第五話 清盛

 集会が終わり、男達は用意された夕飯にはほとんど手をつけずにとぼとぼと帰っていった。

 猛烈な力を持つ嵐が去った後の、一抹の寂しさが屋敷内にはあった。しかし彼らの明日から日常は、今日とそう変わらない。

 ただ、心の奥底にあり、三百年の時を経て本能にまで高められた夢が、消えてしまったのである。

 勝隆は夕食を済ませた後、頃合いを見計らって、勝隆は祖父の部屋へ行った。一仕事を終えた勝盛は、奥の部屋で薬湯をゆっくりとすすっている。こんな時は、薬湯よりも酒が飲みたい気分なのではないだろうか。


「爺上」


「勝隆か」


 暗がりで見る祖父の顔は、不思議と先ほどよりも十は老けて見えた。整った顔立ちに刻まれた皺が寂しい印象を与え、質素な身なりもそれを際だたせている。 

 勝隆はふと、まだ幼い時分の祖父の顔を思い出した。あの頃の祖父には、獣のように漲る激しさや厳しさを感じたものである。しかし今のその表情は、野風になびく草花のようになんとも穏やかだった。

 大きな仕事を終えた時、男はこういう顔をするのだと勝隆は思った。


「お前は、あまり狼狽えておらぬようだな。若いからであろうか。いやそうではないな。普段は冷静な三郎でさえ、あのようなのだから」


「そのように見えますか?」


「三郎に比べれば遙かに。もっとも、あやつの怒りや戸惑いの方が、村の者の気持ちに近いのだろう。奴の感じ方は正しい。悪い事をした」


「心中お察しいたします」


「やめぬか。白々しいぞ」


 勝盛は孫の胸の内を見透かすように言った。この老人は村の若者とは違う、自分の孫の心の内をちゃんと得心していた。


「お前は、さほど平家の名に囚われてはいなんだ。普段は融通が利かぬくせに、気まぐれが起きれば村の掟など平気で破る。儂は正直お前は分からん。地父と母を早くに亡くしてしまったからなのか。幼い頃から、お前は我々とは別のところで生きていたのかも知れないな」


「はい。随分と殴られました。しかしあれには納得いきません。村を出て人里に出たというのならまだしも、ただ村を出て野山を走っただけで処罰されたこともありました。それほどの危険は冒していはないのにと、随分根に持ちました」


 勝盛は、孫と会話がかみ合っていないことを気にはしなかった。


「隠れて生きるというのは、神経を使うのだ。それにお前はこの家の跡継ぎだからな。息子の隆盛が亡くなってしまってからは、余計に厳しくせねばならなかった。まあ、それでも村を抜け出すのだから、困った奴じゃ。しかし、もう罰せられることもないぞ。この村の出入り禁止を解いたのだから。お前にとっては良い話だろうに」


 しかし、掟を掟と感じていない勝隆にとっては、むしろそれはどうでも良い事だった。それより、気になる事がある。


「・・・爺上は、その決断に後悔していないのですか?」


 その決断というのはつまり、平家再興の希望を捨てるということも入っていた。平家再興は、この村で暮らす人々そして先祖達の悲願。それは希望であり生活の張りであり、なにより山野で隠れ住む自分たちの矜持を保つものだった。勝盛は突然に、それを捨てる宣言をした。

 祖父が慎重で誠実な人間である事を勝隆は知っている。一体どのような考えで、今日の決断を下したのか、勝隆は漠然と疑問に思ったのだ。


「儂は清々しておるぞ。代々我が家の当主は、今夜の宣をいつ出せばよいのか迷っていた。そもそも主上がこの地で果てた時、平家の命運は終わっていたのだ。本当に、御先祖様をお恨み申し上げる。もっと早々に今宵のような決断を下していたなら、子孫は縛られること無く暮らせたものを。


 しかし儂とて人のことは言えんな。勝隆、儂はな。自分が家を継げはすぐに決断を下すつもりでいた。しかし六十の今日まで決められなんだ。いざ家督を継ぐと不安なるのだな。自分の代でこれを行って良いものかどうか。待っていれば時機が訪れるかも知れぬ。それはもしかすれば次の代かもしれない。今ここで辞めれば、今までのこと全てが無駄になってしまうではないか。自分は耐えて引き継がなければならない宿命にあり、余計なことをしてはならぬのではないか、と。自分の決断が不安になってくるのだ。それに儂らには、他の残党と違い血筋も正しく、なによりあれがあった。それで、今宵までかかってしまった」


 勝盛はしばらく目を閉じ、空になった器に白湯を入れてそれをすすった。


「ではどうして今宵、やっと下す気になったのですか?」


 突然すぎる、と勝隆は思っていた。決断に異議はなく、祖父の葛藤は納得したが、それでも何の前触れもなくあのような宣言をするとは。

 村中に動揺が走るのは間違いないと思う。まだ若輩の勝隆でも予想出来るのだから、勝盛がそれを考えていないはずがなかった。

 いや、それとも察することが出来なかったのは自分だけで、村にはそのような雰囲気が元々あったのだろうか。


 あの夜、三郎は人々の目の動き、手足の動き、村の中の大きな人の流れ、漂う空気などを感じ、全てを取りまとめて思ったのだと言っていた。勝隆は自分が常々、人の気持ちや行動に鈍いということを自覚していた。


 二年前の春もそうだった。村で一番美しいといわれる娘の七菜が、じっと勝隆を見つめてくるのである。七菜は既に亡くなっている勝隆の母に変わってよく世話を焼いてくれる娘で、勝隆とも付き合いが長く、普段からありがたく感じていたのだがこの行動は全くの謎だった。庭で剣の素振りをしている時や畑を耕している時、村の外に忍び出る時以外は林に隠れてさりげなく自分を追いかけてくる。

 ある日、気味が悪いので勝隆は庭に来ていた七菜を思いっきり睨んだ。当然七菜は泣き帰り、次の日から勝隆は村の娘達に随分と睨まれた。ああっ、七菜は自分を慕ってくれていたのだ、と勝隆がようやく気づいたのが実は先月のことだった。しかしそれでも、慕うと言うことがどういう事なのか分かっているわけではない。


 母親がわりであるなおとの関係についても似たような事があった。勝隆は一度、山の中で迷子になり、夜になっても郷に帰ってこなかった事がある。当然、なおをはじめ、一族は心配し方々探し回った。


夜更けになってようやく見つかり、なおと三郎は泣きながら勝隆を抱きしめた。しかし勝隆には分からないのである。どうしてなおが泣いているのか。彼はどうしても分からなかった。


 ともあれ、勝隆は鈍い少年なのだ。


 勝盛は孫の問いに、優しい眼差しで答えた。


「儂にもわからん」


 勝盛は惚けたように言った。しかし表情は極めて真面目である。ふざけているのではない。何か言葉に出来ない大きな力を感じ、それを伝えたがっているようにも思えた。


「しかし、突然決心がついたのだ」


 勝隆はそこ答えにはいささか不満であった。もっとはっきり言って欲しい。この不測の事態を納得させて欲しかった。


「不満か?しかし重大なことは何でも突然と相場が決まっておる。これは私の悟りの一つじゃな」


 勝盛はそう言ってまた湯をすすった。


「もしかして、あのはなと関係があるのですか」


 勝隆の指摘に、勝盛の器の動きが止まった。


「お前はたまに聡くなるのう。あれは不思議な娘だ。見た目は何の変哲もない、特に目立って美しくもない娘であるのに、どうもこう目を奪われるものがある。目を奪われている内に色々と考えてしまう。

 儂はふと、清盛入道様の言い伝えを思い出した。確か清盛様がお若い時分、ある神社の祭りで平家一門が宿願成就のため田楽を奉納しようとした事があったという。しかしその際、郎党が神人に武具の携行を咎められ、小競り合いになったのだ。

 あの頃、普段から僧や神官たちは破落戸(ならずもの)のようなものが多く、神仏の権威をたてに都でも傍若無人の振る舞いだったらしいからなあ、清盛様は元々我慢がならなかったのやもしれん。一門にもその鬱憤もあったので、この騒ぎはどんどん大きくなっていった。

 小競り合いが終わった後も、比叡山の僧侶たちは神輿を担ぎ出し、郎党の主である清盛様の配流を求め、凄まじい数で都へ押し寄せたのだ。奴らの最大の武器なんと言っても、神や仏の権威。その象徴たるこの神輿じゃ。これには何人たりとも逆らえない。ひと度神輿を担ぎ出して進めば、いかなる皇族、公卿もそれを遙拝しなければならないという決まりがあった。

 しかし、清盛様は毅然と神輿の行列の前に立ち塞がると、矢を構え、放った。

 それがどれだけの禁忌だったか、分かるか。普通であれば、間違いなく死罪。いやそれどころか、神輿に矢など射れば、その途端に天からは雷が下り体は黒こげとなって四散すると言われていたのだ。それでも清盛様は死にはしなかった。時の帝も、公卿たちも、神仏の大威徳でさえも清盛様を殺す事は出来なかったのじゃ。

 なぜか。それはもう善悪を越える、天と地と人の心に訴えかける大きな力があの瞬間清盛様にはあったからだと言われている。清盛様は神輿に矢を射た瞬間、世の中の、ものの考え方を変えてしまったのだ。世の中には、そういうきっかけをもたらす天命を授かった者がいるということだな。大げさかもしれんが、はなも似たような力があるのかも知れぬ。ああいう娘が外から来たと思うと、人はもう村の外に出ずにはいられまい。私が決断を考え出したのは昨日今日のことではないが、きっかけといえばもしかすればあの娘かもしれん。まあ、そんなことはどうでもよい。お前はこれからどうする?」


 尋ねるにはちと早いかも知れぬが、と勝盛は付け足した。


「もう村の出入りは自由。野山で遊ぶも、里に行くのも禁ではない。だとしたらお前はこれから何を望む」


 勝隆は柄にもなく答えに窮した。勝盛が今夜出した宣で、恐らく自分や村の者は多くの自由を手に入れた。この村が閉ざされていた理由、自分たちがその閉ざされた貧しい村で身を隠して死んでいた理由、それらが消える事で村の意味は根底から変わる。いや変わると言うよりも、むしろ解放されたと言った方がいいのかもしれない。

 が、それと同時に失ったものも大きい。それは平家再興の志を、村の仲間ほどには持っていなかった勝隆にも同じ事だった。際若い勝隆がどう思っていても、村にとってもそこで暮らす自分にとっても、平家再興という『目的』は既に信仰になっていたのである。


 実際、どうすればいいのか。

 実はこの問いはいささか意地が悪かった。この問いがなされなければ勝隆は明日からも畑を耕し、獣を狩って暮らす。意味が無くなったとはいえ、剣術馬術の稽古も行うだろう。それらは習慣である。しかし改めて聞かれると、まるで明日からは昨日と違うことをしろといわれているような気がする。或いはそれを期待されているような、迫られる感があるのだった。


「わかりません。・・・元々、何か考えがあったわけではありませんから」


 孫の素直な答えに祖父は満足した様子だった。


「うむ。まあそうだろ」


「爺上」


「怒るな。というか、そうであってほっとした。ここで実は嫁にしたい者がいとか、都に行きたいなどと言われたら、儂はお前にこの話をするのが躊躇われた」


「どういう事でしょう。私に何か話が?」


 勝盛は祖父が頷くのを見て、実は祖父がここで自分を待っていたのだと初めて気づいた。


「これが何か、分かるか?」


 勝盛はくすんだ深紫色の包みを畏まった様子で目の前においた。長さを見るにどうやら小刀らしい。

「我らが信仰の元じゃ。お前にこれの処分を命じたい」

 言われて勝隆は目を見開いた。

 思い浮かんだのはまさに、この村三百年の神である。その昔、大蛇を退治したというこの豊葦原の瑞穂の国で最も尊い剣。その剣が、この美しい包みの中に鎮座している。


「爺上なにをおっしゃるのです!」

 普段感情の薄い彼も、この時ばかりは仰天した。これを自分が受け取るわけにはいかない。


「お言葉ながら、これは我らのものではありません。その剣は恐れ多くも主上、すなわち安徳帝の御形見。かつて大蛇の尾から現れ、この国の天子の証として受け継がれてきた尊き御剣です。それをどうして処分など出来るでしょうか」


「剣は、我が先祖が形見として主上より既に賜ったといわれる物。なんの気兼ねもいりはせぬ。物の持ち主や値打ちは、いつかは変わる。この剣の今の主は儂で、今日剣に何の値打ちもないのがこの村における本位なのだ。そうでなければならぬのだ。先ほどの集会でお前も三郎の言い分を聞いたであろう。誰もが心を砕かれていたが、いずれそれも回復する。三郎のように、若い者たちにはこの剣を拠り所として、志を捨てぬ輩も出て来るだろう。それはいかぬ。呪いが続いてしまう。我が決断の意味が無くなってしまうのじゃ。勝隆よ、我らの子孫のためこの剣を正しく処分するのだ」


「正しく処分とは・・・一体どうすればよいのでしょうか」


「儂にも分からぬ。今上の帝にお返しするのがよいのか、巷の伝説で言われているように、海の底へ沈めてしまうのがよいのか・・・。しかしこの世には運命というものがあるという。今日この剣が我らにあり、お前に託されたという数奇な現実は、その大きな流れがあったからこそ。ならばこの神の剣は、お前を正しく導いてくれるだろうと、儂は思う」


 勝隆は恭しく包みを両手で持ち上げると、剣の形を手のひらで感じた。そしてすぐに思った。軽い。信じられないくらいの軽さだった。剣と言うからには鉄や銅で出来ているものだとばかり思い、その重さを想像していたが、これはまるで木のように軽かった。一体何で出来ているのか、あるいはこれは本当に神秘の剣なのか。図らずも勝隆の顔は真剣なものになっていた。


「しかし私に、その運命を受け止める器があるのでしょうか。突然過ぎはしないでしょうか」


「そうだな。若い故、先の事が不安になのももっともだ。そういうと思っていた。そこでだ。手始めにまず土佐を、見てきて欲しい」


 突然土佐、と言われて勝隆は言葉を無くした。それはたしかこの山から南の国の名である。内偵からの、船より遙かに巨大な、海を悠然と泳ぐ魚がいるという話が一番記憶に残っている。


「内偵の話と儂の勘が正しければ、そう遠くない将来この四国は統一されるだろう」


「それはまた」


 近々四国統一という話は、勝隆をさして驚かせはしなかった。もしこれが村外の者であったなら、馬鹿にするか驚愕するかなのだが、なんといっても勝隆には情報が少なすぎた。内偵が探ってきた各国の情報は勝盛および重役しか知らされない。今の天下の乱れ様、百を超える武将に老獪な朝廷入り乱れたるややこしさを、この少年は知らないのである。


一昔前この国をあの源氏が統一したこともあるのだから、さらに小さな四国がいつ統一されようが不思議ではないと思えたのだった。


「それでなんという家が四国を治めるとお考えですか?」


「長宗我部」


 確か土佐七豪族の名であったはずだった。


「長宗我部は、今や本山の配下と聞いておりますが?」


「天下の情勢などはすぐに変わる。なに、本山はその内寝首をかかれるよ。そしてその中で、剣の行く末について、何か巡り合わせがあるかも知れぬ」


 勝盛は自信たっぷりに言った。

 どうやら祖父は、自分の知らない未来を予知しているかのようだと勝隆は思った。


「では、準備が整い次第すぐに出発いたします」


「うむ。支度はなおにさせよう。何、そんなに不安がることはない。言ったであろう。人生において、重大なことは何でも突然と起こるものだ」

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