第三十六話 時を超えて


 太三郎の話を聞いた白は、これは夢ではないのかと俄には信じる事が出来なかった。三百年も前に喧嘩別れした子分が突然訪ねてきたかと思うと、平家と浅からぬ因縁があるという。しかもどうやら、平家の興亡を記録した平家物語は彼と琵琶法師との合作という事になる。

これはただの偶然ではないと思った。考えれば考えるほど、何かに導かれているとしか思えなかった。

白は今、瀕死の際にいる平家の少年の事を話すべきか迷った。


「ねえ。それより・・・姐さん。なんだって姐さんは、こんな廃寺になんて籠もってるんですか。俺、姐さんの竜の変化を知って、いてもたってもいられなくて駆けつけましたけど、まさかこんなボロ寺にいるとは思いもしませんでしたよ」


太三郎は頭を掻きながら、純粋に驚いているようだった。その顔がまるで邪気のない幼い子狸のようだったので、白は気がついたら自分が目覚めてからの事を話していた。

太三郎も最初は驚いていたが、話が進むうちに神妙な顔つきになり最後は唸っていた。


「なるほど・・・こればただ事ではないですね。一体どういう因縁なんだか。その平家の生き残りって言うのもさることながら、姐さんの分身っていうのも、ただ事じゃねえですね。つまり姐さんは、ここでそいつを倒す作戦を練っているところですか」


太三郎の期待に満ちた眼差しは、白のよく知っている威勢の良いものだった。今にも自分も加勢させて欲しいと言わんばかりである。

 しかし、白は何かを一度言いかけ、大きなため息をついた後に小さな声で言った。


「そんなんじゃないのよ。私、よく分からなくなったの」


白の言葉を太三郎は理解出来ない。一体、かつての師であり親分は一体何を言っているのか。


「私、実は目覚めてから昔のことはよく思い出せないことがあったの。別にどうしても思い出したかったわけじゃないからそんなら気にしなかったんだけど、あいつと会ってかなり思い出した。私は仙人であり、妖怪である大妖狐よ。神に封じられて天界に昇れる機会も何度もあった。でも断った。私は私だから。私は、人が善と悪どちらなのか知りたくて地上に残ったのよ。だから私は特例で人界にある干渉することが許されていたんだわ。私は、ずっと信じたかった。人は、善なのだと。たとえ世の中が悪で溢れていても、人の本性は善なんだってね。何でって聞かれても、気になるんだから仕方ないわよね。でも、私が寝ている間に世を見てきたあいつは、人を悪だと判断した。そして悪の想念を源にして、平和な世を作ろうと動いている」


白は大きなため息をついて、さらに小さい声で言った。


「なんだか分からなくなったわ」


 太三郎はその様をそれまでの弟子の子狸が見上げるのではなく、年若い娘が嘆くのを愛おしむ翁のような眼差しで眺めた。

今、自分の目の前にいるのは、齢数千年を数える大妖狐でも大親分でもない。自信を無くしたただの若者である。その葛藤が、いまや若者をしごくだけではなく、励まし導く狸の泰山北斗となった自分には微笑ましくもあり痛ましくも感じる。

そう思った時、自分だけ途方もなく歳を取ってしまったのだと太三郎は悟った。


「姐さん、目が覚めてずっと若い者と一緒にいたからですかね。なんだか今の姐さんは娘御のようです」


その言葉は太三郎が自分の老いを確認するためのものだったが、白はそうは取らなかった。


「ふん。すっかり生意気になっちゃって。なんとでも言いなさいよ。私はしばらくここでゆっくり過ごすから」


白は次第に太三郎が疎ましくなってきていた。そのうち、この狸は自分の身内のような顔¬を自分を何か陥れに来たのではないかとも思えて、白は咄嗟の理性でそれを否定した。一人でいると、どうも根性が悪くなって全てを悪く穿って見てしまうものである。


「いや、姐さん。行きましょう。さっきも言ったがこれはただの縁じゃねえですよ。きっと何か意味がある。それに、今のままだと、なにか恐ろしい事が起きそうな気がする」


「・・・・・」


「姐さん!」

太三郎は蹲る白に触れようとした。


「あー、聞こえない。聞こえたくないの。うるさい、ほっといて!」


その瞬間何かの力が働いて、太三郎は吹き飛ばされた。身体が宙を舞い、木の壁にぶつかる。

静かな本堂にどんと大きな音が響くと、太三郎は為す術もなくそのまま板に落ちてしまった。辺りには土産に用意した饅頭が転がる。倒れ込んだ太三郎に、今まで彼の後に隠れていた金太が慌てて駆け寄った。


「爺ちゃん!」


太三郎はよろよろとなんとか上体を起こし、心配するなとばかりに金太に微笑んで、頭を撫でたが、祖父の身体の状態を知る金太は気が気ではなかった。

金太は額の祖父の手を握りしめると、キッと抗議の眼差しで白の方を睨んだ。

そして何故か転がっていた饅頭が手の中にある。金太は気がつくとその饅頭を白の顔めがけて投げつけていた。

 金太が放った饅頭は、見事に白の顔に直撃した。白の真っ白な顔に、皮が破れて飛び出したあんこがべったりくっついた。その様を見て、太三郎は顔が青くなる。白は不気味な沈黙を保っているが、激怒している事は間違いなかった。もしこれが爆発などしてしまったら、この辺り一帯はどうなってしまうのだろう。


 「やい、爺ちゃんになんてことするんだ!爺ちゃんはなあ、もう身体が悪いのにあんたに会うために無理して長い旅をしてきたんだ」


しかし金太は祖父の静止を振り払い、そのままずかずか前へ前へと出てきた。


「なんだよなんだよ。俺は、爺ちゃんから白面の御方といえば、神仙と戦った大英雄、この国の妖怪を束ねた大親分だって言い聞かされて育ったんだ。金色に輝くその美しさと威厳たるやなんたらかんたらってな。それがどうだよ。こんな所に引きこもってさ。最悪だ。格好悪いぜ」


「おい、金太・・・」


「さっきの話を聞いてたけどさ、結局あんたは怖くて逃げ出したんだろ。爺ちゃんが言ってたよ。御方は人間を愛していたんだって、だから人間を信じたかったんだって。御方は一途だから、相手の悪いところを見ても良いところを探し続けたってね。けど、もう一人のあんたが人を悪だと判断したら、もう恋は終わってしまう。それどころか、今まで自分が信じてやってきたことはなんなのか分からなくなってしまう、それが怖いんだ。あんたは失恋しそうで怖くなったんだ」


もはや太三郎は金太を静止しようとはしていなかった。呆然となりながらも、恐る恐る餡子にまみれた白の顔を見上げる。

白は長い舌で顔中の餡子を舐めると、金太を赤い眼で見つめて沈黙した。金太は戦きそうになったが、啖呵を切ってしまった以上、こちらも意地で決して目をそらさなかった。


「・・・小僧。言いたい事はそれだけか」


白の言葉を聞いてようやく我に返った太三郎は、これからどんな嵐が起こるのかと蒼白になった。慌てて立ち上がると、金太の小さな頭を押さえ込み一緒に叩頭した。


「ね、姐さん!どうか勘弁してくれ!まだ子どもで道理がなんも分かっちゃいないんだ!俺はどうなってもいいから、孫だけは見逃してやってくれ」


金太はようやく自分がしでかした事を自覚したのか、太三郎の手のひらの中、鞠のように小さな頭をぶるぶると震わせはじめた。


しかし白の目顔は険しく二人を見つめており、どうやらただではすみそうもない。


「姐さん」


「さぶちゃん、その子は・・・あんたの孫?」


白の突然の問いに、太三郎は言葉が詰まった。一瞬間があってようやく理解した太三郎は、そうですと答えた。


「そっか・・・所帯持ったって言ったもんね。ああ、なんて事、昔のあんたに瓜二つじゃないの。全く、恋だのなんだのってまだ何も知らないくせに」


白は祖父にすがりつく金太を、目を細めながら漏れ出るようにそう呟くと、もう一度顔に残っているあんこを舐める。

なんという美味しさだろう。その美味たるやまるで甘露の如しである。このように甘く霊薬のような饅頭とあんこは、人間はおろかたとえ仙人だろうと作れまい。その味とともに、脳裏に過去の様々な思い出が駆け巡っていく。どうして忘れていたのか、つい先ほどまで、全く忘れていた事柄が川のように流れてくる。

不思議な事に、白の思考は逡巡しながら、みるみるうちに冷静にそして鮮明になっていった。


「甘い・・・おいしいわ。久しぶりに食べた、さぶちゃんの饅頭。昔は良く作ってくれたもんね。とにかくあんこが絶品で、どうしたらこんな美味しい味になるのかと聞いても、ずっと教えてくれなかった」


「・・・怖かったんでさあ。饅頭の作り方を教えちまったら、俺なんてもうお払い箱で相手にしてもらえなくなるんじゃないかって」


二人からささやかな笑いが漏れ出した。


「さぶちゃん・・・あんたから見て、昔の私はどうだった?」


太三郎はその問いにすぐには答えず、居を正して白の前に座った。


「実はね、姐さん。俺はもうそんなに長くはねえ。というか、いつ死んでもおかしくない身体だ。さっき見たとおり、俺は姐さんにちょっと弾かれるともう踏ん張る事も出来やしねえ。それでも、姐さんに会いに俺はやってきた。どうしても姐さんに言わなくちゃいけない事があったからだ。それを言わずには死ねやしない。俺もここに来てからさっさと言えばよいものを、近況報告やら昔話やらでどうも言い出せなかった。けど、今やっと言うよ。姐さんがあの頃どうだったかって?そんなの決まってる。最高だ、最高だった。そして今もこれからも、姐さんはいつだって最高だ。俺は初めてあった時から、姐さんに惚れてたんだ。姐さんの優しいところも激しいところも、全部好きだった。ああっ、やっと言えたぜ」


太三郎の笑顔は、まるで雨上がりに輝く日輪のように爽やかに輝き、表情は後光を背負った仏のような慈しみに満ちていた。

 

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