第3章 暗雲ミッドウェイ
第1話 少女と東條と
「ここは地獄の一丁目だな」
オーストラリア陸軍、ジョン・アーノルド・ハックルベリー少佐は、目の前の光景を見て、そう言った。
全ての物資が不足していた。重砲、戦闘車両本体から、弾薬、燃料、それに食料、衛生用品、全てである。
兵士は疲労していた。それだけではない。アメーバ赤痢やマラリア、破傷風と言った疫病が兵士の能力を容赦なく奪っていった。
日本陸軍の従来の戦術は浸透強襲戦術だった。敵陣を包囲するように入り込み、ある一点から敵部隊に攻勢を仕掛け殲滅する。
それ自体は変わっていない。だが、ポートモレスビーでは少し事情が異なった。
重爆撃機による入念な爆撃、制空権確保による敵反撃行動の阻止。
これはどちらかと言うとアメリカ軍が得意とする分野である。
だが、空母部隊同士の戦いに敗れた連合軍は、ニューギニア東部における制空権と制海権を失い、それは日本軍の手にすり替わっていた。
ハックルベリー少佐の任務は、ポートモレスビーの市街地から北北西の森林地帯に作られた重砲陣地から、上陸してくる日本軍の部隊にM59 155mmカノン砲『ロング・トム』と、M2 105mm榴弾砲の砲弾の雨を降らせてやることだった。
上陸用舟艇から降り立った日本軍は、水際での阻止が殆どなかったことに拍子抜けしたのだろう、あまり警戒していない様子でポートモレスビー市内に展開していった。
ハックルベリー少佐は、まさにその時、射撃命令を出した。
「オープン・ファイア!」
双眼鏡の中で、日本軍の兵士が吹き飛び、千切れて舞うのを確認した。残りも恐慌状態に陥っている。
「ハハハッ、ザマァ見ろジャップ。ここの通行料は安くないぞ!」
ハックルベリー少佐は言い、部下たちも乱舞した。
だが、その代償はすぐにやってきた。
いかに偽装しようとも、射撃すればその発射炎は隠しようがない。
ハックルベリー少佐達の陣地は、上空支援にあたっていた零式水上偵察機に発見されていた。
当初、日本側は精密爆撃でこれに対処しようとした。
ラビに展開した零式観測機に六番陸用爆弾を2発、搭載し、重砲陣地を攻撃しようとした。
だが、巧妙に偽装された重砲陣地を見抜けなかったのか、複葉の水上機は見当違いの場所に爆弾を落として引き上げていった。
「ハッ、パールハーバーがやられたと言うからどんなものかと思っていたが、この程度か」
ハックルベリー少佐の部隊は、更に意気を上げる。
「オープン・ファイア!」
水上機の攻撃で重砲陣地を潰したと安心していたのだろう、再び市内を闊歩し始めた日本軍部隊に、砲弾の雨を降らせてやった。
「ジャップ、おかわりは何杯ほしい?」
だが、笑っていられるのもそこまでだった。
次にやってきたのは、
今度はハックルベリー少佐の部隊が二五番陸用爆弾の雨を受ける番になったのだ。
日本軍は、辺り一面に250kg爆弾を入念にバラ撒いていった。
30機ほどのベティが引き上げていったとき、部隊は半壊していた。
撃てる砲はM59とM2が1門ずつだけになっていた。
それでもハックルベリー少佐は諦めず、司令部に支援を要請した。
だが、司令部から返ってきたのは、陣地を放棄して、ポートモレスビー西部のポアバーダに脱出せよとの命令だった。
「クソッタレ! ここを死守すれば、ジャップがポートモレスビーを我が物顔で闊歩するのを阻止できるんだぞ!」
少佐は毒ついたが、それで支援が来るわけではない。
すでに周囲の制空権、制海権を失っていた。支援したくとも、できないのだ。
すでに空母『瑞鶴』と『祥鳳』は、次の作戦に備えて引き上げていたが、空母部隊同士の戦いに破れていた米海軍には、反撃の手段がなかった。
さらにオーストラリア北西部の主要港ポートダーウィンも、ティモール島東部に展開した日本陸軍航空隊によって継続的に空襲を受けており、支援部隊を送るどころの話ではなかった。
ハックルベリー少佐の部隊は、それでも、残っている砲弾をすべて日本軍に向けて発射してから、その陣地を脱出した。
そこからは地獄のような脱出行だった。
「奴ら、ラビに空軍基地を作ったな!」
ハックルベリー少佐の読みは当たっていた。
5月10日には早くもラビに日本軍の野戦飛行場が開設されていたのである。
「排土車様々だなぁ」
日本陸軍の施設隊、大橋章一兵曹長はそう呟いた。
今までモッコで土を運び出し、スコップやクワで切り株を掘り起こしていたのが、今ではすべてこのトイ車がやってくれる。
最低限の滑走路とはいえ、4日で開設できるなど、今までの常識の範疇を超えていた。
ラビに飛行場が開設されたことで、米軍のB-17によるポートモレスビー攻撃も被害を強いられるようになった。一式戦による上空警戒に加えて二式単座戦闘機の部隊も進出し、オーストラリアに展開しているB-17では損害に見合うだけの戦果を上げられていなかった。
ハックルベリー少佐の部隊がポアバーダにたどり着いたとき、部隊は脱出を始めたときから更に半減していた。しかも、まともに動けるのはその中の1/3程度だった。
司令部はハックルベリー少佐たちを完全に見捨ててはいなかった。
夜陰に乗じて魚雷艇、PTボートをポアバーダに送り込んでおり、それで脱出せよとの指令だった。
──これで、地獄ともおさらばできる。
そう、ハックルベリー少佐が思ったとき。
目の前で、迎えに来たはずのPTボートが次々に炎上した始めたではないか!
「これはいい狩りだ。全力で撃ち続けろ!」
板倉艦長はそう下令する。
駆逐艦『如月』は、大胆に海岸まで接近しながら、米軍の魚雷艇を攻撃し始めた。
砲を使うまでもなかった。37mm機銃の対艦射撃で、魚雷艇は次々に大破炎上していく。
如月が行っているのは、露払いだ。駆逐艦本来の仕事とも言える。
続く第二九駆逐隊の他の駆逐艦も、魚雷艇の群れに向けて主砲を撃ち始めた。
実は、この魚雷艇には、魚雷など最初から搭載されていなかったのだが、そんなことは、日本側の知ったことではなかった。
「畜生!」
ハックルベリー少佐が毒つく。
自分と部下たちの最後の望みが、断たれた瞬間だった。
そして────
「せいぜい調子に乗るがいい、ジャップ共。ひと足お先に地獄で待っててやるからな」
重巡洋艦──第六戦隊『古鷹』『加古』『青葉』『衣笠』の艦砲射撃が、ポアバーダに撃ち込まれた。この世の地獄をかいくぐってきた兵士たちが、本物の地獄に送り込まていく──
少女の名はディステニア・フェタール。もしくは命領時子という。
はるかな太古、ユーラシアの西部、ヨーロッパは幻想種、精霊種の天国だった。まだ、人類はこの地で繁栄していなかった。
だが、ソロモンの方角からやってきたユダヤ人たちが十字教を広め始めたことで、状況は一変する。
彼女らの祖先はヨーロッパの肥沃な大地を十字教徒に占領され、東へ、東へと追われていった。過酷なシベリアのタイガの中に隠れ棲んでいた時期もあったが、それさえ安泰ではなかった。
更に東へ、東へと逃れ、しかし、そこに理想郷が存在した。
それは、十字教の影響をほとんど受けない人間が暮らしている島国。
やがてその島国も、十字教徒に開国を迫られ、近代化の波が押し寄せるが、それでも彼女らの一族が隠れ棲むには充分なユートピアだった。
そう、あの日、運命の火が落とされるまでは。
「最初に君とあってから、もう、4年が経つのか」
東條英機は、感慨深そうにそう言った。
「なによ、突然」
ディステニアは、東條に向かって、どこかキョトン、としたように言う。
「いや……私もアメリカとの戦争だけは避けたかったが、結局は君の言うとおりになってしまったなと思っていたんだ」
東條はそう言って、ため息をつく。
陸軍省・参謀本部の一室に、ディステニアの部屋はあった。東條以下、陸軍高官のごく限られた者しか、その存在は知らない。
「日本にもいくつもの妖怪や妖精の伝承はあるが、本当に目にすることになるとは思わなかった」
「私達の一族は、人間の目をすり抜けて暮らしてきたから。十字教徒がヨーロッパを制圧してからはね」
今度は、ディステニアがため息を混じりに言う。
それは、昭和13年のある日のことだった。
たまたま、本当にたまたまの用事で、海軍省に出向いていた、当時陸軍次官だった東條が、海軍省の玄関で押し問答しているディステニアを見かけたのである。
「山本五十六海軍次官に面会を希望していると言ってるでしょう、緊急の事態なのよ!」
「どこの誰ともわからんやつに、山本次官が応対している時間はないのだ!」
そう言って、海軍の衛兵に追い返されるところだった。
「君」
本当に、ただの気まぐれだったとしか思えない。東條はその少女に、声をかけた。
金髪に青い瞳。外国人か。海軍の衛兵が門前払いをしようとするのも当然だ。しかし、顔立ちは日本人の少女にように見える。なにより──その、切れ長の耳はなんだ?
東條には、どうしてもその少女に、ただならぬ様子を読み取った。
「君、山本海軍次官に、何の用かね? 事と次第によっては、自分が取り次ごうじゃないか」
「!」
少女は自分の顔を見るなり、驚愕に目を
「東條……英機……」
その時、少女が東條を見る目は、決して友好的なものではなかった。
「っ」
「待ち給え!」
少女は脱兎のごとく逃走しかけたが、東條はその後を追った。
東條の従卒が、少女の前にあっさりと回り込む。
「自分を警戒しているようだが……何か、事情がありそうだ。どうだ、自分に話を聞かせてくれないかね?」
「あのときは、まさかあなたと組むことになるとは思わなかったわ」
「そうかね、私は、なにかあると踏んでいたのだが」
苦笑交じりに言うディステニアに、東條も苦笑しながら言う。
「その後、あの人相占いに会わされたのよね」
「そうだったな」
少女を自分の自動車に乗せた東條は、直接陸軍省には戻らず、知己のある占い師のもとへと向かい、少女を引き会わせた。
すると、その占い師は、少女の顔を覗き込むなり、驚愕の顔を浮かべた。
「この者は人ではありませぬ、もっと霊的な存在。いや、問題はそれだけではありませぬ────」
「ところで……」
昭和17年の陸軍省、ディステニアの部屋。
ディステニアは話題を変える。
「海軍の新型戦闘機はどうなってる? 順調?」
「さあてな、片桐君(片桐英吉海軍航空本部長)からは特に何も聞いてないが、何分まだ始めて間もない時期だからな」
「三菱の中で揉めてなきゃ、それでいいんだけどね」
ディステニアはそう言って、自分の左手で右肩を叩きながら言う。
「キ61の方は?」
「順調だ。土井技師の提案する軽量主翼を採用するよう手配してある。それから、最初からホ-5の搭載を念頭に入れて設計してほしいと」
「最悪、三菱の新型機が間に合わなかったら、キ61を陸海軍の共通機材にしたいのよ」
「土肥原君(土肥原賢二陸軍航空本部長)を納得させないとならんな」
「海軍分の生産は愛知にでもやらせればいいわ。川崎のラインを割かなければ問題ないでしょう。どうせエンジンも分担することになってるんだし」
ドイツ製液冷エンジンのライセンスは、三菱重工が提携先のユンカースからJumo211Fを購入することで落ち着いた。ただし三菱は空冷エンジンに専念するため、実際の製造は、製造委託という形で川崎飛行機と愛知時計電機が引き受ける事になっている。
一方────
三菱社内では、堀越二郎技師が荒れていた。
「なんで本庄さんがやることになっているんです!」
4月に海軍が一七試甲戦闘機を三菱に試作要求した際、海軍は九六艦戦、零戦と続いた堀越二郎技師ではなく、一式大攻を担当した本庄李郎技師を主任とするよう指名してきたのである。
それまで傑作戦闘機を生み出してきたという自負があるだけに、堀越は荒れに荒れた。
しかも、堀越が担当していたもう1つの機体、一四試局地戦闘機は中止が伝えられたものだからなおさらだった。
一方の本庄は、門外漢でも指名されたのだからやるしか無いという心持ちで、それまでの堀越機の他、ドイツのフォッケウルフFw190戦闘機を参考に設計を開始していた。
海軍は敢えて艦上戦闘機と指示しなかった。甲戦闘機ということは進攻用に用いる制空戦闘機であり、海軍では自動的に艦上戦闘機を意味するが、その縛りを特に設けないということである。
海軍の試作要求には、零戦より火力、速力に秀でること、急降下時の高速に耐えうること、失速速度90ノット(約170km/h)以下であること、これらを第一の要求として指示されていた。
一方、堀越二郎技師は不貞腐れながらも、九七式艦上攻撃機の抜本的な改良に乗り出していた。
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