第8話 ひとまずの決着と新たな兆し
冷酷な上司のことだから、すぐにミサイルでも飛んでくるかと思っていた。だが、何秒たってもシュティーアは一歩も動かず、何も言わなかった。
「何、どうしたの、あんた……」
訝しく思ったヴェスペが声をかけるのとほぼ同時に、シュティーアはぐるんと首を回して北を見た。その先には、時計台が一つある。エインヘリヤルの優れた聴力は、時計台から発せられる異音を捉えた。
金属音と電子音を混ぜたような、ひどく耳障りな音だ。ヴェスペはそれを、悲鳴だと思った。あそこに、助けが必要な人がいる。しかし、と、自分と同じように北を見上げる男を横目で見て、考える。あの戦車はもうとっくに逃げ切ったと思うが、こいつとはどうにかして決着をつけたい。この、自分は何も悪いことしてませんみたいな涼しい顔が癇に触る。だが、いつまでもここで突っ立っていてもどうしようもないのだ。
「一時休戦!」
そう言ってシュティーアに人差し指を突きつけると、ヴェスペは時計台を目指して駆け出した。
走る、ひたすら走る。時計台まではそう遠くないはずなのに、一歩一歩がやけに重く、長い時間に思われた。それでもとうとう時計台のある広場まで到着した。悲鳴はますます大きく、耳を塞ぎたいほどだった。しかし、叫んでいられるのはまだ諦めていない証拠だ。どうか、まだ続いていて。十五階を駆け上がるまでに、流石に体力は底をついた。息も絶え絶えに最後の一段を踏み、展望台の扉を開く。
「……!」
目を疑う光景だった。あれは、リーゼ、だろうか? 円柱の胴は縦にバックリと割れ、その中に詰まったたくさんのコードや管に埋もれるようにして、少年の上半身が突き出ている。少年はその細い腕に動かない少女を抱きしめて、泣き叫んでいる。そうか。あの少女が、もう一人のアイリだ。見れば、胸の辺りに血が滲んでいる。だが、頬にはまだ赤みがあり、息絶えてはいないようだ。
二人に近づこうとしたヴェスペを、誰かの腕が遮った。リーゼに気を取られていて気づかなかった。そこにいたのは、
「シュティーア……」
なんでここにいるの、何するつもりなの、なんで止めるの、など、言いたいことがたくさんありすぎてすぐに言葉が出てこない。彼はリーゼとアイリに一歩近づいた。
「だ、駄目!」
右腕にしがみついて止めようとする。どうせこの男は、あの少女を殺すつもりなのだ。
「離せ」
「いやに決まってるでしょ!」
リーゼも今は泣き叫ぶのをやめ、シュティーアを睨みつけている。
「離せ、ヴェスペ」
「聞こえなかったの!? いやだって」
ギリ、と歯ぎしりの音が聞こえた。この男の視線というものをこれほど明確に感じたのは、これが初めてだと思う。それから、彼は大きく息を吸い込み、
「その子を死なせたいのか!」
珍しく声を荒げた。彼が大声を出したところなんて今まで一度も見たことがない。これが初めてだ。それより、今、なんと言った?
わずかに力の緩んだヴェスペの手を振り払い、シュティーアはリーゼにアイリを床に下ろすように言うと、その傍らに膝をついた。リーゼも彼の行動を呆然と見守っている。背中の武装を開いて小さな箱を取り出し、バチンとロックを解いて箱を開ける。中に入っているのは、包帯やガーゼ、いくつかの瓶とあとはよくわからないチューブやら針やら。つまるところ、医療器具の数々だ。それらを使い、アイリに処置を施していく。
「どうして……?」
わからないことだらけだ。何故リーゼがここにいるのか、何故シュティーアは敵であるはずのアイリを助けているのか、誰がアイリに傷を負わせたのか。
ややあって、シュティーアは医療器具の箱を閉じた。
「運がいいな。助かるぞ」
相変わらずの抑揚がない声にリーゼは深く息を吐くと、眠るアイリの頬を撫でて微かに笑った。
その夜は、念の為敵の追撃に備え、野営地で夜を明かすことになった。アイリは捕虜としてテントの一つに寝かされている。
テープなどを使い、なんとかもとのドラム缶型に戻ったリーゼは、アイリのいるテントを訪ねた。見張りには、ヴェスペが話を通してくれた。亜麻色の髪の少女はまだ目を覚まさない。命に関わるほどではなかったとはいえ、だいぶ血を失ったようだったから当たり前だろう。リーゼは、細いアームで彼女の掛け布団を首元まで引き上げた。
早く目を覚ますといい。言いたいことがあるんだ。
アイリとともに時計台の最上階にいた少年の亡骸は、野営地の近く、なるべく戦闘に巻き込まれない場所に仮の墓を作った。火葬にした遺骨を容器に入れて埋め、コンクリートのかけらを刺した簡単なものだが。ヴェスペは、アイリが起きたら少年の名前を聞かなければと考えた。
少年の墓に野の花を供えて自分のテントに帰る途中、シュティーアとすれ違った。昼間のことについて、聞きたいことがあるのだ。
「あ、ちょっと、シュティーア」
呼び止めると、彼は律儀に体ごと振り返った。
「何の用だ」
「あんた、アイリちゃんが敵の指導者だったって知ってたの?」
これで、彼が知らなかったと言ったなら、昼間の一件は『戦闘に巻き込まれたらしい罪のない少女を助けた』ということで片付く。まあ、それでもかなり無理があるが。しかし、シュティーアの返答は違った。
「知っていた。新聞やテレビで報道されていた上、事前に資料を渡されていたからな」
「じゃあなんで、あの子を助けたの?」
「今後の戦争を有利に進めるのに、捕虜はいたほうがいいと考えた」
今日の彼はどこか妙だ。無表情と打てば響くような返答はいつもと変わりないのだが、なんというか、行動に一貫性がない。現に今の言葉だって、矛盾点がある。
「目標は敵の殲滅だって言ってなかったっけ。別に何か、理由があったんじゃないの?」
「……」
「……シュティーア?」
その矛盾を突くと、途端に黙り込んでしまった。ねえ、ねえと声をかけたり、目の前で手を振っても反応がない。
石像のようになってしまった彼の返答を待っていると、ガッシャンガッシャンと聞きなれた足音が近づいてきた。ただ、焦っているような感じがする。ヴェスペの隣で止まったリーゼは、軍服の袖を引っ張った。どこかに連れて行きたいようだ。
「ちょっと待って、リーゼ」
シュティーアを指差すと、リーゼはどうしたんですかこの人、とでも言うように体を横に傾けた。
「シュティーア、シュティーアってば!」
「……なんだ」
猫騙しをして、やっと反応があった。
「なんだじゃないでしょ、散々無視しといて。さっきの質問だけど、答えにくいなら無理して答えなくていいから!」
最初からさして気になっていたわけでもない。
野営地の端のあたりにある一人用のテント。アイリが眠っているはずのそれは、もぬけの殻だった。
「ちょっと見張り! 何してんの!?」
怒りに任せて叫ぶと、まだ若い一般兵の見張りはやや泣きそうな顔で言い訳を始めた。
「いや、そのあの、さっきですね、急を要する用事が出来ましてね、それで、眠っているのを確認して少し離れたら、もう戻ってきた時には……」
「そういう時は、通りすがりの誰かを捕まえて頼むとかしなさいよ!」
「ひぃっ、ごめんなさい」
テントの外に足跡が続いていないか見てみたが、探すのは困難だった。
「リーゼ、辺りは探してみた?」
ガタン。ヴェスペの質問に、リーゼは胴体を前傾させて頷いた。
「どうしても見つからなかったのね?」
再び、ガタン。ヴェスペは悲しそうな顔をして、リーゼの装甲を撫でた。次いで、活を入れるように自らの両頬を叩いた。
「こうなってしまったからには仕方ない。次のことを考えないと」
ヴェスペはリーゼを自分に割り当てられたテントに連れて行くと、神妙な顔で腕を組んだ。
「とりあえず、最初の目的である『アイリちゃんに会う』のは達成できたわけだけど……納得いくわけないよね」
リーゼは力強く頷いた。
「うん。あたしも納得いかない。でもさ、会って、話して、その先はどうするの?」
沈黙するリーゼ。そんな彼に、ヴェスペは紙とペンを渡した。
「字、書けるでしょ?」
もう一度頷くと、金属のアームでペンを握り、床に置いた紙にたどたどしい手つきで一文を書いた。
『もう、危ない目に遭って欲しくない』
小回りのきかない体なのか、筆跡はかなり乱れていたが、かろうじて読める。そしてペンを握りなおすと、さっきよりは整った字で付け加えた。
『味方になってあげたい』
ヴェスペはそれを拾い上げ、なるほど、と口元に手をやった。
「まあ結局、やることはこの前までとあんまり変わらないね。とりあえず面と向かって話さないと。これからも協力するから、よろしく」
驚いたようで、リーゼは体を揺らした。その代わりと言ってはなんだけど、と、ヴェスペはリーゼの装甲をぺしぺしと叩いた。
「アイリちゃんとはどういう関係なのか、とか、リーゼ自身のこととか、いろいろ教えてくれない?」
考えてみると、自分はリーゼのことをほとんど何も知らないのだ。こちらからは、エインヘリヤルになった経緯などを明かしたのに、不公平だとヴェスペは思う。
「大丈夫、リーゼは、あたしの質問に頷くかそれ以外かで答えればいいだけだから。いい? 教えてくれる?」
リーゼはキュイ、とカメラを回したあと、一つ頷いた。
たくさんの質問を重ねて、得られた情報は次の通り。
彼はもともと西の国で暮らしていて、東の国の軍隊が攻め込んできた時に捕虜として連れてこられ、それから、志願したわけではないが改造を受けた。ヴェスペは実験台だったのかな、と思い、なんだか申し訳ない気持ちになった。アイリとは幼馴染。恋人ではないらしい。
「昼間、顔は見せた?」
少し間を置いたあと、返答があった。胴体を横に動かす。いいえ。
「そっか。次会えたら、見せてみるといいかも。いくらリーゼがリーゼだってあたしが言っても、信じてもらえないと思うし」
うんうん、とヴェスペは一人で頷き、リーゼから聞いたことをまとめたメモを見て、今度はん? と首を傾げた。
「でもさあ、なんで捕虜だったリーゼが、西の国の兵士として戦うことになってるの?」
リーゼは、ヴェスペと同様に胴体を傾けた。ただ、このことがあったから、エインヘリヤルの名簿に名前が載ってなかったのかもしれない。
「あ、そうだ。リーゼが第五部隊から抜けるかもとか言われてたんだっけ」
問題は山積みだねえ、と声をかけると、リーゼは姿勢を正すように脚を鳴らした。やる気は十分のようだ。
誰もいない廃墟の街に、一人の少女の吐息の音だけが響く。
見知らぬテントの中で目を覚ましたアイリは、自分にかけられた毛布に東の軍のエンブレムを見つけ、自分が捕虜になってしまったことを知った。東の国のやつらなんて、どうせろくでもない性格の人ばかりに違いない。あの孤児院に火をつけ、マルクを殺したのだから。自分を助けたのだって、敵国の情報を得るためだろう。そう思い、見張りの隙をついて逃げ出してきた。だが、これからの見通しは何もなかった。そもそも、ここから西に歩き続けて自国に着くという保証はどこにもないし、帰ったところで何をしたらいいのかわからない。もう一度死のうにも、ナイフは取り上げられてしまったようで手元にはなかった。
そろそろ体力も尽きそうだ。ここで倒れたら、またマルクに会えるだろうか、と思う。のどを刺したあと、一度顔を見たような気がするのだが、やっぱりただの夢だったようだ。廃墟の壁に寄りかかって空を見上げる。
「ごめんね、マルク……。仇、討てなかった」
ひとりでに涙が溢れる。どうせ見る人はいないのだ、拭う必要はないだろう。謝りたいのは、兄がわりの幼馴染に対してだけではない。随分たくさんの人を巻き込んでしまった。カイも、自分をかばって死んでしまった。何をしても許されるものではない。
と、そのとき、前方、西の国の方角から、一台のトレーラーが走ってくるのが見えた。ヘッドライトの眩しさに目を細める。それはアイリの目の前に停り、そのドアを開けて一人の女性が降りてきた。
「レンバッハさん……」
見事な金髪をショートにして軍服を着た彼女は、西の国の士官であり、アイリの軍に力を貸した人でもある。
「こんなところにいたのか、アイリさん。ほら、西の国に帰ろう」
どこまでも明るい彼女の態度に、アイリは寂しく笑った。
「あの、ナイフか何か、持ってませんか?」
「どうして?」
彼女の顔を見ていられなくて、自分のつま先に視線を落とす。
「私、取り返しのつかないことをしました。もう死んでしまおうと思うんです」
沈黙。レンバッハはアイリに期待していたようだが、失望しただろうな、と思い、唇をより一層歪めると、突然肩を掴まれた。
「何を言っているんだ! 一回負けたくらいで、そんな弱気になっちゃいけないよ!」
そのまま激しく揺さぶられる。
「今回は運がなかっただけだよ。もっとちゃんと準備して行けば、必ず勝てる!」
「でも私、あんなに人が死ぬところ、もう見たくない……」
そう言って俯くと、彼女はぐい、と顔を寄せてきた。目のそらしようがない距離に、彼女の明るいブラウンの瞳がある。
「よく考えてごらん。君の目的は何だった? 仇討ちだろう。兵の一人一人のことまで気にしている場合か? こんなところで諦めて、君のお兄さんは満足すると思うか」
彼女の声には、熱がある。そうだ。一回負けたくらいでなんだ。今回だって何もないところから始めたんだから、もう一度やり直せばいいだけだ。そうしないと、きっとマルクも報われない。
「はい……。もう一度、チャンスをくれますか?」
「ああ、もちろんだとも。君には、人々を導くたぐいまれな才能がある。それとわたしの力を合わせれば、なんだってできるはずだ」
基地に戻ってすぐ、リーゼはヴェスペの部屋の隅にうずくまったまま動かなくなってしまった。一晩経っても動かず、声をかけても反応がないので、ヴェスペは少し心配になった。だが、いろいろあって疲れたのだろう、それで眠っているのだ、と一人で納得した。
それから二日後。研究所からリーゼに関して連絡があった。
『コードネーム・リーゼは、引き続き第五部隊の隊員として扱うこと』
そのたった一文だった。何故今回の問題が起きたのかなどの説明は一切なし。しかし懸案事項が減ったことで、ヴェスペはまた以前のように食事を楽しめるようになった。
―――早く……
リーゼは誰かの声を聞いた。次いで、これは夢だと自覚する。だって、今の自分はドラム缶の体ではなく、生身のような感じがしたから。しかし真っ暗だ。感覚もほとんどない。生身に戻っているということ以外、自分の体のことも全く分からない。
―――早く、私のもとへ来てください
最初、それはアイリの声なのかと思った。でも違う。もう少し年上の女の人だ。多分。でも、来てくださいって言ったって、僕はあなたのいる場所を知らないんだ。そう口に出そうとしても、音にならない。くそ、こんなところだけ現実が引き継がれているなんて。
―――でないと……
よく聞いていると、その声は奇妙な特徴を持っているようだった。イントネーションが時折おかしい。どこかよその国の訛り、というよりも、人工音声に近い、そんな気がした。人らしい声の揺らぎの代わりに、ノイズが入る。
―――でないと、きっと、取り返しのつかないことになってしまう
だが、リーゼはこの不思議な声の主を助けてあげたいと思った。
目を覚まし、カメラアイを起動すると、リーゼはまず周囲を見渡した。ここは……、ヴェスペの部屋だ。そうだ、あの事件のあと、帰ってきてすぐに寝てしまったのだった。どれくらいの間寝ていたのだろう。窓からは光が入ってこない。夜だ。誰かに今は何時だと聞きたくてたまらなかったが、寝返りをうってこちらを向いたヴェスペの半分シーツに埋もれた顔を見ていると、とりあえず今はいいか、という気分になってきた。自分も、もう少し眠ろう。
あれ? さっきまで、どんな夢を見ていたんだっけか。
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