第四十話 生きるという選択

 暗闇はなおも勝隆の心体を包み込んでいた。いざ包まれると、闇はそれほど冷たくもなく、怖くもない。かといって湯殿に入るような温かさはないが、すくなくとも自分を傷つけるものではないという安心感がある。

 その時、勝隆の耳ではなく脳裏に声が浮かんだ。聞こえるのではなく浮かんだというのがまさに正しい表現だった。普通では考えられないことではあるが、何故かそれほど驚かず不思議にも思わない。


「勝隆」


 その声は、はなの声だった。はなが神懸かった時に発する妙齢の女性の声である。最後に聞こえた時と同じく、尊大な口ぶりで、こちらに大して軽蔑すら感じるような声色である。もっとも、もはやそんなことは勝隆にとってどうでも良いことだった。それよりもどうしてはななのだと言うという方が気にかかった。はなが別人のようになるということは知っているが、所詮は血のつながりもなく、付き合いの浅い他人である。もしここで声が聞こえるとしたなら顔も覚えていない両親を覗いて、勝盛、幼馴染みの三郎か、白か、あるいは綾姫だろうと思ったのだ。


「お前はここで死ぬのか。死んで、再びこの世に生まれ出てくるまで根源に還るか。それとも、またこちらへ帰るか。今ならどちらでも出来る。どちらの世も、今のお前が帰る場所には違いない」


「構わない。俺はどちらでもいい。でも・・・このまま死んだ方が楽な気がする。俺は、俺が背負わなくてはならないものが多すぎる。その事に気がついた」


「それは平家の一族のことか」


「それもある。けれど、それだけじゃない。俺の、心のことだ。俺は人と心の動きが違うらしい。前から言われていたが、里を出てその事に自分でも気がつくようになった。三郎を逆上させてしまって、このままではいけないと思い、自分を変えたかった。このままではこの世で幸せになれない、幸せに出来ないと思った。けれどそこでまた気がついた。自分を変えるというのは、とても難しいんだ。他の人間はそうではない。生まれ育ってそのままの状態で、聡明だったり、人から好かれる性格だったりする。しかし俺は今から変えなくてはいけない。それはとても辛い」


「そうだな。それは難しい。別に私はお前はそのままでも良いと思うし、そのままでも生きていけると思う。だがお前自身が変わりたいと願うのなら、それは誰にとっても難しく辛いことなのは間違いないのだ。だがそんなことはどうでも良い。生きるということは辛さを伴うものなのだから。しかし勝隆」


 はなの口調が変わった。

「お前の人生は、まだ始まったばかりではないか。どれほど今が苦しくても、その前には希望がある。その希望を現実に出来る力がお前にはあるのだ。それを手放して良いのか」

 

 慈愛に溢れ導かれるようなその言葉は、勝隆の中に小さな炎を灯した。勝隆の脳裏に様々な未来が浮かび上がる。綾姫を助け出し、長宗我部を抜け出した彼女と自分は所帯を持っているのである。どこか誰も知らない土地へ行き、家を建て家族を作る。自分も、そして綾姫の顔も笑顔で、二人の間にいる子どもは何とも愛おしいものだった。 

 また別の光景もあった。綾姫を助け出した後、貞親を倒し長宗我部と自分の一族とを合流させるのである。綾姫は長宗我部のまま、自分は平家の名を継いで、そして二人の才覚と白の不可思議な力で四国を一気に統一するのだ。そんな未来の光景だ。また別の光景では、白と綾姫と三人でこの国を出て気まま旅をしている。それは知らず知らずのうちに勝隆の中にあった自分の希望であり、欲望だった。自分は、まだこの世にそんな希望と欲望の可能性がある。


 「そうだ。その欲こそ人間であり、若さと生の証だ。それが全てを作り出すのだ。さあ、黄泉帰れ。勝隆」

まだ未練がある。欲望がある。そして世界は見知らぬ者と愛で溢れている。見たい光景があり、それが出来るのは生ある者だけなのだと自覚した時、勝隆の瞳に光が宿った。勝隆は目を開き、自分を抱いている闇を振り払おうとした。


 しかし、生きようと決意した瞬間、今まで心地よく自分を抱いていた闇は、罠にかかった獲物を逃がさぬとばかりに、恐ろしいまでの鋭さと冷たさで勝隆の身体に巻き付いてきた。圧倒的な存在感と重圧感、そして絶望が勝隆の芯を従属させようと襲いかかっていくる。勝隆は今まで自分が身を委ねようとした者の正体を知り、初めて恐怖した。

 

 (これは、生きたいと願う者にとっては恐ろしいものなのだ)


 身体にからみつく闇は、生きたいと願えば願うほどに強くなっていく。このままでは、屈服させられる。自分は何もかも失って、どこか途方もなく遠いところに連れて行かれる危機感が襲ってきた。


 (誰か助けてくれ)


「しょうがない。これが最後だぞ」


 少し優しくなったはなの声がまた聞こえると、勝隆の目の前で突然凄まじい光が輝き始めた。相手を突き刺すような鋭い光ではなく、優しい光の粒が無数に重なって成っている光である。その光は強烈な激しさは無かったが、その光の粒子によって、自分を取り巻く闇が一気に弱まったのを勝隆は悟った。全身にありったけの力を込める。そして心の中では、この世にこのしてきたありったけの未練、未来への希望欲望をこめて、まるで天地に万物に宣言するかのように力の限り叫んだ。


「俺は、生きる」


 次の瞬間、勝隆はまた別の場所にいるということが分かった。目の前にあるのは天井である。ということは、自分は今寝ているのだ。

 視線を横にやると、狐姿の白、その後にいる二人の老人と子ども、康政の姿があった。とりあえず、自分は帰ってきたのだと勝隆は思った。

 すかさず白が寄ってきた。


「勝隆、もう本当に心配したんだから。ごめんね、応急処置はとしいたんだけど、、私、少しあんたから離れて隠れていたの。私がずっとついていれば、もっと早く目が覚めたはずなのに」


 白は涙目だったので、勝隆は軽く指を開閉させ自分の腕が動くことを確認すると、白の身体を撫でるように触った。上手くは言えないが、きっと白が自分の傷をただ癒してくれていたとしても、自分はきっと目は覚めなかっただろうと思った。

 では自分がこちらにかえってこられた理由、それは一体何だったのか。誰が助けてくれたのか。先ほどまで確かに自分の掌にあったはずの答えが、今ではよく分からなくなっていた。

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