第18話 見知らぬ我が家

 ヴェスペは食堂のテーブルに突っ伏していた。リーゼはそんな彼女をやや呆れて眺めている。

「……言い訳、どうしよう」

 言い訳なの? 弁明じゃなくて。そもそもヴェスペは、どうしてテオドールを逃がそうとなどしたのだろう。

「いや、取引があって……」

 どういう? ヴェスペはテーブルに額をつけたまま、もごもごと説明した。

「テオドールに、シュティーアとの関係とか、過去とか、聞こうとしたんだけど……はあ。なかなか教えてくれないもんだから、意地になっちゃって……」

 じゃあ代わりに逃がしてあげる、とそういう話の流れになったわけだ。馬鹿じゃないの?

 ヴェスペはがばりと上半身を起こし、勢いよくリーゼに向き直った。

「っ、でも! 全く考えなしだったわけじゃないよ。ほら、革命軍の人たちもさ、徹頭徹尾間違ってるわけじゃないし、あたし自身、なんとなくあの人たちを応援したい気持ちだし、だから、あの人たちの理想が実現するならそれでもいいかなって、思った、って、いうか……」

 言葉は尻すぼみになり、最後にはまたテーブルに俯せてしまった。確かに革命軍はよく戦っていた。だが、国はまだ本気を出していない。テオドールを逃がしたところで革命軍に勝つ見込みはほとんどないということは、ヴェスペもわかっていたはずだ。

 結局、その場の思いつきで行動したということなんだろう。

「結局、その場の思いつきで行動したってことなんだよね」

 ……。沈黙が落ちた。ヴェスペはリーゼに後頭部を見せて頬をテーブルに押し付けたまま、微動だにしない。流石の彼女も、今回の失敗はこたえたらしい。これを機に少しは落ち着いてくれればいいのだが。

「シュティーアに説明しなきゃなんないの、めっちゃめんどい……」

 駄目だ。落ち着く見込みは薄い。

「あれ、リーゼくんにヴェスペじゃないか」

 そのとき、後ろから聞き覚えにある声をかけられた。振り返ると、灰色の混じった黒髪に隈の浮いた目元の男がいた。

「おじさんじゃん」

 トーマスだった。今日も顔色が悪い。って、ちょっと待ってほしい。

「ん? 人質になってたんじゃないの」

 ヴェスペはのろのろと体を起こして言った。

「うん。逃げてきた」

「どうやって」

 依然テンションの低いヴェスペに、トーマスは不敵に笑ってみせた。

「ふふふ、よくぞ聞いてくれた。その秘密はこのアイテムが握っている」

 そう言ってトーマスが持っていた鞄から取り出したのは、一枚の布だった。何やら、くすんだ灰色をしていながらよく見るとキラキラと輝いて見える。派手なのか地味なのかよく分からない見た目だ。畳まれているが、広げれば外套なのではないかと思われた。

「……何それ」

 ぐったりしていたヴェスペの瞳が俄かに輝きだした。秘密のアイテムとか言われてしまうと、彼女としては興味を引かれずにはいられないらしい。

「うん。まあ見ていなさい。ここの、内側に、小さなボタンが一つあってだな。これを押すと……あら不思議!」

 肩の辺りを掴んで持ち上げたその外套を、トーマスが空いている右手で何やら探ると、突然、ザラッ! と色が変わった。いや、変わったのではなく、色が消えてしまったのだ。布の向こう側が完全に透けて見え、トーマスの左手は中空を掴んでいるようだ。

「これでくるむと、なんでも見えなくなってしまうんだ。僕はこれを着て、見つからないように研究所を抜け出してきたってわけ」

「へー」

 ヴェスペは見えない布を触りながら、感心することしきり、といった様子だ。トーマスはそんな彼女の様子に目を細めた。

「元気出た?」

「?」

 ニコニコしているトーマスを見上げ、きょとんとした表情のヴェスペ。

「別に、もともと元気だよ」

「そう? 僕には、なんだか悩みがあるように見えたけどな」

 言いながら、透明マントを仕舞いこんでしまう。ヴェスペはそれを見てああっ、と小さく残念そうな声を上げた。

「あるっちゃあるけど……。大したことじゃないよ」

「話してみるといい」

「……」

 ヴェスペは視線をあちこちに泳がせながら、話しだした。

「シュティーア、いるじゃん」

「ああ、あの真っ白い彼か」

「そう。あいつのこと、あたし嫌いだったんだけど、最近、まあ前いたバルツ基地でいろいろあって、変なやつ、って思うようになったの。で、それが最近またいろいろあって、今度は不気味なやつ、ってなって……。とにかく、あいつは不気味なやつなの。だからなるべく話したりしたくないんだけど、おんなじ部隊にいる以上話さなくちゃいけなくって、憂鬱で……」

 はあ、と、ヴェスペは溜め息で一連の話を終えた。トーマスは何が楽しいのか、ニコニコと笑ったまま聞いていた。

「何がおかしいのさ」

 ジト目で見上げられ、トーマスはまあまあというように両手を上げた。

「いやあ、君もいろいろと考えているんだなあと思ってさ。うん。心ゆくまで考えてみるがいいよ」

 さて、僕はもう行くよ、と、鞄を肩に掛け直した。ヴェスペはそんな彼を見て驚いた顔をした。

「何、それだけなの!? もっとためになることとか言わないの!」

「僕はそんな偉い人じゃないからね。まあ、相手があまり複雑な人だと思わないことだ。身構えずに話してみればいいんじゃない?」

 それだけ言うと、トーマスは隈の目立つ笑顔のまま歩き去っていった。彼が食堂を出て行くまで見送り、ヴェスペはぼそりと呟いた。

「簡単に言うなあ」

 全くだね。


 ドルガ基地の医務室にて、ドラッヘは未だ不明瞭な目覚めと昏睡を行ったり来たりしているフロイラインを見舞いに来ていた。今は、安定して眠っている。

「……ちゃん」

 ベッド脇に椅子を置いて雑誌を読んでいたドラッヘは、微かな声を聞きとった。すぐさま雑誌をその場に伏せておき、フロイラインの顔を見るが、その両目は閉じられたままだった。寝言か、と椅子に座りなおそうとした時、横たわる彼女の白い頬に、涙が伝い落ちるのを見た。

「お兄ちゃあん……!」

 ……やっぱり、寝言だ。嫌な夢でも見ているのだろうか。前髪のあたりを撫でてやると、彼女は安心したように目元を緩めた。呼吸もゆっくりになった気がする。

 医務室の扉をノックする音がした。ドラッヘが出ると、そこにいたのは見知らぬ一般兵だった。まあ、一般兵で顔を覚えている者なんて、数える程もいないのだが。

「ドラッヘさん……ですよね」

「そうよ」

「あ、はい。連絡がありまして、主任が呼んでいます。ご自身の執務室で待っているそうです」

「ええ。すぐ行くわ」


 分かった。全部、分かってしまった。

 シュティーアは外を歩いていた。適当に着た私服の上にコートを着て、ゴーグルが目立たないように目深に帽子をかぶって。もっとも、道行く人は忙しくて他人の容姿など全く気にかけないだろうが。しかし危ないところだった。あそこでリーゼが来なかったら、軍服のまま外に飛び出すところだった。

 考えをまとめるために歩いている。ただ椅子に座ったまま考え事をするのは案外難しい。何か、手を動かすなり足を動かすなりしていないと頭が働かない。少なくともシュティーアはそうだった。おっと。そんなことはどうでもいいのだ。

 予想以上に混乱している。シュティーアは帽子のつばに軽く触りながら思った。整理しよう。

 どうも、自分は洗脳をかけられていたようなのだ。誰によって? もちろん軍によってだ。

『君は軍に忠実でなければならない。君は軍において立場が上である者に対して、常に隷属しなければならない。君に過去はない。あるのは、ただ改造人間の軍人であるという事実のみだ。いいね』

 鮮明に思い出した。そんなようなことを、繰り返し言われて、繰り返し繰り返し復唱させられて……。そうして二年と少し、これを信じ続けてきた。だが洗脳だったと分かった今では、全て白々しく思える。

 軍も随分と面倒なことをしたものだ。たかが改造人間一体に。これは、過去の自分に洗脳をかけるだけの価値があったということだろうか。もしくは、洗脳でもしなければ使い物にならないくらい問題のある性格だったか。

 だが思い出せない。エインヘリヤルになる前、自分が何をしていたか、どこに住んでいたか、どんな人物であったか、何者だったのか。普通逆じゃないか? シュティーアは考える。それを言ってしまえば千差万別なのは分かるが、世間一般的に見て、記憶が戻ったのがきっかけで洗脳が解けるのが通常パターンではないのか。

 これでは、何のために洗脳が解けたのか分からない。これからどこに向かえばいいのか、何をすればいいのか、何一つ、分からないじゃないか……。

 気が付けば、目の前に一軒の廃墟があった。かなり大きな邸宅で、もともとは小綺麗に整えられていたのであろう庭と外壁も、今は見る影もなく荒れ果てている。シュティーアは門のすぐそばにあるポストを見てみた。『ヘルツ』と、ファミリーネームが刻まれている。幸い、テオと会った時に自分の本名は思い出していた。これは、間違いなく自分の名前だ。そして、目の前にあるのは自分の家。なぜだかそう確信できた。

 朽ちかけた門に体を滑り込ませる。扉の鍵は、四桁の暗証番号式だった。パネルのスイッチを押すと、数字ボタンが光った。廃墟なのに電気が通っているとはこれいかに。まるで、住んでいた人が突然消え失せたみたいだ。

「五、三、二、……三」

 ふっと頭に浮かんだ数字をうちこんでみると、ピーッという無機質な音と共に、扉の内側で鍵が回る音がした。扉を開けて中に入ると、目眩がした。身体的な理由ではない。その薄暗い空間の醸しだす懐かしさと、封じられた記憶の中から引きずり出された感覚の、あまりの大きさに、だ。

 そのまま、ふらふらと家の中に入る。案の定、スイッチを押すと明かりはついた。床も壁も薄汚れてはいるが、確かに見覚えのあるものだった。……それに伴う思い出は、何一つ浮かんでこないのだが。

 しかし、なんだろう。住み慣れた我が家に帰ってきたにしては、なんというか、この感覚は、妙だ。我が家に帰ってきた、というよりは、長年また行きたいと願い続けてきた親戚の家に来た時のようだ。

 また混乱してくる。

「俺の部屋、は、どこだったか?」

 二階だったような気がする。行けば、何か分かるかもしれない。


 部屋に戻ったヴェスペは、悶々と携帯電話をいじっている。ちなみに、これは軍支給の携帯端末ではないそうだ。気が付けば結構な額の給料が溜まっていたので、先日私用の携帯電話を買ってみたのだ、と、リーゼに自慢げな顔で見せびらかしてきた。ネットに繋がるのはもちろん、タッチパネル式であったり、デザインがいいと評判であったり、いろいろと素晴らしいものであるらしいのだが、まだ勝手がよく分かっていないらしく、あまり楽しくもなさそうな顔で延々指を動かしている。

「ねえ、リーゼ」

 画面から目を離さないまま、ヴェスペが唐突に話しかけてきた。カメラを軽く動かして答える。何?

「シュティーア、後で話聞くとか言ってたよね」

 うん、そうだね。ガックンと頷くと、ヴェスペは面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「連絡も何もないって、どういうことさ……」

 会話が途切れる。リーゼはもう少し彼に関する話題を続けたかった。あの上司ときたら、自分たちには曖昧なことしか伝えてくれないのだ。気になってしまう。まあ、何も知らないのはヴェスペも同じであるはずなのだが。

 ふと、時計を見たヴェスペは携帯電話をスリープモードにした。

「そろそろお昼の時間だ。食堂に行こっか。リーゼ」

 一つ頷いて、リーゼも折りたたんでいた足を展開して立ち上がった。二人で廊下に出て歩き出す。

「昨日の任務、ニュースになってたりしないのかなあ。結構な大事件だったと思うんだけど。だって、敵の親玉を捕まえちゃったんだよ?」

 ヴェスペは気を取り直したらしく、楽しそうな顔をしている。それはそうだろう。彼女は前から有名になりたいと言っていたから。彼女が笑っていると、こちらまで嬉しくなってくる。食事が終わるまではとりあえずシュティーアのことは気にしないでおこう。リーゼはそう決めた。

 食堂に着いた。ヴェスペは、ご飯取ってくるね、と言ってカウンターに向かった。リーゼは列に並ぶには少々体が大きすぎるので、いつもヴェスペに自分の分も頼んでいる。その間、席取りをするのだ。幸い、早い時間だったこともあって簡単に見つかった。

『昨日、現在テロリストによって占拠されている中央研究所にて、テロの首謀者、テオドール・クラウスナーが捕縛されました。――』

 食堂の壁に備え付けられた大画面の液晶テレビでは、ちょうど昨日の件がニュースで報道されているところだった。

『しかし、現時点で各地の残存勢力が武装を解除する動きは見られていません。では、次のニュースです』

 あ、あれ?

「これだけなの? おかしくない?」

 後ろからの声に振り返れば、二つのトレーを持ったヴェスペが液晶を見上げて唇を尖らせていた。

「こういうニュースって、大体誰が手柄を立てたかとかを真っ先に言うものじゃなかったっけ? 納得いかない。納得いかなーい。……あ、これリーゼの分ね」

 食事を始め、ニュースが最近人気の出てきたとある喫茶店チェーンの話題に移ってからも、ヴェスペはまだぶつぶつ言っていた。

「相変わらず元気ね。安心したわ」

 ヴェスペの隣の席にトレーが置かれる。見れば、そこにいたのはエインヘリヤルとしての先輩である、ドラッヘだった。ヴェスペは不機嫌そうな顔を崩さないまま、久しぶり、と挨拶した。相手の方は、それでもにこやかな表情を保ちつつ彼女の隣に座った。

「それで、何が納得いかないの?」

 より一層唇を突き出すヴェスペ。だが、その実誰かに聞いてほしかったのだろう、案外すぐに説明を始めた。

「……テオドールを捕まえる任務で、かなり活躍したはずなの。でもテレビときたら、一言もあたしたちのことを報道しないんだもん。これって変じゃない?」

 聞いている間、ドラッヘはマグカップからコーヒーを飲んでいた。カップを丁寧にテーブルに置くと、食事に手をつけ始めた。

「任務中に、何か上司のカンに障るようなことしちゃったんじゃないの?」

「覚えがないんだけど」

「そういうものよ。自覚がなくても何かしらやっちゃってるものなの」

「うーん……。そんなわけない、って、言いたいけど……」

 二人とリーゼは、しばらく黙々と食事を続けた。そのうち、ヴェスペが何かに気づいたようにハッと顔を上げた。

「っていうか、なんでドラッヘはここにいるの? ドルガ基地に配属されてたじゃん」

 ああ、そういえばそうだ。リーゼはヴェスペの言葉でようやくそれに気づいた。中央以外の地方基地に配属されたエインヘリヤルは、原則任期中はその地方の中での任務に就くはずだ。ドラッヘは、ヴェスペを振り返ってゆっくりと瞬きした後、口元に指を当てて悩む素振りを見せた。

「んー、まあ、教えちゃってもいいか。中央の軍幹部から、直々にオファーがあったのよ。臨時で、こっちで戦ってくれって」

「なんで?」

「フロイラインの一件があったからよ。あたしたちのコンビがかなり有名なのは知ってるでしょ?」

 ヴェスペが頷くのを確認してから、ドラッヘは話を続けた。

「仇討ち、ってわけね。人気者のエインヘリヤルを負傷させたことの制裁を、その相方自身が下してやるの。でも、それがドルガみたいな片田舎じゃ格好がつかないから、中央まで出てきたのよ」

 彼女は楽しそうだった。その日を待ちわびているように宙を見つめる。

「決行は四日後、だそうよ。今回は油断せずに一般兵も連れて行くし、革命軍に負けることはありえないわ。多分、テレビで大々的に生中継するだろうから、あなたも見ていてね」

 そう言い残すと、ドラッヘは空になった皿の乗ったトレーを持って去っていった。楽しそうな彼女とは対照的に、ヴェスペはなんとも中途半端な表情を浮かべたまま無言で手を振った。笑えばいいのか、しかめればいいのか、どんな顔をするべきか決めかねているみたいに。

「シュティーアは、どう思うかな」

 彼女はスプーンから滴る雫をぼんやり眺めながら言った。リーゼは内心首を傾げた。なぜここで彼の名前が出てくるのだろう。怪訝な雰囲気を感じ取ったのか、ヴェスペはリーゼを見て少し笑った。

「ああ、そうだ。リーゼは知らないんだったね。シュティーアとあのテオドールって、昔友達だったんだって。だから、その友達の仲間が傷つくの、どう思うかなって」

 そこまで言うと、ヴェスペは間をもたせるように残りの食事をかきこんだ。ぞんざいに食器を重ねて、トレーを持って立ち上がる。

「まあ、あいつのことなんかどうでもいいんだけど。ほら、行こう?」

 本当に、それでいいのかな。リーゼは思った。あの人のために、何かしてあげられることはないのかな。


 『レオの部屋』と書かれたプレートが下がっている扉を見つけた。鍵はかかっておらず、シュティーアは部屋に足を踏み入れた。

 狭くも広くもない部屋だ。個人の部屋としては適当な大きさだろう。ただ、物が少なく、実際の面積以上に広く見えた。それに、人が暮らしていた感じがしない。床や机の上が散らかっていないのはいいとしても、壁紙や床材、全ての家具が新品同様なのだ。まあ、数年間放置されたせいで多少埃にまみれてはいるが。ここが子供部屋だったとはとてもじゃないが信じられない。客室と言われた方がしっくりくる。

 シュティーアは帽子を取って、空いている右手で前髪をかきあげた。一体、洗脳される前の自分はどんなやつだったんだ? 少なくとも、自分の家にあまり帰らない生活をしていたらしい。だが、本人が望んで家を離れていたわけではなさそうだ。全身を包み込むような淡い嬉しさと懐かしさがそれを示している。部屋の隅のベッドに腰を下ろす。ごく普通のシングルサイズだが、なんとなく上等そうだ。ふと疲れを感じて、足を床につけたまま後ろに倒れ込んだ。薄汚れてもなお白いシーツは、埃の匂いと共に洗濯糊の匂いがした。

「……」

 足元に誰か立っている気がする。見えないのであくまで予感だ。それとも、半ば夢の中にいるから、そんなふうに思うのか?

「……、……」

 やっぱり、夢だ。足元の誰かのイメージが、見えなくてもなんとなく分かる。少年だ。いや、少年と青年のさかい目あたりか。彼はしきりに口をぱくつかせる。……なんだ。何か言いたいことがあるなら、もう少しはっきり言ってくれ。

「……!」

 ああ、でも、今は眠いんだ。後にしてくれ。どうせそれほど大切なことでもないだろう。

 いや、そもそも、大切なものなんて最初から一つもなかったのかも……。


***

「この頃は多少調子がいいから、明日から久しぶりに家へ帰るんだ」

 珍しく弾んだ声でレオは言う。毎日家で過ごしているテオからしてみれば、自分の家というのはむしろ退屈で仕方がない場所なのだが、彼にとっては違うようだ。眼鏡の向こうの青い瞳が輝いている。

「そっか。楽しみなの?」

「うん。すごく」

 こうして楽しそうに笑っていると、いつもは大人びているレオも年相応に見える。テオはなんとなく嬉しくなった。レオは、それでね、と身を乗り出した。

「もしよかったら、テオを僕の家に招きたいんだ。どうかな?」

 何も考えずにもちろん、と答えそうになった。だが、折悪しく明日から学校の行事で四日間出かけるのだ。

「十五日からなら、空いてるけど……」

「あー……、僕の外出許可は、十四日までなんだ。日にちが合わないね」

「うん、ごめん」

 彼のシュンとした顔を見て、胸がつきりと痛んだ。何か埋め合わせはできないだろうかと必死で考えたが、思いつく前に、レオは笑顔を取り繕った。

「謝ることじゃないよ。またの機会に、だね」

「うん」

 もう一度謝りたかったが、こらえた。彼は困った顔をするに違いないから。

「ところで、テオは『テルテルボウズ』って知ってる?」

 レオはやや無理矢理に話題を切り替えた。テオも、それに応じることにした。

「何それ。何語?」

「東洋の方のおまじないで、晴れを呼ぶんだって。この前本で読んだんだ」

 相槌を打つと、すぐに詳細な説明を始めた。まず、軽い小さなボールと白い布切れか紙切れで人形のようなものを作る。そしてそれをガラス窓のような外が見える場所に吊るしておく。

「ず、随分簡単なんだね」

「うん。僕もびっくりした。でね、場合によっては、仕上げに歌を歌うんだって。本に書いてあったことだから、メロディは分からなかったんだけど」

「へー」

 その日、家に帰ってから歌を省いたその『テルテルボウズ』を試してみたが、次の日、朝起きてみたら素晴らしい快晴だった。しかし、レオにおまじないが効いたと報告するのを忘れていた。

 最後まで。

***


 独房の硬いベッドの上で、テオドールは目を覚ました。

 随分と昔の夢を見た。それも、今の今まで思い出しすらしなかった些細な出来事だ。どうしたことだろう。

 本当は分かっている。レオと再会したからだ。ついこの間まで、事態が進展するにしてもレオに会えなくて悲しくなるか、レオに会えて喜ぶかの二択だと考えていたのに、実際はどうだ。こうして会えたのに、胸に何かがつかえたように、苦しくて仕方がない。

『覚えていない』

 信じたくはない。でも、彼が嘘をつくような人ではないのは確信が持てる。たとえ記憶を失っていたとしても、それは変わらないはずだ。

「……」

 テオは天井を見つめながら、先ほどの夢の風景を繰り返し頭に思い浮かべた。

 彼は忘れてしまったのだから、せめて、自分が覚えていなければ。

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