景星鳳凰

第19話 How naive you are

一人の、明日を願った少年。

学び舎に行きたいという、誰でも享受できるような普通の、ありふれた、それでいて叶えることが難しい願いを抱えていた少年。

数学すらろくに出来てないなど、そんなことはどうでも良くて。

ありふれた日常というものは薄氷の上に立っているとも知らずに、ありふれた物を望むなどと世間知らずにも程がある。

そんな世間知らずな少年の命は、もうない。

世界のほんの一部、社会の仕組み、人の表裏すら知る間もなく、この世を外れて行った。

そんな少年の無念が綴られた筈の日記には悔し涙の染みはあろうとも、怨恨の言葉は無く、ただただ悔やみと謝罪が書かれていた。

届かぬままの窓の外の景色を一緒に歩めない事への悔いと、約束を破ってしまったことへの謝罪。

そして贖罪が無いことへの苦しみ。

だが、彼の求める景色未来の為に彼は躊躇いなく命を投げ出した。

美しい死に様と言えるだろう。


「こんな…こんな事が…あったなんて」


アシュは尚更烏滸がましいと思い直した。

確かにアシュは皆から慕われていた。

愛されていた。

しかし、それですら彼の齎した成果には及びつかない。

彼が拾いきれなかった残された者たちの心の支えになろうなどと。

それで自分はアシュだなんて。

とても今の自分には言えそうにない。

ならば──。


「彼のやりきれなかったこと、やらなきゃね」


日記の涙の染みを色鮮やかな景色思い出に変えるために。

書きかけの日記の続きを綴ろう。

例えそれが極端なマキャベリズムであろうとも。

自分の生き方に狐の狡猾さも、獅子のような勇猛さも必要だとマキャベリが言うのなら。

誰でもない彼は何にでもなれる。

















元アシュの部屋で日記を捲っていたアシュは日記を机の引き出しにそっとしまうと、日記の余韻を反芻しながら階下へ降りていく。

下駄箱のようなものに入っている靴を見てみるに、どうやらアリスはまだ帰ってきていないらしい。

今なら、アリスがいない今なら、あの話ができるだろうか。

を。

狂花はアシュが帰ってきてから未だリビングルームで寝ている子達の世話をしているのだろうか。

話をしようとアシュは思う。

そう思った途端から少し、ドアノブを下げる手が重い。

彼の苦悩を打ち明けていいものか。

彼の苦悩を受け止めきれるのか。

しかし、黙秘するのも如何なものか。


「あれ?いない…のかな」


リビングルームには掛けてあったであろう毛布が床に落ちていた。

寝ていた子は慌てて起きたのかぐちゃぐちゃになっている。

アシュは屈んでそれを拾うと小脇に抱えて片付ける。

窓から見える外の景色は、茜色は完全に窓枠から追いやられ、明るい夕日を覆って泣き出した雲ばかり見える。

ゴロゴロと雷もなっている。


「アリス…どこいったんだろ。みんなも」

こんなに土砂降りなら、まず外に出ようとは考えないだろう。

もし狂花が車で迎えに行ったのだとしても十数人の子供たち全員を連れていく筈がない。

こ何気ない事をしていると、考えてしまう。

妄想が妄想を呼ぶ。


(なんか嫌に静かだな。なんで誰も居ないんだろう。ホラー映画とかだと雷がなって…。あれ??一体、いつの記憶…なんの作品ッ!)


頭痛がした。

そして、背筋に冷たい吐息をかけられたような、全身の血が引いたような気がした。

悪寒が身体を引き裂く。

悪い予感だけが先行して、身体が追いつかない。


「な、なんか怖い…なぁ…」


ドアに目をやると、向こうからやって来る人影がひとつあった。

その人影はドアをゆっくり開ける。

ギギィ。

古びた木製のドアの音が恐怖を掻き立てる。

何故こうもイヤにゆっくりした開閉なのだろうか。

ドアが半分開く。

ジーパンのような物が見えた。

ドアが半分以上開く。

小柄な背丈だということがわかった。

ドアが──全て開く。


恵夢えむ…?どうしたの?顔色が悪いよ」

「アシュ…お兄ちゃん……。どうしよう!アリスお姉ちゃんが!」

「ええっとアリスがどうかしたの?」

「どうしよう!アリスお姉ちゃんが!連れ去られちゃう!」

「待って、待って。一体どういうこと?」

「夢を見たの。変な怪物の中にアリスお姉ちゃんが入っていくとこ!連れ戻さなきゃ!いなくなっちゃう!暗いとこにいなくなっちゃう!」

「そっか。それは怖かったね。大丈夫だよ。こんなに雨も降ってるし、もうアリスは買い物から帰ってくるよ」


アシュは所詮夢のことと片付けようとした。

酷い雨の中みたただの夢だと。

しかし、恵夢にはそれが不満だったようで。


「ただの夢じゃないもん!私の夢はいつも叶うの!ケーキ食べる夢も、他の子が熱が出る夢も、先生が靴を買い換える夢も、アシュお兄ちゃんが帰ってくる夢だって。全部見たし、全部本当になった!だから全部本当のことだもん」

「そんなこと…まさか、予知夢!?」

「だから、早くアリスお姉ちゃんを連れ戻さないと!」


まさかのカミングアウト。

想定外の事態に、アシュは狼狽する。


(まさかそんな…いやでも、僕達は現実乖離性症候群…僕のこの力が本当にあるのなら、こんな力より、余っ程ある可能性がたかい。予知夢…魔法…魔法があるなら有り得る。そんな変な世界なら!じゃあどうする。…くそ!行くしかない!)


焦った頭では動揺して正常な判断能力を欠く。

混乱した頭で、問う。


「恵夢。先生はどこに?」

「このことを伝えたら、アシュお兄ちゃんに話すようにって。車で迎えに行った…けど」

「そっか。他のみんなは?」

「みんなは…下に。地下にいるよ」

「地下…?」


地下に何があるのだろうか。

きっと大勢が一箇所に集まれる避難所的な何かがあるのだろう。


「先生がそこにいろって」

「わかった。じゃあ僕もアリスを迎えに行くから。絶対、地下から出ちゃダメだよ。…春樹にみんなをよろしくって言っておいて」


狂花が何を考えているのか、地下にいる意味は分からないが、分からないからこそその判断に従うことにした。

恵夢に春樹への伝言を託すとアシュは靴を履き、玄関のドアを乱暴に開けて降りしきる雨の中を駆け出していく。




















暗いビルの中で、色とりどりの傘さして歩く雑踏を見下ろす二つの人影。

研究者と思わしき二つの人。

片方は藍色の髪と凶悪な人相、鼻には傷痕の男。

もう片方はくすんだ緑色の髪に眠そうな目をした男。

二人の視線はずっと先に向けられているが、果たしてどこを見ているのか。


「んで?今回の作戦の首尾はァ?確かァ作戦担当はァガァンマァだァろ?」

「上々です。それに今回は干支ではなく災悪の数字ナンバーズを投入してますから。新人が一人いるとはいえ、大丈夫でしょう。それに深層護送アンダーテイカーもついていますし」


災悪の数字ナンバーズ

それはこの月夜野財団が持つ異常物体や人物を保管する施設の中でも特に危険度の高いもの達に付けられた総称。

科学でも魔法でも魔術でも異能でもない異常な力。

それを振るうもの達である。

深層護送アンダーテイカーというのは収容施設の深層に災悪の数字ナンバーズを収容するもの達である。

深層は全部で5層。

つまり深層護送アンダーテイカーは五人いるということだ。


災悪数字ナンバーズねぇ。ま、あァそこかァら出ァしても大丈夫なァ奴なァんだろうがァ。…もし暴走したァらァ終了しろ。……ところでそれぞれどいつを出したァんだァ?」


災悪数字ナンバーズを収容する関係上、深層護送アンダーテイカー災悪数字ナンバーズよりも強い。


災悪数字ナンバーズはレベルV【霧の魔女】レベルⅢ【多頭類】レベルⅣ【筋肉の可能性】、深層護送アンダーテイカーはレベルⅣ【橘 梅終】を投入しました」


くすんだ緑髪の眠たそうな男は手に持っていたバインダーからいくつかの資料をクリップしたものを取り出して、狂助に渡す。

それをペラペラと捲り


「そんだァけ投入すんだァ何としてもを奪還しろよ」

「ええ。元はと言えば全て我々の物ですからね」

「個性がァ開花ァする前に奪わァれたァのはァ痛ァかァったァなァ。誰がァどんなァ個性がァどのように使ァえるかァわかァんねぇかァらなァ。どぉやらァ一人、死んでも蘇る個性らァしいしなァ」


青髪がどかりと高そうな椅子の背もたれに体重をかける。

くすんだ緑色の髪の男は資料を抱えたまま話しかける。


「そういえば、主任。ベータの件で報告が」

「あァん?」

「まず、捕まっていた者たちの約九割が拘留所から姿を消していました。その中にはかなりの実力者もいて…残りの約一割は始末しました。ですが九割の人員の場所は不明です」

「あァ?拘留所にいねぇだァと?実力者がいるって話だァから…逃げたァのかァ?その九割はァ」


青髪の男が驚いたように椅子から身を乗り出す。

それに対してもう一方の男は表情一つ変えない。

既に知っていたと言うのもあるが、多分男の予想通りの展開なのだろう。


「そうかも知れません」

「ンー。逃げ出ァしたァんなァらァあァっちはもっと騒いでそうなァ気がァするがァ。そこんとこどうなァんだァ?」

「それ以外は特に不審な点は何も報告されていません。もしかしたら、公には出来ないので幹部にしか情報が行かず、末端は何も知らないという事も考えられます。所詮忍び込めるのは末端までなので」


その言葉を聞いてクルクルと椅子を回しながら頭を人差し指と薬指でトントン、と突く。

それから両手の指を合わせて親指に顎を乗せる。

きっとそれは彼が深く思考する時の癖であろう。


「なァんかァ妙だァなァ…アァイツらァがァ本格的に乗り込んできたァらァ対処のしようが無ェ。かァと言って転用したァ兵器でなァんの訓練もなァしに迎ァえ撃ちゃ、こっちがァ自爆くらァってお陀仏だァ…どうしたァもんかァ」

「でしたらこれをお使いになっては如何です?」


そう言ってくすんだ緑色の男は床に置いてあったアタッシュケースから一つの注射器を取りだした。

数は全部で五本。

容器の中はピンク色の液体で満たされている。

その液体は時々、仄かな光を放ち、ずっと中心に向かって渦を巻いている。


「まァさかァ完成しやァがァったァのかァ!541番の!」

「ええ。獣の膂力でも人の叡智でもない。第三の力」


アタッシュケースの中の左端の薬品をひとつ掴み取ると、差し出された注射器を躊躇いもなく、自らの右手に押し付け、青髪の男は立ち上がる。


「急いで暇なヤァツ集めろ。一日でモノにする」

「了解しました」




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