第10話 三つ目のドーナツ

 街を歩くと、案の定リーゼは人目を引いた。だが、最近は機械が一般市民の日常にも浸透しているので、護衛のロボットか何かだと思ってもらえるだろう。隣を歩く私服姿のヴェスペが、晴れてよかったね、と話しかけてきた。見上げてみると、確かに雲一つない晴天だった。秋も深まったこの季節、空の青に夏ほどのどぎつさはない。

「でも、こんなに晴れてるとかえってつまんないかもね。もっと、面白い形の雲とかがあったほうが好みだな」

 そういえば昔、よくアイリと雲の形を動物や物に見立てる遊びをした。きっと、こっちの国にも同じような遊びをしている子供たちがいるのだろう。

 二人で空を眺めながら歩いているうちに、ヴェスペが話していたドーナツの店に着いた。奥がイートイン席になっているようだったが、道に面してガラスケースがあり、入らなくても買えるようになっていた。

「すみませーん、この、これください」

 ヴェスペはほとんど迷う素振りを見せずに、チョコでコーティングされた甘そうなドーナツを選んだ。リーゼは? と振り返って聞いてくる。なんというか……、全部同じに見える。全部すごく甘そうだ。とりあえず、アームを出してガラスケースの中のプレーンそうなものを指した。バイトらしき若い店員は、物珍しそうにこちらを見ている。

「それでいいの? じゃあ、その二つ……」

 ふと気になったことがあって、ヴェスペの服の裾を引っ張る。彼女は直ぐに振り返ったが、しまった、どうやって伝えたらいいのかわからない。ほら、あの、もう一人いるじゃない。アームをばたつかせることしかできなかったが、ヴェスペは何かを察したらしく、少し不機嫌そうな顔になった。

「何? シュティーアにも買っていったほうがいいって?」

 そう! 言いたかったことはまさしくそれなんだけど、なんで分かったんだろう。

「リーゼがそう言うなら……。じゃあ、これ」

 ヴェスペは、今度こそ全く迷わず、というより興味ないと言いたげに、ぞんざいにココア風味のドーナツを指さした。


***

 彼と初めて会ったのは、確か十年と少し前だ。その時自分は、他愛のない事故で骨折した友達の見舞いに来ていた。

「そういえばさ、この病院、ずっと人が入れ替わらない個室があるんだって」

 その友達が、怪談でも話すような口調で言った。同室の子供たちに聞いた話によると、つい最近退院していった三つ年上のお兄さんが、ひと月前に来た時にはもうその部屋には同じ名前の札がかかっていて、そのお兄さんも、もといた人たちから同じような話を聞いたらしい。十歳やそこらの子供の認識では、入院とはごく短期間のものだったのだろう。友達は、幽霊でもいるのではないのかと言っていた。当時の自分もそれはなんだか怪しい、ということで、足を骨折して動けない彼の代わりにその病室に忍び込むことにした。

 よく晴れた午後だった。友達から教えてもらった部屋番号を確かめて、なるべく音を立てないように扉を開けた。

「……誰?」

 それなのに、病室には隠れる場所がほとんどなくて、すぐに気づかれてしまった。仕方がないので、追い出される前にその幽霊がどんなやつなのかだけでも確かめておこうと、目を凝らす。そして、少し驚いた。幽霊なんて言うから、年かさの男か、怪しげな女だろうと思っていたのに。

 窓際に置かれたベッドの上には、陽光に溶けてしまいそうなほど細く、淡い色を持った少年がいて、綺麗な薄青の瞳でこちらを見ていた。

***


 珍しく訓練以外の要件で、ベンノはバルツ基地内の射撃場に来ていた。右手には書類を持っている。

「あれ、ここにもいねえな」

 人探しだ。だが、彼は休憩所やブリーフィングルームを覗いても姿が見えず、ここにもいないようだった。ベンノは空いている方の手で後頭部を掻きながら射撃場をあとにした。

「戦いにでも行ってんのか? どうしたもんかな」

 廊下を歩いていると、見覚えのある顔とすれ違った。手を挙げて挨拶する。

「ライツ中佐じゃないですか。久しぶりですね」

 彼とは士官学校の同期だ。学校では成績も同じくらいだったのに、彼はみるみる出世して、今では敬語を使わなければならないほどの差ができてしまった。

「お、ベンノ。なんだ、難しい顔して」

「いやあ……。この書類で確認したいことがあるので、あるエインヘリヤルを探してるんですよ」

 ライツはふむ、と相槌を打つ。ベンノの持つ書類を覗き込んでくるが、なんのことはない、ただの報告書だ。

「なんて名前のやつだ?」

 何か思い当たることがあるのだろうか。

「第五部隊のシュティーアです」

 ああ、やっぱり、とこぼす中佐。仕事があるならやんなくていいって言ったのに……。などと呟いている。

「知り合いなんですか」

「まあ、俺の仕事は割とあいつらと関わることが多いし……」

 なんとなくはっきりしない言い方だ。どうしたのだろう。ベンノが問い詰めると、ライツは言いにくそうに口を開いた。

「雑用を頼んだんだ」

「は、雑用?」

 あのクールな彼とは、およそ似つかわしくないフレーズだ。

「ついさっき、俺のとこに仕事の報告で来たんだよ。で、冗談めかして、仕事が大変だ、誰かに代わってもらいたい、と言ったら、分かりましたと返されてしまって……。あんまり真面目な顔してたもんだから……」

 断る空気じゃなかった、とライツは言う。

「どんな仕事なんですか」

「ごみ捨て」

「仕事じゃないよな、それ」

 だってさあ、俺のとこに来る仕事なんてさあ、大体ハンコつくだけの仕事なんだもの、他の人に任すようなことじゃないんだよ、と覇気のない声で言い訳をする中佐。

「本当にいやな顔一つしなかったんだ。『上司の頼みなら、異論はありません』とかなんとか言っちゃって」

 しかし妙だな、とベンノは思った。初めて彼に会った際、ベンノに後衛を任せると言った時は、きちんと考えて結論を出したように見えた。そんな彼が、どう考えても自分の仕事ではないごみ捨てを、そう簡単に請け負うだろうか?

「納得いかないって顔だな」

「そりゃそうですよ。少なくとも俺の知ってるあいつは、そんなやつじゃない」

「でもあいつ、上司の頼みだったらなんでも聞くらしいぞ。お前も今度何か頼んでみたら、……あっ」

 ライツはしまった、というふうに口元を押さえた。そうだよ。俺の階級は大体シュティーアと同じくらいだよ。お前とは違うんだ。

 話を戻そう。前からシュティーアのことは変わり者だと思っていたが、ここまでとは。

「……なんかそれ、危なっかしいな」

 もしかして、上司が死ねと言ったら、はい分かりました、と返事をして迷いなく銃口を自分の頭に突きつけるのではないか、そんな考えが頭をよぎった。


「で、ドーナツはすごく美味しかったわけなんだけど……」

 自室に戻り、リーゼと買ってきたドーナツを食べ終えたヴェスペは、箱に残った最後の一つを横目で見て、軽くため息をついた。

「あいつに届けなきゃ、駄目?」

 リーゼは一つ頷いてみせた。もちろん。何のために三つ買ってきたのか。まあ分かってたけどさ、と呟いて、ヴェスペはベッドから立ち上がった。ところで、シュティーアの部屋はどこなのだろう。

「同じ部隊だから、隣だったりするんだよね」

 ドーナツの箱を持って部屋を出ると、右隣の扉を指さした。じゃあ早く行こう、と歩き出すリーゼのあとを、ヴェスペは気が乗らないことを全身で表すような歩き方でついてきた。最初から、彼女はこんなにシュティーアのことが嫌いだったろうか。リーゼは少し疑問に思った。ただまあ、過去がどうあれ、リーゼは二人に極力仲良くしてもらいたかった。あの上司は、ヴェスペが思うほど悪い人ではないはずだ。アイリも助けてくれたし。

 数秒かけてシュティーアの部屋の前までたどり着き、ノックする。ほどなくして、シュティーアが顔を出した。

「なんの用だ」

「今日非番だったから、外に出てきたの。で、ドーナツ買ってきたから、お土産」

 ん、とヴェスペが箱を差し出すと、シュティーアは少し考えたあと、

「いや、遠慮しておこう」

 そう言った。

「は、なんで……?」

 リーゼはヴェスペの背中に黒いオーラを見た。これはやばい。シュティーアは気づかないのだろうか。

「今、書類仕事をしている。休憩する暇がないので、それはお前たちで食べてくれ」

「半日くらいは日持ちすると思うけど」

 どんな事情があるにしても、ここは素直に受け取っておいた方が無難ですよ、とリーゼはシュティーアに言いたくなった。しかし何を考えているのか、シュティーアはヴェスペを見下ろしたまましばらく沈黙した。ああ、ヴェスペの背中がどんどんどす黒く。

「……いや」

 彼が否定の言葉を口にしかけると同時に、ヴェスペはドーナツの箱を後ろに放り投げた。リーゼが慌ててキャッチする。それから大きく一歩踏み出すと、その勢いのままにシュティーアの胸倉をつかみあげた。

「あんたねえ! いい加減にしなよ!」

「なんのことだ」

 リーゼから彼女の顔は見えなかったが、相当怒っていることは分かる。それなのに、白いゴーグルの彼は顔色ひとつ変えないままだった。

「言いたいことがあるんなら、はっきり言ったらどうなの、ってこと! いっつも、任務がー、とか、命令がー、とかそればっかりでさあ、自分はどうしたいとか絶対言わないよね、あんた。アイリちゃんの時も敵の情報がどうのこうのって鬱陶しいこと言って。今だってあたしのドーナツは食べたくない、ってはっきり言えばいいじゃない。言い訳がましく書類仕事とか引き合いに出して、嘘つかれてるみたいでムカつく!」

 あれ、そっち? 彼女の言っていることはよく分からなかったが、リーゼはとりあえず心配だった。これ以上彼ら二人の仲が悪くなったらどうしよう。もしかして自分のせいだろうか。

 シュティーアは何も言わない。何か考え込んでいるようだ。そのままやたらと長く感じられる十数秒が過ぎ、そろそろヴェスペの手も疲れてきたのではないか、とリーゼが要らぬ心配を始めたころ、固く引き結ばれていたシュティーアの唇が動いた。

「……仕事がある。離せ」

 ヴェスペは何も言わず、やや乱暴にシュティーアを離した。どす黒いオーラをまとわりつかせたままシュティーアの部屋をあとにし、自分の部屋に戻ると、あいつ嫌い! と叫びながらドーナツを半分に割り、片方をリーゼにくれた。


 ヴェスペの力は思いがけず強くて、彼女が襟を掴んでいた手を離した時、少しよろめいてしまった。彼女はすぐに出て行ったので、見られはしなかっただろう。

 シュティーアは扉の鍵を閉めて部屋の奥に戻り、自分の机の前に座った。ペンを握るが、咄嗟に次の行動が思い浮かばない。意識していなかったが、相当混乱しているようだ。彼女の言葉の、何がそんなにショックだったのか。それが分かれば、最初から混乱していない。

 あいつは何が言いたいんだ。俺は常に合理的に考えて行動を決定しているはずだ。シュティーアは一向に読み取れない書類の文字を、視線でなぞりながら考える。ならばやはり、間違っているのはヴェスペの方だ。こちらがショックを受けるような要素はどこにもない。それなのに、あの目はどうして、あれほどぎらついて見えるのか。あの捕虜の少女を治療した時、自分は一体何を考えていた? どうも思い出せないな。

 俺は、何か忘れている? どこからか、ざらざらと砂がこぼれ落ちていくような感覚がある。また頭が痛くなる。全部あいつのせいだ。そういうことにしてしまおう。それでも、紙の上に書かれているのは、やはり意味をなさない記号の塊のままだった。

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