第15話 きれいなあの子は今いずこ

***

 レオとの関係は、テオが高校に上がってからも変わらなかった。昔より忙しくなったために、週に一度必ず行くというわけにはいかなかったが、それでも一ヶ月に一度は必ず彼の病室を訪ねていた。

 相変わらずレオは日常の他愛もない笑い話を楽しそうに聞いたし、試験前などはテオの勉強を見てくれた。レオはテオの二つ年下だったが、驚くべきことにテオが学校で習うようなことは、もうすでに知っていることが多かった。

「勉強くらいしか、やることがないからね」

 彼はそう言って笑った。小さい頃と変わらない、綺麗な笑い方だった。

 テオにとってレオとの時間は、家族の団欒や、学校での友人との交流と同じか、それ以上の価値があった。レオは沈黙を苦にしない性格らしく、こちらから話を振らなければ三十分でも一時間でも黙ったままでいた。テオはその静寂と彼の穏やかな青い瞳を愛していた。いつだったかに、青い目が綺麗だと言ったら、皮肉かと返されたことがある。心外な話だ。

 その休日も、二週間ぶりで彼に会いに行こうとしていた。朝、いつもよりは少し遅く起きて、ダイニングでパンをかじる。パンを咥えたまま左手でリモコンを操作してテレビをつけると、面白くもないニュース番組がやっていた。どうせ少し見るだけだし、と思い、チャンネルは変えずにリモコンをテーブルの上に置いた。

 よりにもよって政治の話だった。面白くない。

「近年緊張が高まっている隣国との関係について、平和主義を訴えていたヘルツ氏が、一昨日暗殺されました。犯人は分かっておらず、警察が調査を進めています。また、このことにより、西の国がどのような対応をするか……」

 母からは毎日のように、テレビを付けっぱなしにするなと言われている。トーストの最後のひとかけらを飲み込みながらリモコンの電源ボタンを押す。画面は真っ暗になった。


 いつもなら、病室の扉をノックすると返事があるのに、今日はそれがなかった。仕方がないので、念のため一声かけて勝手に入室することにした。

「テオです。入りますよ」

 珍しく外出しているのかもと思ったが、窓際に置かれたベッドの毛布は、人の形に膨らんでいた。灰色の頭は壁の方を向いている。眠っているのかもしれない。確かめようと上から覗き込むと、予想に反して彼は目を開けていた。身じろぎもせず壁を見つめている。

「具合が悪いんですか? なんなら日を改めますが……」

 反応がない。まあ、そんな日もあるだろう。残念だが今日はひとまず帰ろうと踵を返すと、かすかな声でレオはテオを呼び止めた。

「いや……、もう、二度と来るな」

 テオはびっくりして振り返った。

「なんでですか」

 答えないまま、彼は自分の体によりきつく毛布を巻きつけた。いいから帰れ、と、そういうわけか。

「教えてくれるまで帰りません。こんな形であなたとの関係を終わらせるなんて、納得いかないんですよ」

 数十秒の空白の後、レオは長いため息をついた。それから、ゆっくりとベッドの上に体を起こす。今、気づいたが、彼の目元は泣きはらしたように赤くなっていた。もうかなり前に泣き止んだのだろうが、それでも分かってしまうほど、彼の肌は白すぎる。

「テオには、僕のフルネームを教えてなかったっけ」

「そういえば……。知らないです」

 自分の知っている彼の名前は、レオ、という二文字だけだ。

「僕の名前、レオポルト・ヘルツっていうんだ」

「だから……」

 どうしたんです、と言いかけて、テオははっと思い至った。ヘルツ、という名前を、さっきも自分は聞いた。

「暗殺された……」

「そう。僕の父親」

 レオはうつむいて毛布を握り締めた。前髪が顔に落ちかかる。その影で、薄い唇がわななくのが見えた。

「僕なりに、努力したつもりだったんだよ。いろんな知識を溜めて、勉強して、このベッドの上からでも、あの人や、他の誰かの役に立てるように。でも、結局役立たずじゃないか……!」

 テオはいたたまれなかった。今まで見たことのない彼の様子に、どうしていいか分からず、差し伸べようとした手を当て所なく宙にさまよわせるだけだった。何度かパクパクと口を開け閉めしたあと、なんとか言葉を選びだした。

「役立たずなんかじゃ、ありませんよ」

 細い背中が大きく上下する。次に発せられた感情を無理に押し殺したような声は、低すぎて、彼ではないようだった。

「僕のどこを見て、そう言ってるんだ?」

 彼はテオにとって、無二の親友であり、居場所の一つでもあった。ただ、動転したテオには、気の利いたことを言えるはずもない。

「勉強、見てくれたじゃないですか」

「僕がいなければ、他の友人にでも頼んだだろうよ」

「話し相手になってくれた」

「家族で十分だ」

 似たような、不毛な問答がいくつか続いて、テオはいよいよ追い詰められた。どうしよう。もう、具体的な例が一つもない。そもそもレオに会いたいと思うのに具体的な理由などないことに、その時は思い至らなかった。

「あなたの……」

「なんだって?」

「あなたの青い目を見ていると、落ち着くんです」

 それは、苦し紛れにひねり出した嘘などではなかった。むしろ、大切であるがためにしまっておいたような、何かだった。

 ギリ、と、歯ぎしりの音がした。顔を上げて正面の彼の顔を見ると、その瞳はぎらぎらと輝いていて、本当に、彼ではないようだった。

「ふざけるな……、そんなのは、僕の価値じゃない! 出て行け! もう二度と顔を見せるな!」

 胸の内の何かに、ヒビが入ったような気がした。思わず動けなくなる。きっと、とんでもなく間抜けな顔をしていたと思う。呆然とレオの顔を見ていると、彼は後悔を表すように眉を寄せた。すぐに俯いたが、顔を隠したいのか、謝りたいのか、テオにはよく分からなかった。

「死んだとはいえ、僕はあの人の息子だ。もしかすると厄介事に関わることになるかもしれない。テオを巻き込みたくないんだ。理解してほしい」

 もはや、分かりましたと言う以外に選択肢はないように感じられた。テオがここにいても、彼はますます追い詰められるだけなのだ。自分は、彼の弱点にしかなり得ない。とても、虚しい気分だ。

「分かりました……」

 開けることのなかったカバンを肩にかけて、今度こそ扉に引き返す。戸を開ける時、レオになんと声をかけるべきかで、困ってしまった。ここに来た時に毎回言っていた「また今度」は、もう意味をなさないのだ。いくつかの別れの言葉が頭の中に浮かんだが、どれもふさわしくない気がした。仕方がないので、一番最初に浮かんだものを口に出す。

「元気で」


 数週間後、テオはあの病院にまた来ていた。あれからレオの泣き顔がどうしても頭を離れなくて、気がつくと自転車で通い慣れた道を走っていた。

 約束したのだ、顔を見ることはできない。だが、受付で元気かどうか聞くくらいなら許されるだろう。

「ヘルツさんですか? つい先週、中央の方の大きな病院に移られましたよ」

「え……、じゃあ、体調を崩した、とか」

「いえ、そうではありませんが、何か複雑な事情があったみたいです」

 その看護師も、よくは知らないようだった。テオは、そうですか、ありがとうございます、と沈んだ声で返して、病院を出た。


 一年ほどして、中央に行く機会があったので、国立病院に行ってみた。しかし、レオの名を告げると面会謝絶だと言われた。それ以来、彼とは会っていない。


***


 シュティーアはその日、上司から革命軍に関する資料を受け取った。

「お前たちのような末端のエインヘリヤルが駆り出されることはないだろうが、念のため、とのことだ」

 戦況は、正規軍の誰が考えていたより悪いようだった。軍の幹部は、フロイラインが負けたことでエインヘリヤルの英雄的立場を崩れるのを恐れた。もしこのまま革命軍が勢いに乗れば、民衆にもそちら側の味方をする者が現れ始めるだろう。これ以上彼らをのさばらせて、悪役とヒーローの構図が入れ替わるようなことがあってはならない。

 そんなわけで、一刻も早く各地の占領された研究所にエインヘリヤルを送り込んで革命軍を排除しなければならないのだが、これもまた予想外なことに、彼らは改造人間相手にとても上手く立ち回った。普段ロボット相手に戦っているエインヘリヤルが白兵戦に慣れていないことを見抜き、積極的な近接戦闘を挑んできたのだ。今渡された書類にも、注意されたしと書かれている。

 シュティーアは、この戦いにはエインヘリヤルではなく一般の歩兵部隊を投入すべきなのではないかと考えたが、それは自分のような兵士が考えることではないと思い直した。

「まあ、すべての研究所のデータが集まっている中央支部には厳戒態勢を敷いている。最悪そこさえ残っていれば問題ない。革命軍の排除には多少時間をかけてもいいだろう」

 中央基地でエインヘリヤルの管理を任されているという士官の男は、整えた口ひげをいじりながらそう言った。

 何か、違う気がする。これまでの用意周到さから察するに、彼らは厳戒態勢が敷かれることなど予期していたのではないか。それなら、力技で占拠しようとするとは思えない。一番考えやすいのは、警備にあたっている一般兵に内通することだ。

「なんだ? 用は済んだのだから、もう行っていいぞ」

「お言葉ですが、その厳戒態勢、少々見直したほうがよろしいかと存じます」

 士官はぱちくりと目を瞬いた。次いで、面倒くさそうに顔を歪め、しっしっと追い払うような動作をした。

「あー、そういったことを考えるのは我々士官の役割であるからして、貴様のような一兵卒は黙って戦っておればよいのだ。分かったらさっさと行け」

「……差し出がましいことを申しました」

 軽く礼をして、退室する。廊下を歩きながら渡された書類を斜め読みする。規則正しいリズムでページをめくっていたシュティーアは、ふと手を止めた。今回の事件の首謀者のプロフィールだった。写真がクリップで止めてある。テオドール・クラウスナー、二十五歳。濃い茶髪に群青色の瞳をした男。六年も経ったというのに、こいつはまったく見た目が変わらない――、

「……?」

 今、自分はどんなことを考えた? この男とは、赤の他人のはずだ。会ったことなど一度もない。それなのに、その小さな証明写真に強烈な既視感を覚えた。

 シュティーアは片手でこめかみを押さえた。まただ。ざらざらと砂が落ちる音がする。指の隙間からそれが、何か大切なものと一緒にこぼれ落ちているような気がして、焦る。いつになったら、この砂は落ちきるのだろう。


 研究所アーフェン支部にて、ロベルトは仲間に電話をかけていた。

「ギル、俺だ」

『あ、ローザ? 何もこんな時に電話してこなくても……。ちょっと待っててくれ、ここは騒がしくてな、すぐに二人きりで話ができるところに行くから』

 同志のギルは、ガールフレンドに話しかけるような甘ったるい声で言った。ちなみに、ロベルトは実は女性だったなんてことはない。電話の向こうのギルは、今敵地のど真ん中にいるのだ。できるだけ怪しまれない工夫をしなければならない。しかし、まあ、演技とはいえ大の男のデレデレした声はあまり聞きたくないものだが。

『で? 何の用だよ』

「ああ、決行の日と時間が決まったからな、その伝達だ」

『いつだ?』

「明日の正午だ」

『了解した』

 もう要件は済んだが、ロベルトは念のため釘を刺しておくことにした。

「怪しまれてないだろうな?」

 すると、ギルは少しばかり楽しげな声で返事をした。よほど人を騙すのが楽しいらしい。

『心配いらない。今しがたも、奴らに俺の哀れな過去を打ち明けてきたところだ。奴らの中での俺は、地元の片田舎で女に騙されて五年分の貯金をドブに捨てた馬鹿な男さ』

 ロベルトは彼に付き合って少し笑ってやった。ならいいんだ、と返す。

「ところで、それ、作り話か?」

『……聞かないでくれよ』


 数日後、ヴェスペは中央の研究所が占拠されたことを知った。廊下ですれ違う士官らしき人たちは、皆一様にピリピリした雰囲気をまとっていた。

 しかし軍の機能に支障があるわけではないので、ヴェスペとリーゼはいつも通り食堂で昼食をとっていた。

「大変だね」

 リーゼは茹でたじゃがいもをフォークで潰しながら頷いた。食堂の大画面テレビではちょうど、研究所占拠の件が報じられている。それを見ながら、ヴェスペは僅かに表情を曇らせた。アイリの私立軍の一件で、人間同士の争いというものに敏感になっているのかもしれない。先程、今のところ死者は出ていないとテレビで言っていたが、あくまで『今のところ』だ。やはり心配なのだろう。

「なお、研究所職員は人質として拘束されており……」

 スープを飲んでいたヴェスペが顔を上げた。モニターには、革命軍が公開した研究所内の人質の様子が映し出されている。

「あれ? じゃあ叔父さんもあの中にいるんじゃない? 映んないかな」

 どれだけ心配しても、野次馬根性は別問題らしい。わくわくした様子で画面を眺めている。

 と、その時、突然画面にノイズが走り、映像が切り替わった。先程までのニュースより画質が悪く、時折耳障りな雑音が混じる。そこには、若い男の顔が映し出されていた。ヴェスペが小さくイケメンだ、と呟く。確かにイケメンだけど、気にするべきはそこじゃないと思うよ。

「こんにちは、私が革命軍のリーダー、テオドール・クラウスナーです。皆さんに直接私たちの意志を伝えるため、公共の電波をジャックさせていただきました」

 なるほど。彼が、この事件の元凶というわけだ。画面の中の青年は、こちら側をまっすぐに見つめている。濃い色の眉は誠実さを示していた。

「私たちが望むのは、東西両国の停戦という、ただ一点です。もちろん、今すぐにとは言いません。私たちは、政府が現在の戦争政策を取りやめ、停戦に向けた努力をしてくれることを求めます。この戦争のために、日々資源が使い潰され、兵たちが傷ついています。政府によって目を逸らされているだけなのです。エインヘリヤルはそのための道具です。皆さんが私たちに味方し、共に平和に向けた道を歩んでくれることを願います」

 テオドールが演説を終えると、すぐにまたノイズとともに画面が切り替わった。画面外の何かと話をしていたニュースキャスターは、手元の紙をめくってカメラに向かって話始めた。電波をジャックされたことを謝罪して、ニュースが再開された。

「今の人」

 ヴェスペが、スープ皿をかき回しながら呟いた。

「間違ったことは、言ってなかったよね……」

 皿の中身は、もう冷め切っているようだった。


 中央研究所にて。

 国中の研究所で開発されたすべての技術を閲覧できるデータベース、その操作盤の前に、テオドールはいた。ロベルトがついてこようとしたが、一人にしてくれと頼んで置いてきた。その際、何を見ても動揺するなとしつこく念を押された。どうも、信用されていないようだ。

「別に、裏切ったりはしませんよ……」

 その右手には、人質の一人から借りたIDカードがある。脅して奪ったのではない。あまりすんなり貸してくれたので、拍子抜けしたほどだ。


 数時間前のこと。テオは研究者らしき白衣の男性に、データベースの閲覧方法について聞いた。すると、どうも職員の持つIDカードが必要らしい。ので、駄目もとで貸してくれと頼んでみた。もとより革命軍には関係なく、個人的な目的のためだったので、断られたら引き下がるつもりでいた。

「ん? いいけど」

 しかし予想に反して、その男はポケットからオレンジ色のカードを取り出した。

「い、いいんですか? そんなあっさり貸してしまって」

「じゃあ、君がどうしてデータベースを見たいのかだけ教えてくれる? 言っとくけど、技術を盗みたいんなら無理だと思うよ。そっちに医療と機械工学のスペシャリストがいるっていうんなら話は別だけど」

 テオは、少しの間迷ったあと、正直に答えた。

「そんなことは分かっています。私がしたいのは、人探しです」

「へえ」

 意外だったのか、男は細い目を少し見開いた。

「じゃあ、まあ、頑張ってみなよ。見つかるかは分かんないけど」

 そして、本当に気楽な調子でIDカードをテオに渡した。

「でも、使い終わったら返してね。ないと困るから」

「あ、はい。ありがとうございます……?」

 いいってことよ、と、男は隈の浮いた顔で笑ってみせた。


 そんなわけで、テオはIDカードを複雑な目で見つめたあと、機械に差し込んだ。ポン、と小気味良い音がして、画面に『認証しました』とメッセージが出た。適当に操作して、『被検体のリスト』を見つけ出す。検索方法はデフォルトで識別番号だったが、本名に切り替えた。

 革命軍を指揮して中央に来て、テオは初めて中央国立病院が、国立研究所に合併されていたことを知った。一年前かららしい。だからここでなら、懐かしい彼の手がかりが、もしかしたら掴めるかもと思ったのだ。もちろん、一番重要なのは革命軍を導くことだ。しかし、手の届く場所にこれがあるのだから、少しくらい調べてみてもいいと思う。仲間たちが皆一つの方向を向いて頑張っている中、よそ見をしてしまう自分に、テオはそうやって言い訳をした。

 検索窓に『レオポルト・ヘルツ』と打ち込み、テオはエンターキーの上で人差し指を静止させた。はっきり言って、怖い。最後に会ってから六年も経つのだ。彼が今どんな状況にあるのかなど、想像もできない。どこかの研究所で生きているなら、この一件が片付いたあとに会いに行こう。だが、どうしても受け入れられない状況にあると知った時、自分は一体どうするつもりなのだろう。テオは半ば無意識のうちに、『該当なし』の一文を期待した。

 何かを込めるには軽すぎるキーが、押された。

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