第8話

 時刻は朝九時を指していた。体調が悪いからと母に告げ、学校を休むことに成功した。実際、ちゃんと寝ていないせいか少し頭痛がする。昨夜ご飯も食べずに早く部屋に引きこもったことで母は心配したらしく、パートに出かける前にキッチンにはお粥が作りおいてあった。わたしはそれをありがたく食べることにする。玉子の入ったあったかいお粥。そのあたたかさがからっぽの胃に染みて、また、ふいに泣き出しそうになる。

 里子へのメールは返していなかった。そんな余裕も余力も残っていなかった。

 これを食べ終えたらまた横になろう。そう思っていた矢先だった。

 ピロンポロン。ピロンポロン。

 この音の長さはメールではない。慌ててスマホを見る。

「里子から……着信」

 一瞬の躊躇ののち、電話に出ることにした。


「……もしもし?」

「あ……おはよう。今日、学校おやすみ?」

「う、うん。ちょっと体調悪くて……」

「……わたしのせい、かな」

 図星ではあったがそうだとは言えなかった。適当にはぐらかして熱があるからと告げておいた。本当にあるかもしれないな、と思いながら。

「今日、本当はちょっと会って話したかったんだけど……それじゃ無理そうだね。お大事にね」

「えっ……ちょっと待って、話?」

 そのまま切られそうだったので慌てて話をつなげた。里子から直接の話とはなんだろうか。メールでは時間をくれと言っていたはずだ。

「うん……。電話じゃなんだから、本当は直接がよかったんだけど……」

「わかった、放課後でいい?」

「大丈夫なの?」

「今は自分の体調より里子のほうが大事だよ」

「……うん。わかった。じゃあまた連絡するね」

 電話は切れた。とりあえず深呼吸しないと過呼吸でも起こしそうだ。

 放課後。夕方五時くらいには会えるだろうか。

 とりあえずまた湯船に浸かってみよう。まだ、時間はある。何度だって入って落ち着くまで繰り返せばいい。大丈夫。大丈夫。


 約束の時間を迎えるまでに、結局三回ほど風呂に入った。こうも不安定な自分を自分で抑えられずに驚いている。

 五時になる三十分ほど前、里子からメールが来た。

『学校終わったよ。そっちの駅まで向かうから近くのカフェで待ってて。』

 わかった、とだけ返信して、身支度を整えた。髪はちゃんと乾かしておいた。もう、自分にできることはない。

 最寄り駅の近くにあるフランチャイズのカフェは時間帯もあって少し混んでいた。先に二名がけの席を確保してカフェオレを頼んでおいた。

 あと五分で五時だ。もう少し遅れてくるだろうか。

 焦燥感でいっぱいのわたしにはたった一分が無限に感じられて、もう、時間の感覚なんてなかった。

 そこに、遂に彼女がやってきた。

 時計を確認するまでもなく、セーラー服にカーディガンを羽織った里子が、レジ付近からわたしを認めると、真っすぐにこちらに向かってきた。

「おまたせ」

 言うなり、里子はドリンクと鞄を置いて椅子に腰掛けた。

 心なしか呼吸が荒いようにも見える。駅から走ってきたのだろうか。

「体調は平気?」

 開口一番、彼女は言った。その気遣いが優しさのようでもありただの社交辞令のようでもあり、そのどちらとでもとれるセリフをわたしは苦々しく思った。

「話って」

 質問を遮ってわたしは言った。内心焦ってるんだな、とそれを取り繕うこともできなかった。

「ちょ、ちょっと待って」

今度は里子が慌てる番だった。わたしは里子が考えていることがわからず混乱している。だからこうしてはやる気持ちを抑えられない。矢継ぎ早に話を進めて終わりにしたい気持ちもあった。もう、これ以上待てなかったのだ。

「まず、謝りたいの」

 謝る? 彼女になにを謝らせることがあるだろう。謝らなければいけないのはこっちのほうだ。里子は続けた。

「せっかくの気持ちをごまかしてしまったこと、本当にごめんなさい」

「そんなこと……ひどいことをしたのはわたしで、」

「ううん、聞いて」

 里子はわたしの目の中を覗き込むようにして言った。

「わたし、嫌じゃなかったのよ」

「え?」

「梓にキスされたこと」

 なんてことだろう。いや、でもメールではたしか、

「……メールのことは」

 見透かされたようだと思った。

「やっぱり、わたしたくさん謝らなくちゃいけない。メールのこともごめんなさい。あんな夜中に動揺させちゃったよね」

 わけがわからなくなってきた。もうわたしからは言葉は出なかった。氷の溶けかかったアイスオレにも手がつけられなかった。

「単刀直入に言うね」

 息を呑む。里子を前にしてこんなにも落ち着かないとはなんて情けないんだろう。

「梓、わたしと」


「付き合ってください」


 里子の言葉が右から左へとただ流れてゆくだけで頭に入らなかったわたしは、その意味を理解するのに少々の間を要した。

 えっと、それはつまり。

「好きなんだよ、やっぱり。梓のことが気になってしょうがないの。だから、わたし、離れるなんてできないって気づいた。

自分の言ったことごまかしたり、突き放そうとしちゃったりしたけど、でも、自分の気持ちまでごまかせなかった」

「……でも里子、時間がほしいって」

「そんな悠長にしてたら梓が逃げちゃうかなって、今日も学校で気が気じゃなくなっちゃったの」


 つまりはこういうことらしかった。彼女なりに気持ちに整理をつけようとしたところへわたしのキスがあり、里子の方でも気が動転していたということ。そして悩み考え、もう少し踏み込んでみたくなったこと。しかしわたしが学校を休んだことで自分のせいじゃないかと落ち込み、このまま一生離れなければならなくなるのではないかと不安になったということ。

 そんなことをとつとつと話しながら、里子が自分で動かなければなにも変わらないと今に至ったことを伝えてくれた。

「里子……」

 泣きそうになりながら里子の顔を見る。

 彼女は彼女でほんのり照れくさそうに微笑みながら、逆にわたしの顔を覗き込みながらこう言った。

「それで、梓は?」

「えっ……と」

 わたしとしてはもう答えはあの時にしてしまったように思うのだけど、言葉にしたことはまだなかったんだと気付く。

「わたし……なんかでいいの?」

 正直な気持ちだった。

「ううん、梓がいいの」

 少し首を傾げるあの癖を、随分と久々に見た気がする。

 里子は精一杯の笑顔を向けてわたしに言った。

「これからも、よろしくお願いします」

 すべてが赦された瞬間でもあった。

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