もう、叶わないと知っている。
ふゆむしなつくさ
もう、叶わないと知っている。
『そういえば、今日七夕だった』
日が回って一時間半程が経った頃、不意に充電コードに繋がれていた携帯がバイブ音を鳴らして、画面を確認すると、見知った名前からそんなメッセージが届いていた。
あぁ…と思いながら、万年床になりつつある布団の枕元へ、読みかけの本を開いたまま伏せる。読書灯代わりのライトの光度を少し強めてから、僕は布団に座りなおして返事を打った。
『そういえばそうでしたね』
送信して伏せておいた本を再び手に取り、暇潰しの読書に戻ろうとすると、またすぐ携帯に反応があった。
『何か願い事しないと』
そして続けざまに『何かない?』と追加される。
今度は本を膝の上に置いたままで、『えっと、そうですね』と前置きしてから、僕は立て続けに思いつく願い事を打ち込んで送信した。
『今より僅かでもいいから楽に生活できるだけのお金と』
『健康な身体に』
『もう少し整った顔』
『それと』
『人当たりが良くて思いやりのある性格と』
『気の置ける友人を一人か二人』
『無駄に焦ってばかりにならない精神的な余裕と』
『孤立しない程度のコミュニケーション能力』
『あと』
『誰かを見下した時に、自分がそいつよりもっとくだんない奴だって気付いて虚しくならないような、立派な才能を、下さい』
一通り送信すると、反応はまたすぐに返ってきた。
『うえぇ、欲張りだなぁ』
一瞬、確かに、と思ったけれど、何となく認めるのも癪で、『正直者なんですよ』と売り言葉に買い言葉の感覚で返信を綴った。次いで、自分だけが一方的に答えているのが何だか理不尽な気がしてきて『そっちはどうなんですか』と付け足した。
今度は、少し間があった。
即座に反応がないので、携帯を脇に置いて、ライトの位置を僅かに調節してから再び本へ意識を落とす。地文を4行読み進めたところで、携帯が振動した。
『やっぱり秘密』
『はい?』思わず反射的にそう打ち込んでいた。
『なんですかそれ』『ずるいですよ、自分だけ』と立て続けに送信して、返事を待つ。
『じゃあ、世界の平和とか』
『わかりました。ないんですね、答える気』
『いや、そういうわけじゃないんだけど』
『いやまぁ、無理に聞き出すような話じゃないので、言いにくいなら別にそれはそれでいいんですけど』
『だから、そうじゃなくて』
『そうじゃなくて?』
『そうじゃなくて』
そこで、文字を打つ手を一旦止めて、続く言葉を待っていると、それはすぐに届いた。
『同じような願い事をするのも、どうなんだろうと思って』
その一文を見て、変なところでこだわる人だなぁと、少し面白く思った。
『別に、いいんじゃないですか、同じような内容でも』
『いやでも、ううん』
どうやら、向こうはどうもそれに納得がいかないらしい。
液晶の上部に表示されている時間を見て、僕は読み進めていた頁に栞紐を挟んで、本を閉じた。主に大学へ入ってからの生活の中で、僕の生活習慣はすっかり、自堕落で引き篭もり気味な連中の多くがそうであるように(語弊があるかもしれないけれど、別に他意はない)、昼夜が逆転してしまっていた。睡眠時間も馬鹿みたいに増えて、今では用が無ければ、一日に十、十一時間位眠っているような人間になっていた。それでも、これといった趣味も、友人の存在も無かったからか、これまでは特に不便はしなかった。いや、もしかしたらこれといった趣味も友人の存在もなかったからこそ、寝てばかりいただけなのかもしれないけれど。
ただ、これからはそういうわけにはいかないということだけは、わかっていた。
大学は今年度で卒業で、来年度からは就職が待っているし、そのための準備も山程ある。無理矢理にでも、少しずつ、生活習慣を矯正する必要があるのは理解していて、ここのところ、僕はたとえ眠気が薄かったとしても、夜中は電気を消して横になるようにしていた。部屋の電灯をつけずに、小さなデスクライトで本を読んでいたのも、要は意識を睡眠に近づけるための意味合いが強い。
本を枕元の本棚へ戻して、ライトの灯りを消したところで、振動と共に側に置かれていた携帯の画面が点灯した。
『そうだ、折角だから、短冊に書こうよ、私も何か考えるから』
その内容を見て、えぇ…と思いながら、僕は真っ暗になった部屋で返信を打つ。
『もう横になろうと思ってたんですけど』
『でも、どうせまだ眠れないでしょ?』
『まぁ、多分そうでしょうけど…』
何となくどんな返答が来るか予感しつつ、続けざまに『それに、短冊に書いたとして、どうするつもりなんですかそれ』と入力して送信する。即座に返ってきた文章を見て、僕はやっぱりなと思った。
『そりゃあ、吊るしに行くつもりだけど』
『もう横になろうと思ってたんですけど』
『でも、どうせまだ眠れないでしょ?』
『まぁ、多分そうでしょうけど…』
平行線だなぁと適当に考えつつ、ぼうっと画面を眺めていたら、少したってから『もしかして、本当に横になろうとしてた?ごめん、無理強いするつもりはなかったんだ』と、なんだからしくないような、控えめな一文が届いた。
それを見て、この人も相変わらずだなと、おかしな苦笑と同時に若干の安堵を憶えながら、返信を入力する。
『十五分後に、エントランスでいいですか?』
送信して五秒と経たずに返ってきた『承知た、』という微妙に謎の一言を確認しつつ、僕は一度消したライトを再び点け、コードを伸ばして枕元から座卓へ運ぶ。部屋の電灯をつけるのは、ついさっきまでの、わざわざ小さな灯りで過ごしていた時間を無駄にするようで、何となく気が引けた。
代わりにライトの光量を強めに調整してから、外出用の鞄を開けて、適当な大学ノートを一冊引っ掴んで取り出す。そしてそこから、白紙のページを一枚無造作に破りとった。
折角だから書くなどと言っても、僕は勿論、ちゃんとした短冊なんて用意していない。でもまぁ、多分、こんなもので充分だろうと、座卓上の、しばらく証明写真ばかり切っていた鋏へ手を伸ばしながら思う。
僕もあの人も、本当に叶えたいと思って、こんな馬鹿みたいなことをしているわけじゃない。結局の所、言ってしまえば、こんなのはただの口実だった。たとえ虚ろな眼で地面ばかり見つめながらにだとしても、進路だけは否が応でも前へ向け続けなければならない、そんな日々の生活の中で、一時だけでも、誰かと一緒にその場に立ち止まり、揃って後ろを振り返るための、口実。
益体もないことを考えながら、僕は適当な間隔で印をつけたノートの切れ端に安物の鋏を入れる。
薄い紙を切り分ける音が、自棄に大きく部屋の中に響いた。
・
・
・
準備を済ませてアパートの自室を出ると、すぐ真向かいのドアの前に、相手は既に立っていた。薄手の寝巻き姿で、ハーフパンツから無防備に伸びている細い脚が相変わらず白い。彼女は出てきた僕に気付くと、もたれかけていたドアから背中を離して、「ん」と右手を軽く上げ、柔らかく笑んだ。胸元まで持ち上げられた手の指の間には煙草が挟まれていて、先端から細い煙をなびかせている。それを見ながら、僕は言った。
「お待たせしました、先輩」
「もう先輩じゃないってば」いつものように、そんな指摘があった。だから僕も、いつものようにそれを無視した。
エントランスを抜けてアパートを出ると、まだ涼しさの残る夜風が、肌を撫ぜた。日中とは違って、夜の空気には、まだぎりぎり春や梅雨の残滓が蓄えられているような気がした。冷房の効いていない部屋の中にいるより、余程快適に思える。
アパートの外壁にもたれかかって、僕は部屋着のポケットをまさぐり、安いだけで美味くもない煙草と貰い物のライターを取り出す。後ろからついてきていた先輩も、僕の隣で同じように壁に背を預けて、煙草を挟んだ指先を口元に寄せた。それを見ながら、僕は言った。
「煙草、辞めるんじゃなかったんですか?」
煙をゆっくり吐き出してから、自分の煙草に火を点ける僕へ顔を向けて、先輩は答えた。
「そんなの、言ってるだけだよ」
何を今更、というような口調で笑う先輩に、僕は少し安心した。
「早くやめてください」
「何で。自分だって吸ってるくせに」
「言ってるだけですよ」
軽口を叩きながら、僕も深く煙を吸い込んだ。肺に収まりきらなかった煙は、ついた息と一緒に、夜の空気の中へ捨てた。
それから言葉が切れて、少しの間が出来た。人も車も滅多に通らない裏路地は、会話が無くなると、本当の意味で音が無くなったかのようで。そのためもあってか、ふと、虫の鳴き声がまだ響いてこないことに気がついた。この辺りの夏は、まだもう少し先みたいだなと思った。嫌な沈黙ではなかった。あまり気を遣わない間柄だからこその、親しみのある無言。
僕は黙って煙草を吹かしながら、先輩の顔を横目で眺めた。中空へ消えていく煙を名残惜しそうに見つめるその横顔は、話す時の態度とは裏腹に、随分くたびれて見えた。短めで少し明るい色の髪は、よく見るとかなりくしゃくしゃになっていて、それが虚ろ気な印象を一層濃くしているように感じられる。
何だか急に居た堪れなくなって、僕は口を開いた。
「先輩はいいんですか、寝なくて。明日も、普通に仕事ですよね」
何処を見ているのかも定かじゃないようなぼうっとした表情のまま、反射的とも言える速度で、先輩は即答した。
「いいんだよ。明日の私は、どうせ行くんだから」
その声は、どこか抑揚を欠いて聞こえた。そして言ってすぐ、今度は急におどけた声音で、「それに早く寝たところで、その分早く起きられるわけでもないしね、私」と付け足した。朗らかに笑う先輩の目元には、焼き付けたような隈が相変わらずありありと浮かんでいた。僕はそれを、なんとも言えない表情でただ見ていた。
先輩がどんな生活を送っているかは、僕もよく知っていた。この人は、平日はいつもこうして、一人でいる時もそうでない時も、夜更かしばかりしていた。目的があって起きているわけじゃなく、ただ何をするでもなく起きているだけ。そうして空が明るくなりかけてきた頃に寝付き、3,4時間程度の睡眠をとって、毎日仕事へ出向いていく。そのせいで、週末の休日は逆に、一日中眠ってばかりいることも、知っていた。いや多分、きっとそれだけのせいではないのだろうけれど。まとまって出来た自由時間だからこそ、眠ってばかりになってしまう、その感覚は、僕にだって散々身に覚えがある。それでも、傍目に見ていても不格好で下手糞な生活の仕方だとは思う。
先輩は、一日一日の生活の中の、『仕事』が占める割合を、極力減らしたいようだった。『仕事』を自分の中心に据えることを、この人は必死に拒んでいる。自分の生活が段々と【仕事】のためのものに変わっていくことを、この人は嫌がっている。
それは何だか、こんなことをするために生きてきたわけじゃないんだという、自分自身の現在に対しての、彼女なりの抗いのように、僕には思えた。
吸い終えた煙草の火をコンクリートの地面に擦りつけて消していると、「どこにしようか、短冊かけに行くの」という先輩の声が、斜め上から聞こえた。
「あー…あの公園でいいんじゃないですか。すぐそこの」
「…あそこ、かけられるような木あったっけ?」
「無かったら無かったで、その時です」
「…まぁ、そうだね」
そう言いながら先輩は、サンダルでぱたぱたと、二人分の吸い殻を側溝へ蹴って捨てた。
・
・
「…やっぱり無いじゃん、かけられそうな木」
アパート前の道を、駅へ向かうのとは違う方向へ数分歩き、その小さな公園に辿り着くなり、先輩は眼前の木を見上げながら、ぼやくように言った。
「ですね、すみません」
そこにあったのは、時々点滅している街灯に、滑り台と、ジャングルジム、3人程が座れそうなベンチが二つ。それと、その敷地全体に傘をかけるように枝を広げている、大きすぎる木だけだった。流石にあれは、手を伸ばしたところで届きそうにない。
立ち止まって上空の枝を見上げ続けている先輩を傍目に、僕は公園の敷地内へ足を踏み入れながら言う。
「でもまぁ、僕は別にいいですからね、適当に散らばせとけばそれで。どうせ、本当に叶うと期待して書いたわけじゃないんですし」そもそも紐なんてつけちゃいない。
木の幹のもとまで歩を進めてから振り返ると、何か言いたそうにこちらを見つめる先輩と目が合った。けれどそれを言葉にはしないまま、先輩は足早に僕の傍へ近づいてきて、隣に並ぶ。
「意地でもかけてやる」
「そうですか、頑張ってください」
「言われなくても」
意気込むように言って幹に目を凝らし始める先輩から視線を外して、僕は部屋着のズボンのポケットへ手を突っ込む。長方形のノートの切れ端をまとめて引っ張り出すと、その場に屈んで、それを木の根元へばらまいた。
【もう少し楽に生活が出来るだけの金】【健康な身体】【もう少し整った顔】【人当たりが良く思いやりのある性格】【気の置ける友人】【精神的な余裕】【孤立しない程度のコミュニケーション能力】【他人を見下した時に虚しくならないような立派な才能】
叶うはずのない薄汚れた願望が、かさかさと弱い音をたてながら土の上へ重なっていくのを見届けて、僕は視線を先輩の方へ戻した。幹の周りをゆっくりと回って、引っ掛けられそうな場所を探している姿が、街灯の淡い明かりでぼんやり照らされている。それに添うように移動して隣に並ぶと、先輩は一瞬こちらへ顔を向けて、そのまま何も言わずに幹へ向き直った。その横顔は、何だか少し楽しそうに見えた。
「あ、ここいけそう」
そう言って先輩が指差した場所は、樹皮が少し剥がれて、丁度ささくれだつような形になっていた。確かに、細い紐を引っ掛けるくらいはできそうだった。
先輩は指差した手を引っ込めると、胸ポケットに指を入れて、紐の着いた短冊を取り出し、樹皮にゆっくりとそれをかけた。やっぱりといっては何だけど、先輩の短冊は、僕の適当に用意したその場しのぎのものとは違って、ちゃんとしたその用途のためのものだった。
先輩のかけた短冊をじっと見つめて、僕は書かれた内容を読み上げる。
「“不安や、後腐れや、しがらみのない、そんな中退の方法を教えてください。”」
願いを読み上げた僕に、先輩は何も返事をしなかった。だからというわけじゃないけれど、僕は何となく、もう一言付け足した。
「もう学生でもないのに?」
「そういう意味じゃないよ」
思わずといった様子で、先輩が怒ったように言い返す。わかってるくせに、と呟く声が微かに続けて聞こえた。
僕が黙っていると、先輩はそこで一度大きく伸びをして、それから自分のかけた短冊を見つめて言った。
「生活からの、中退の仕方だよ」
「…………」
それは、僕の馬鹿みたいな願いに負けず劣らず、叶うはずのないものだと思った。もう、ここまで生きてきてしまったのだから。どれだけ薄い人間関係の中で過ごしていようと、積み重なった時間は細い糸なりに身体に絡みついて、手放しで逃げることをもう許してはくれない。
…僕らは一人で生きてきたわけじゃない。
それは時として、決してありがたいばかりじゃない。
かけられた短冊を見つめて二の句を探していると、先輩が僕の脇を通り抜けて、公園の入り口へ向けて歩きだした。僕はその背中を目で追いかける。入口近くの街灯の真下で振り返り、先輩は僕と目が合うと、ふわりと弱々しく微笑んだ。
帰ろっか、と先輩が言った。
そうですね、と僕は答えた。
・
帰り道、並んでゆっくり夜道を歩いていると、「もうこんな時間かぁ…」と先輩が愚痴るように呟いた。その横顔へ、視線を向ける。
目元に刻まれた隈。
くしゃくしゃになった短めの茶髪。
正面を避けるように揺れる目線。
僕が何も言わずにいると、先輩は続けて「ありがとうね、付き合ってくれて」と何だか柄にもなく、申し訳なさそうに言った。その様子を見て僕は何となく、今日はそうするべきな気がして、軽い調子で口を開いた。
「コンビニでウイスキーでも買っていきましょうか」
唐突な言葉に、先輩は数瞬きょとんとして、それから意味を理解したのか、嬉しそうに笑って言った。
「私、梅酒がいいなぁ」
何かを願ったところで、叶うわけじゃないこと位、もうとっくにわかっていた。
けれど、願うための行動自体は、どうやらまるっきり無駄でもないらしい。
ならそれでいいと、僕は思う。
もう、叶わないと知っている。 ふゆむしなつくさ @KinoAmehito
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