言をかましてきた。そのくせ機嫌はよさそうだから腹が立つ。

 そんな中、ふと気配を感じると、帆影がすぐそばに来ていた。同時に気付いたのは、映に傘の面積を譲って雨を受けるままになっていた肩に雨粒が落ちてこなくなっていることだった。

 ――帆影がすぐ横に来て、僕の傘からはみ出している部分に自分の傘をかざしてくれていた。帆影は僕より背が低いから、そのまま歩くのはちょっと窮屈そうなのに。

 僕の視線に気付いて、彼女はただ小さくうなずいた。それから目を前方に戻して、自分も濡れないようにさらに僕へ体を近付けた。

 夏服で露わになった二の腕が微かに触れる。

 感謝の言葉を口にしようかと思って、やめた。それをしたら、前を行く映や伊井坂に気付かれてしまう。だから。

 僕は無言で帆影に甘え、傘を打つ雨の音に耳を澄ました。

 今までで一番、駅までの道を短く思った。



 夜になっても雨はやまなかった。

 しばらく暑い日が続いたので、いいお湿りではあった。日中曇っていたから気温も低く、夜の今は肌寒いくらいだ。

 そろそろ寿命の来そうな蛍光灯が健気に照らす自分の部屋で、僕はディスプレイに表示された自分の小説を読み返していた。


 仮タイトルは『秋葉原ゴールデンフリース』。

 時は近未来。地殻変動によって半ば水没した上、バイオテロでゾンビだらけになった秋葉原。封鎖された電気街には、大量の商品が取り残される。

 一方、首都移転の混乱と全国的な災害ダメージの影響、綱紀粛正の目的から、日本は娯楽産業の大規模な縮小を余儀なくされる。災害で失われた品も多く、日本産の娯楽品は世界中で市価を高騰させることになった。

 主人公は、復興の中でギリギリの生活を送る少年少女。彼らは封鎖された秋葉原からオタクグッズおたからを運び出して高値で売りさばくビジネスを思い付く。

 首ほどの高さまで浸水した電気街。建物内に潜むゾンビの群れ。ゾンビを避けつつ不法居住する武装変態HENTAIたち。主人公たちはそんな障害を乗り越え、一攫千金の夢を掴むことができるのか?


 ――というのが大まかなあらすじだ。

 どうでもいいような娯楽品オタクグッズが状況や見方によって思わぬ価値を持つ、というあたりに、文化祭で書いた宇宙人が地球文明に接触する短編からの流れがある……気がする。

 筆の進みは遅々としたものだったけど、連作短編の最初の話はどうにか形になった。

 そろそろ帆影に見せられるかもしれない――そう思っていた矢先に、今日の文芸部だ。

 ……本を開く時、作者はもう死んでいる、か。

 だとしたら、僕の書いた小説を帆影に読ませることに意味はあるのだろうか。

 いや、書いた物の感想をもらうのは良いことだと思う。本はそうやって洗練されていくのだろう。でも、僕が書く気になったのは、書いた物を帆影に読んでもらいたかったからだ。

 作品を通して言葉が欲しい。今の僕になにができて、なにができないのか伝えたい。帆影に見てほしい。でも帆影は、単純に、絶対的に、ただの物語として文章を読むだろう。

 その時、帆影の中で作者ぼくは死ぬ。帆影ほど極端な読書観の持ち主なら、きっとためらいなく殺す。この小説の中から僕は消える。

 ――。そんな、あるいは奇っ怪な命乞いが頭で叫ぶ。

 そもそも、本として配布された時点で作者の意志が死ぬなら、人間はなんのために本を書くのだろう。

 なにかのノウハウを書いた実用書や啓蒙書なんかはまぁ、解りやすい。知識を広めて社会を豊かにする。

 僕が書いているような物語はどうだろう。商業用なら、読者の感情をマッサージすることで賃金を得ていると解釈できる。でも、最初から売るためではなく書いてる人は大勢いるし、現に僕がそうだ。

 でも、帆影にメッセージを送りたいなら手紙を書けばいい。なんで小説を、物語を書こうと思ったのだろう、僕は。

 しん先生こと果穂ちゃんはたしか、受験のストレスに耐えかねて気分転換として書き始めたって言ってたか。僕が子供の頃に映と果穂ちゃんにした即興の「お話」に影響を受けたとも言ってたけど、あれは社交辞令のようなものだろう。果穂ちゃんは映と違って、昔から僕に気を遣ってくれる。

 うぅん…………どうも、よく解らない。ここしばらく、よく解らないことをよく解らない自覚もなく一生懸命にやっていたらしい。

 無意味な時間だったのだろうか? いや、でも、それを自覚できたことに意味があるのか……?

 いくら自問しても答えは見つからなかった。

 ただ、書いた物を帆影に読んでもらえば、その時に答えが垣間見えるかもしれない。そんな気がした。

 僕は小説のデータをUSBメモリにコピーして、バッグにしまった。プリントアウトしなくても部室のパソコンで読み込める。

 ――明日、帆影に読んでもらおう。

 文化祭の時のように微笑んでもらえるだろうか。期待と緊張でちょっと吐き気がしたが、書いてしまったからには後戻りはできない。

 なにより、僕から帆影にした約束だ。

 明日のことで頭がいっぱいになって、今日はなにも手に付きそうにない。帆影に告白した日のことを思い出しながら、僕は電気を消してベッドに入った――


 しかし翌日、帆影は学校を休んだ。


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