第26話 誇りは我が剣先に
バン、と軽いとは言い難い音がして、アシュの体が横に泳ぐ。
意識が遠のき、黒いものに呑み込まれる。
かと思えば、いつの間にか力強く踏み出されていた右足は地面を蹴り飛ばす。
人ではありえないほどの速度。
星を置き去りにする程の速度。
それは弾丸の効果だろうか。
景色が流れ、体が空気に解けていくような、そして自分が空気になったかのような一体感をアシュは感じた。
自らが風自身になったかのように体が軽い。
何も障害に感じない。
風圧や重力、自らの肉体という軛を解いて、真に解放された気がした。
ただ、驚天動地し、疾風怒濤の如しとでも言うべきその速度を持ってしても橘はそれを認識してしまう。
(ただ殴りかかってくるだけか?速度は中々だが、躱せなくはないしな。躱すか。それとも魔導障壁にぶつけて戦闘不能にするか。…よし、魔導障壁貼ろう。なるべく威力を殺して死なないように。これで終わってくれればいいが)
どのような速度を持ってしても何の変哲もないただの拳では橘の守りは突破できない。
身を引こうとしている橘はアシュの手が光り輝くのを目撃した。
アシュは目の前の橘に必死で何も違和感を抱いていない。
その瞳は迷いなく橘を打倒することに向けられている。
橘から薄紫色のマナが湧き出て、目の前に長方形で厚さ10センチ程はあろうかという半透明なバリアが瞬時に形成された。
アシュの光り輝く手から光が分離し、次第に形を成していく。
長さは70センチ程で、真っ直ぐな筒状の物体。
その正体は──。
(──鉄パイプ?シーナとか言うやつからの転送か?なにか特別な──まさか!)
橘がそこに辿り着いたのは野生の勘だろうか。
それとも長年
障壁を更に厚くする。
今出せる限界の限界のその向こう側。
死力を尽くした未来の向こう側。
だがそれでも───。
鉄パイプを握って居るということすら認識の片隅にしかないアシュは大した疑問を抱かずそれを横凪に振り抜く。
轟音も、閃光も、特殊能力も何も無い。
ただの一振。
型もへったくれもないただの横凪だった。
瞬間、世界から音が消えた。
次に世界から何もかもが消えた。
空気が、色が、遠近が、光が、時間が、生物が、自我が、匂いが、全て無に還る。
───全く足りない。
空間が軋む。
空間が軋むのを肌で感じる。
大きな存在が近くにある。
一番最初に感じたのは恐怖。
ついで、悟り、諦め。
それを皮切りに急速に知覚できる情報が増えていく。
まず耳鳴りがすること。
そして五体満足なこと。
さらに危機が目前まで迫っていること。
業物で刺されたかのように肌を悪寒が突き刺す。
ぶわっと全身の血が引いた気がした。
きっと引いた気がしただけだ。
そんな時間はない。
体感時間が伸びて、伸びて、間延びして一瞬の猶予を永遠に変えていく。
このまま走馬燈でも見るのだろうか。
それすらも面倒くさい。
終わりは呆気なく終わって欲しい。
やり直しの機会なんてない癖に、夢ばかり見せられるのはうんざりだ。
過去を思い出したら、酷く死にたくなる。
それに、ここで後悔するのなら最初からこんな所にいやしない。
流されるがままでいいと決めたのは自分だ。
振り返ったってろくな人生がある訳では無いし、未練も──。
(──香澄)
体が熱を発する。
「───────────!!!」
喉が咆哮をあげる。
意識したわけじゃない。
ただ、あの子のことを考えると、自然と出てきてしまっただけ。
耳鳴りがして何も聞こえないけれど、確かな咆哮だったように思う。
出会ったのは彼女が五歳で、自分が10か11くらいのときだっただろうか。
寂れた山奥の一軒家で乾いた母親の世話を必死にしていた姿がまだ脳裏にこびりついている。
健気に、自分が麓の村人達から恐れられていることも知らず、ただ義務のように動かぬ骸の世話を続けていたあの子。
ニコリと笑い、何度でも無垢な目でダメな自分を肯定し続けてきたあの子。
両親の墓に手を合わせたり、一緒にケーキを作ったり、二人揃って恐れられたり楽しい思い出を共に紡いだあの娘。
こんな一生も悪くは無いと思ってた矢先にアイツが来た。
死にたくなかった。
死なせたくもなかった。
ただ二人で静かに暮らせればよかった。
しかし、逃げることも叶わなかった。
だから今、ここにいる。
どちらかと言うと、理想的だ。
自分にとっては。
実力もあったし、適性もあった。
生きる指標もひとつから二つへと増えた。
彼女のことも上へ無理を言って残してもらっていた。
自分を半ば生贄にすることであの子を守ることが出来ていた。
しかし、ここで勝負に負けたら、あの子の沙汰は決まってしまう。
あの方も、そこまで温情はかけないだろう。
そういう契約だし、お互いさまだ。
自分だってあの方の目的のために香澄を捧げろだなんて言われたら拒否をするだろうから。
良くて幽閉、実験動物にされればまだいい方。
そんな沙汰が待っている。
ここで勝っても自分がいなければきっとあの子は目的を見失って彷徨ってしまうかもしれない。
それは、言い過ぎだろうか。
自惚れだろうか。
ここであの子だけが戻ったら組織は彼女を終了するかもしれない。
失ったものの責任を取って。
彼女も抵抗しないだろう。
維持コストも嵩むし、アレもある。
「─────、────!」
「 !!!」
抵抗虚しく、切り裂かれる感覚。
四肢が悲鳴をあげ、心が悲鳴をあげる。
いやだ、面倒くさいなどと普段なら口走っていただろう。
それは浅はかなプライドを守るために己につき続けてきた嘘ではないのか。
まだ頑張れるのに諦めるための口実なのではないのか。
醜いプライドに見える自分がいる。
まるで親と逸れた子供のようだ。
物語る大人を真似るように。
嘘を吐き続けて、自分を騙す。
他者を騙す苛烈で壮大な嘘ではなく、コクリ、コクリ、と船を漕ぐように緩やかなうたた寝の中で生まれた小さな嘘。
偽りの
嘘をつき続けたらいつしか本当になってしまいそうで、怖くて、でもそれが理由になりそうで。
何も出来なかった。
彼女との関係を変えることも、彼女の身の周りを変えることも。
彼女の失望が何よりも恐ろしかったけれど。
─────────。
熱が痛みに変わり、痛みが虚無に呑まれていく。
────。
きっとこれは頑張って来なかったツケだろう。
まぁ、自分ではこんなところだろう。
いい塩梅だ。
無力な自分はこれしかない。
全ては彼女に掛かっている。
「(香澄、あとは頼んだ!…絶対に──)」
いや、でも、まだ諦めるには早いか。
知覚したと思ったら何処かに引きずり下ろされる。
引きずり下ろされる度に、また上がろうと足掻く。
夢と現との狭間を揺蕩う度に、黒と白とがせめぎ合う。
不意に、右手の感覚が生まれた。
次第に、持っている鉄の冷たい感触と、体の感覚も戻った。
その後に時が正常に戻り、次いで音が再生する。
(何、が…)
右手を見てみると、いつぞやの鉄パイプ。
今まで持っていなかったはずだが。
アシュは特に違和感を感じなかった。
これは自らの手の中にあるのが相応しいと、そう思った。
手の中でどこか高貴に輝くそれは【聖剣】と呼ぶに相応しい雰囲気を纏っていた。
見た目はただの鉄パイプであるが。
何となく、頼もしい。
拳銃というちっぽけな武器もアシュには頼もしかった。
頼もしかったのだが、今手の中にあるこれには劣る。
何故だろうか。
普通鉄パイプなんてものは拳銃よりも武力では劣るだろう。
しかし、安心感は鉄パイプの方が上だなんて。
「すごい…これが聖剣の本当の力…」
後ろにたっていたシーナがポツリと呟く。
その視線に釣られて正面を向いてみると…。
怪獣の熱線でも浴びたのかというほどの破壊痕。
空の大きな雨雲も、まるでモーセを前にした海のように割れていて、青空が覗いている。
振り抜いたアシュの方が余程の衝撃を受けている。
夕焼けが鬼哭啾啾たる破壊の爪痕を明るく照らす。
「これを、僕が?」
敵に宋襄の仁はいらないとばかりに徹底的に痛めつけている。
いや、痛みを感じる暇すらないのかもしれない。
この鉄パイプに意思があってこうしたのなら、アシュは激しく責めたてただろう。
曰く、ここまでやる必要は無いだろう、と。
それに対してこの鉄パイプはかの子魚の如く「恥を明かにし戦を教えるは、敵を殺すことを求めることなり。傷つくも未だ死に及ばずんば如何ぞ重ぬること勿んや。若し傷を重ねることを愛せば、則ち傷つくること勿きに如かんや。其の二毛を愛せば、則ち服するに如かんや」と言うに違いない。
結局救えない命があった。
どれだけ奔走しても道が交わらない命があった。
その命に自らの手で引導を渡したアシュは、軽い嘔吐感を覚える。
眩暈がして、フラフラとして、とても立っていられずに倒れ込む。
それをすかさずシーナがキャッチし、支え、囁く。
「ありがとう、そしてごめんなさい。アシュのおかげで全てが終わった。…失われた命は、きっと救われることを望んでいなかった。あれで良かったのかもしれない。あなたは、間違っていない。勝者として権利を堪能するべき。でないと敗者に失礼」
そう囁きかけられて、人の命を奪ったことに対する嫌悪感よりもアリスを取り戻したんだという実感と安堵感が巨大化した。
その幸せに悲劇は誤魔化されるようで。
しかし、抗い難い感情の畝が押し寄せてくる。
「全て、終わった…?アリスッ!」
アシュは優しく横たえられていたアリスを抱き起こす。
軽く揺すって見るが、寝ているのか、気絶しているのか反応がない。
「とにかく、無事でよかった…」
脳裏を掠めるのは日記のこと。
それが無貌の形をとってアシュの脳裏を引っ掻き回す。
恐ろしい、けれどその正体が見えない恐怖にアシュは翻弄されていた。
それがアリスの綺麗な顔を見ると、晴れていった。
傍に膝を着いて安堵の息を吐いているアシュは、その姿を微笑ましく見守っているシーナは気付かなかった。
決して何も終わっていないということを。
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