第3話 ユーラシア激震

「まずい事態になったわね……」

 ディステニアは、憔悴しきった様子で言う。その表情は引きつって、笑っているようにも見えた。

「何故だ? 有利になったように思えるが」


 そのニュースは、電撃的に世界を駆け巡った。


 1942年6月11日、ソ連降伏。


 と言っても、ロシアでの戦いが終結したわけではない。

 ドイツ占領下のモスクワで、ニキータ・セルゲイヴィッチ・フルシチョフが指導する救国連邦政府の発足を宣言。

 ドイツ第三帝国との間で、条件付きで降伏したのだ。

 だが、当然のようにエカテリンブルグのスターリンは救国連邦政府の存在とソ連降伏を否定し、大祖国戦争の継続を訴え続けている。


「問題は、スターリンがどういう行動に出るか、なのよ」

「ウラル戦線から反攻を狙うのではないか?」

 ディステニアの問いかけに、東條は素の様子で答えた。

「シベリアが、全部が全部、スターリンに従うと思う?」

「あっ」

 ディステニアの言葉に、東條ははっと顔色を変えた。

「戦争に巻き込まれたくない連中は、モスクワに従うでしょうね」

「それを防ぐために、スターリンが北満で動く可能性があるということか!」

 東條の表情が、一気に険しくなる。

「兵力的には足りてると思うけど、陸戦兵器を後回しにしたツケが回ってきたわね……」

 ディステニアは、基本的に航空機と海軍艦艇の改善を中心に行ってきた。

 無論、陸戦兵器もまったく手を付けていなかったわけではない。

 アサルトライフルの概念を南部麒次郎に伝え、加えて九二式実包を使うという前提で、南部一〇〇式半自動歩兵銃を設計させた。九八式高射砲牽引車(コヒ車)の量産を急がせ、自動車化部隊の創設を行わせた。

 大砲に関しては、日本は決して後進国というわけでもなかったから、質的改善よりも生産の速度を速めさせた。

 だが、大陸での戦いの主役となる戦車については、使うとしても本格的なものは昭和19年以降になると判断し、後回しにしていたのだ。

 島嶼戦でも、アメリカ軍は戦車を投入してくるだろうが、バカ正直に戦車で撃ち合ってやる必要などまったくない。

 ジャングルの中に牽引式の対戦車砲を隠し、撃破する──一式四七粍速射砲には、それに充分な威力があった。そして浸透戦術は、日本軍の十八番である。

 だが、満州の広い大地ではそういう訳にはいかない。戦車が思う存分活躍できる場だ。

「とにかく、満州国方面軍には、どんな挑発を受けてもこちらから撃たせないようにして頂戴。たとえどんな理由であっても、最前線で銃声を響かせたら、極刑よ!」

「解った」

「それから、牟田口廉也と富永恭次の2人を探し出して、東京のどこかにでも軟禁しておいて!」

「何故その2名を?」

 当然のように、東條は聞き返す。

「後の史書で、牟田口は盧溝橋事件の首謀者、富永は部下に突撃させておいて自分は逃げ出す最悪の指揮官とされてるわ。この2人に自由な行動をさせておいたら何をしでかすかわからない!」

 本当はもう1人、辻政信がいるが、すでに東京から動けないようにしてある。

「解った、すぐに手配する」

 東條はそう言って、ディステニアの部屋を出ていった。

「まさかこんなことになるなんて……ね」

 昭和16年──1941年3月にユーゴスラビアでクーデターが起こるという情報をドイツに流し、結果的にバルバロッサ作戦の開始を3週間ほど早めさせた。マドリードの日本の諜報組織である東機関を通じてドイツ国防軍内部に内通者を送り込み、グデーリアンを唆してモスクワ突入を実行に移させた。

 だがそれでも、ソ連の体勢崩壊は早くても1943年──昭和18年以降だと見込んでいた。それが1年近く早く起きてしまったのである。

「そうそう思い通りにはならない……いや、最初から思い通りになんかなっていないのか」

 何故このタイミングなのか、それを考えたディステニアに、ひとつの答えが浮かんだ。

 アリューシャン作戦だ。



 本来MI作戦の陽動であるAL作戦だったが、同時にアメリカの対ソ支援ルートの妨害という性格を帯びていた。

 まず前哨基地としてアッツ島に上陸し占領。そのまま艦隊は北上し────

 セント・マシュー島を占領した。

 アラスカの目と鼻の先である。はっきり言ってしまえば攻撃が実施できるだけでも良かったのだが、少数の沿岸警備隊コースト・ガードしかいないような島、あっさり上陸できてしまった。

 アラスカ本土からなら思い切りB-17の攻撃範囲に入るが、そもそもそのあたりにB-17が運用できるような航空基地がない。アンカレッジからでは遠すぎる。

 そこから横須賀空技廠H5Y 九九式飛行艇を発進させ、セント・ローレンス島に六番陸用爆弾6発を投下した。

 戦術的な意味はない。だが、戦略的な意味はある。ここまで日本軍はやってきた、と示す。

 この一連の作戦行動により、対ソ支援ルートの遮断がいつでも可能なことを示したのだ。

 元々アメリカの対ソ支援は太平洋ルートがもっとも比重を占めており、50%内外がこれによっていた。それを遮断することが可能と思わせれば、ソ連にとって不利になるということである。


 一方、余録的な作戦目的のひとつは達成することができなかった。

 それは、改装航空母艦『神威』に設けられた空気式カタパルトの射出実験である。

 国鉄の機関車のコンプレッサーを模して作られたこのカタパルトだったが、ベーリング海のあまりの寒さに動作不良を起こし、試験は中止された。

 結局、神威の搭載機は、従来どおりの方法で発艦した。



 この為の上陸部隊は、まず生きて帰れないことを覚悟した決死隊だった。そのため、形見分けを済ませて上陸していった。

「行いが悪かったかしらね……」

 ディステニアは呟いた。

 フルシチョフらが日本の作戦行動と、それによる枢軸軍の優勢により、危機感を抱いて行動を起こしたことは間違いない。

 再度世界地図を見る。

 今、スターリンが極東で軍事行動を指示し、ウラジオストック軍区がそれに従うようであれば、かなり危機的な状況に陥る。

 南部一〇〇式半自動歩兵銃は対米戦・南方作戦部隊に優先されており、満州方面軍のほとんどはまだ三八式歩兵銃だ。もっとも、ソ連もこの状況でAKが出てくるとは考えにくいが。

 後はウラルの疎開工場の能力が問題か。極東にまで戦車を送ってこれるほどの能力があるかどうか? ヨーロッパ・ロシアやウクライナの戦車工場はすでにドイツに抑えられていて、ドイツを恐れさせたT-34は、今や41(r)戦車として、北アフリカで紙装甲のイギリス戦車相手に暴れまわっている。

 また、他の連合国がフルシチョフとスターリン、どちらをソ連の正統政府と認めるのかの問題もある。ルーズベルトはスターリンを推す可能性が高いが、チャーチルはヒトラーと同じかそれ以上にスターリンが嫌いなはずなので、フルシチョフの政府を認めはしないまでも、スターリンもついでに放置する可能性がある。

 いずれにせよ、スターリンの暴走の火の粉が日本にかかる可能性が出てきたことは、看過できなかった。

「太平洋側でも戦線の縮小は避けられない……か」

 赤城と飛龍を失ったのは痛かった。加賀も修理にはだいぶかかる。まだ翔鶴も修理中だ。

 アメリカの空母をエンタープライズとサラトガの2隻にまで減らしたのはいいとしても、この後のことを考えると、日本側の戦力も充分とは言えない、どころか、かなり危うい。

 今のところポートモレスビーまでの補給に不安は生じていない。もっとも、ギリギリであることは確かだったが。

 戦時標準船の建造は順調であり、アメリカがろくすっぽ炸裂しない魚雷をマジメに改修する来年中頃までは船腹に不足は来さないはずだ。

 対潜装備の開発は、ディステニアが想定したよりも早く進んでいる。

 というのも、マレー沖海戦で英駆逐艦『テネドス』、豪駆逐艦『ヴァンパイア』の2隻を拿捕していたのだ。この2隻の駆逐艦からイギリスのソナーを解析することができた。

 この結果、二式水中探信儀が開発され、順次駆逐艦や海防艦に装備されている。

 だが、それでも、昭和18年以降の船舶被害は避けられないだろう。そうなると、ビスマーク海、ソロモン海を越えたラビ、ポートモレスビーへの補給は難しくなる。

 ──ニューギニアの南側は捨てるか。

 早い話、北部オーストラリアを潜水艦の基地に使われなければいいわけで、そのためには継続的にダーウィンを叩き続けるだけでいいだろう。無論、このあたりに対潜哨戒機を増備する必要はあるだろうが。

 もちろん『東海』なんて日本には贅沢すぎる専用機にリソースを割かせるつもりはない。制空権さえ取れていれば、適当な双発機、そう、九九式飛行艇なんかズバリちょうどいい。舳先に監視用のゴンドラでもつければ充分だろう。

 ディステニアはそこまで考えて、もう一度世界地図を広げる。

 そして、眉をひそめた。

 ──ここ、邪魔ね。



 ──この戦争、いよいよヤバイのか?

 霞ヶ浦基地航空隊にて、柏木耕介少尉はそう思わざるを得なかった。

 彼は水上機母艦、神威乗組の搭乗員であった。九五式水上偵察機に乗っていたが、昭和15年、神威が空母に改装されることが決まり、それに伴って霞ヶ浦航空隊に配置換えとなった。

 霞ヶ浦航空隊は、その名の通り霞ヶ浦と、谷田部の海軍飛行場を使った、教練を主とした部隊だった。国家火急の事態に第一線で飛べないのは辛かったが、もちろん後進を教えることは大切だ。特に海軍は、水上機や飛行艇を潜水艦対策に使いたいようだった。

 そこまではいい、そこまでは分かる、だが……

「教官殿、機上点検、終わりました。異常なしであります」

 すでにエンジンには火が入っている。九〇式水上初歩練習機の前席から、柏木を振り返って、その教育生はそう言った。

 教育生は猪岡キク飛曹候補生。

 ──女を出すようになったら、おしまいだよなぁ。

 柏木はそう思いつつも、指示を出す。

「お前さん、航空免許は持ってるんだろう? ある程度自由にやっていいから飛ばしてみろ」

 柏木は決して投げやりに言ったわけではなく、キクが著名な女流操縦士だということを承知した上でそう言った。

「九〇式は初めてであります」

 キクは、戸惑ったように言う。

「んなもん、俺だって最初は初めてだったさ。実戦になったら、遥かに大馬力の零式水偵や零観に乗ることになるんだぞ。危なっかしいと思ったら即座に代わるから、安心して飛ばしてみろ」

「了解であります」

「おっと、それとここは陸軍じゃねぇ、海軍だ。“殿”はいらないぞ、俺はバカ殿じゃないんだからな」

「了解であります」

「であります、もいらん。諒解、でいい」

「諒解で……諒解」

 昭和12年、キクは陸軍へ後方支援任務を担当する搭乗員として志願したが、陸軍にすっぱりと断られていた。

 その後、満州の開拓団にいたのだが、せっかくの航空機操縦士をこの時節に女だからという理由だけで遊ばせておくのはもったいないと感じたのか、海軍がスカウトしてきた。

 キクだけではなく、何人もの女流操縦士が集められ、ここ霞ヶ浦航空隊で今、教練を受けていた。

 キクは地上での教練をひとつひとつ思い出しながら、スロットルを開いて、九〇式水上練習機を滑水させていく。

 ──ほう、やるじゃねぇか。

 ひとつも危なっかしいと思わせることもなく、キクは九〇式水上練習機をふわり、と離水させた。

 ──これはたしかに、もったいない気はするわなぁ……

 柏木はそう思いつつも、妙なむずがゆさを払拭できずにいた。



「で、俺達はなんで娑婆で遊んでるんだ?」

「そりゃ、休暇が出たからでしょう」

 高山昇少尉の呟くような問いかけに、彼のペアである新見祐一三飛曹はあっさりとした口調でそう言った。

「なんで休暇が出たんだ?」

「やることがないからでしょう」

「なんでやることがないんだ? 今、戦争の真っ最中だぞ?」

 その問いかけに対しては、新見は2つの答えを用意した。

「まず、翔鶴が修理中なこと、それにもうひとつ、敵さんが動かないからです」

「別に俺は瑞鶴でも構わないし、なんだったら祥鳳でも構わないんだぞ。敵さんが動かないからって、別にこっちまでじっとしてなくてもいいだろう」

「別にずっとじっとしているつもりはないでしょう、今のうちに命の洗濯をしておけってことですよ」

 新見はそう言って、苦笑する。

「我々だけじゃなくて、どの空母航空隊も上陸させられているようですよ。まぁ、赤城と飛龍の連中はそう言うわけには行かないようですが」

「教練係に回されるって言ってたな。母艦を失ったばかりに、可哀想に」

 高山は、はぁ、とため息をついた。

「でもこれって、むしろ、これからどでかい作戦がある予兆なんじゃないですか?」

 新見は、全航空隊に一斉に休暇が出された理由に、そんな空気を感じ取っていた。

「真珠湾の時は、ギリギリまで猛訓練していたものだがなぁ」

 高山は、そう言って、口をとがらせた。

「おかげで、ドックのひとつが更地になりましたね」

 新見は、冗談交じりに言ったのだが、そこで、高山の声のトーンが低くなった。

「こうなりゃ、とことん高橋少佐の弔い合戦だ。出てくる米空母、全部に爆弾を当ててやるぞ」

「解ってますよ。ですけど、そんなに肩肘ばっかり張っていてもしょうがないんじやありませんか?」

 すると、高山が、キョトン、とした表情をした。

「誰がずっと肩肘張ってるって言ったよ?」

「違うんですか?」

「これから省線電車で、新橋あたりで呑むか、それとも吉原行くか、お前、どっちがいい?」

「少尉の奢りでしたら、どっちでも」

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