第15話 捲土重来
死蠟が柔肌に触れる感触はなんとも言い表せない気持ち悪さを持って終わった。
痛みの指数と言うよりも、大きいのは不快指数なのではないかとアシュは思った。
その後の検査も痛いということはなく、変な紙切れを当てられたり、体が光に包まれたり、変な機械に通されたりしたがなんの異常もなかった。
最後にカウンセリングを受ける時に、ついついカウンセラーと長話をしてしまったが、やることも終わったので着替えて帰るところである。
RAIRAという
といっても不満がある訳ではなく色々と有益な情報も引き出せたので、アシュとしては大満足である。
「あれ?そういえば昨日なんで犯人たちは入ってこれたんだろう」
「それはRAIRAのメイン電源が落とされていたからです。メイン電源が落とされると、応答型のすべての機能が停止します。部屋のロックもなくなり、誰でもどの部屋にも自由に入れるようになってしまうのです」
「それって…」
「この病院の関連する施設に犯罪者を手引きした者がいる、ということになります」
自らが所属する組織の失態を躊躇うことも無く、RAIRAは言う。
そこには悲哀も敵意も恨みもなく、ただただ淡々とした事務口調だけがあった。
アシュはあぁ、ここは人間らしくないなと場違いに思った。
「調査はこの国の治安部隊に任せていますが、今のところ手引きしたものの情報を掴んだ形跡はありません」
「そうなんだ」
返す言葉を必要とするのかは知らないが、アシュには返す言葉もなかった。
魔法なんてものがあるのだから捜査の技術も隠蔽の技術もイタチごっこを続けているのだろうなと思いながら。
ただ、そうなんだと口から音を紡ぐだけでその音に意味は伴っていない。
半ば反射のように口から漏れ出ただけであった。
そしてアシュはなんとも言えないまま、案内された更衣室へと辿り着く。
ピピ、と電子音がして扉が閉まる。
性別が異なる人物を更衣室に入れないための措置であろう。
アシュは自分が着替えたロッカーを探す。
「0927…どこだろ。1258…違う列か」
辺りを探して、徐々に奥の方へと向かっていく。
(あれ?僕が着替えたロッカーってこんな奥だったっけ)
確か入口の近くだったはずだが。
疑問を持ち始めるアシュに救いの手が伸びてくる。
サラサラとした金の髪が角からちらりと見えた。
どうやら誰か居るらしい。
(あ、あの人に聞いてみよう!)
——否、それは絶望へ叩き落とす悪魔の手であった。
アシュが金色の髪が覗いた角を曲がるとそこには前屈みになって下の方の下着を今まさに履き替えようとしているアリスの姿があった。
白磁のような肌が惜しげも無く晒されている。
アリスはこちらの姿を認識すると、次第に林檎のように真っ赤になる。
羞恥が臨界に達している様だ。
前屈みになっていることでキャミソールと肌の僅かな隙間が——衝撃。
「このォ!ド変態!」
——衝撃。
強烈な回し蹴りがアシュの下顎を襲う。
半ば放心、もう半ば見蕩れていたアシュに避けるすべはない。
「ぶへらっ」
火事場の馬鹿力なのか、それとも理外の支援なのかアシュは数メートル飛んでロッカーに叩きつけられる。
思わず変な声が喉から漏れでる。
そんなアシュにアリスが責め立てる。
もちろん恥部は隠しながら。
「ほんとに、本当に馬鹿ですか!?お前は!なんで女子更衣室に居るんですか!?」
「ご案内致しました」
「じょ、女子更衣室!?なんでそんなところに!?」
「ご案内致しました」
「だから何故ここにいるのですか?!」
「え、いや僕はRAIRAに案内されただけで」
「アシュさん、眼福ですね」
「なんで女子更衣室に案内されるんですか!?」
「それがアシュさんの望みだからです」
「し、知らないよ!考え事してて、よく見てなかったんだ。こ、故意じゃない」
「深層では思っていました」
「アシュ、見ましたね!?」
「見ました」
「いや、その、はい。み、見たかも」
嘘をつくと酷いことになると悟ったアシュは正直に告白する。
「……」
「……ッ」
「——それで?」
「そ、それで?」
意外な一言に硬直するアシュ。
また強烈な飛び膝蹴りが飛んでくると身構えていたのに、まさか飛んできたのは言葉の催促。
どう返せばいいのかと言われたらアシュはこういうしかない。
「アリス、その、ご、ごめんなさい」
「——それで?」
「え、えぇ?」
正しい選択をしたと思ったのにまた催促が飛んできた。
どうやらアシュの謝罪は女神様のお眼鏡には叶わなかったらしい。
しかし、無辜の少年を救いあげる手はひとつではない。
「(推奨:女性の裸体、またはそれに準ずるものを見た時はしっかり、はっきりと謝罪し、体が美しいと褒めちぎると良いでしょう。リピート:『君の体は美しい。まるで天使のようだ』)」
「(そんなこと言ったら間違いなく殺される!)」
あまりにあまりな解決法に目を剥くアシュ。
そんなことを言う胆力も気障っぽさも生憎とアシュは持ち合わせていない。
「…はぁ。やっぱりお前は…と変わらないですね。…そこが憎たらしい」
あんな事から暫く経って、心は落ち着いてもやはり、心に巣食った不安は消せない。
否、時間とともに胎動を始めるのだ。
その不安の種は。
アリスはまだ少女だ。
そんな小さな子に何を求めるというのだろうか。
彼女はきっと踏み出せないで居るのだろう。
きっと認めたくないのだろう。
彼が居なくなったということに。
踏ん切りをつけたつもりでも、ふとした瞬間に、ありふれた仕草に彼を見いだして、いつの間にか彼の姿を重ねている。
諦めたのに、諦めきれない。
もし、アシュがここにいるというのなら記憶の中の彼はアシュに
そんな事、彼女は許容できないのだ。
大切な記憶がなくなってしまうことへの焦燥と怒り。
だからこそその憤りが
「アリス…。僕は諦めないよ。僕はアシュだ。君と一緒に明日を夢見るアシュ。君の傍にいたい、君の家族のアシュだ」
「でも、お前は!アシュにはなれなかった。そうでしょう?いいんですよ…もう、アシュは…。お前は、アシュにはなれっこない。知らない人間に成り変わる事なんてできないんです…」
そこには糾弾があった。
そこには懺悔があった。
それは世界に対しての怨嗟であり、自分に対しての失望であり、少年に対しての憂いであった。
祈るように胸の前で手を組んで、きつく、きつく指が柔肌に食い込むほど握りしめる。
それは酷く辛いことのように思えて。
その手を、アシュは包み込む。
「なれなかったから、なりたいんだ。できないって思うけど、やりたいんだ。君がしてってお願いするわけじゃない。それに、これは誰かにお願いされるようなことじゃない。僕なりの、結論なんだ。考えて、考え抜いてみたんだ。目の前の泣いている可愛らしい女の子に僕は何をしてあげられるのか。そして何をしてあげようって思ったのか。僕は、君を、そしてあの子たちを幸せにしたい!そのためならどんな困難だって乗り越えてみせる」
その様は言葉で言い表せば、失敗をものすごい勢いで巻き返す、まさに捲土重来を期するということなのだろう。
しかし捲土重来などものともせず、絶望は背後に忍ぶ。
「困難なんて!乗り越えられるわけがない!アシュではないお前には!弱い人間なんて…みんな!困難なんて乗り越えられっこない!」
「できる!どんなに弱い人間でも、願いは叶えられる」
「どうしてそんなこと──」
「──僕が、アシュとして目覚めたから。きっと僕がここにいる理由は──その為なんだ。どんな困難からだって守るために僕は存在する。だからさ、頼ってよ。何も知らない僕でもお前なんて弱いって言わないでさ。頑張るからってしか今は言えないけどさ。きっといつかこんなこともあったねって笑い合えるような未来を創りたいんだ」
「未来なんて…!誰かが欠けた未来なんて!楽しいはずがない!見たくない…見たくないの…!アシュが欠けた未来だなんて!」
「楽しい!楽しいって言わせてみせる。僕が彼の代わりになる。足りないって思われないような素晴らしいアシュになる!それに、アシュさんが見れなかった世界を伝えてあげればいい。あなたがいない世界でも楽しいことはありますって。絶対、アシュさんもそっちの方が喜ぶと思うよ。自分の死ばかりに囚われて人生を歩めないでいるアリスを見ているより、ちゃんと受け止めてそれでも未来を生きていくアリスの姿を見る方が嬉しくなるよ。もし、それでも誰かがいないような不確定な未来に、絶望で塗りつぶされて踏み出すのが怖いなら、手を繋ぐから。一緒に歩こう?アシュさんの目指した景色まで」
「アシュに…?でも、私は忘れたくない。それにお前では…」
「忘れないさ。僕も、彼と同じ景色を目指すから。アシュさんに恥じないように。僕が、君を守るから──」
アシュになりきる。
それが、どれ程難しいことか。
アリスは思う。
これまでのことを。
目覚めたと勘違いして、罵声を浴びせて、突き放して。
一人の少年に、大変な重みを背負わせてしまった。
後悔して、懺悔した。
その酷い行為に。
それでもその少年は構わないと。
積極的に荷物を背負う。
嘗ての憧れが、今に重なる。
なぜ、こうも彼とアシュとを重ねてしまうのだろうか。
『「どうしたの、アリス?」』
手を差し伸べるその優しい人は、二人いた。
嘗ての無邪気で、少年よりも少し高い声。
今の、弱気ではあるが頼りになる声。
重なり合って響くのは愛しい声。
突き放しても、何してもやはりアリス彼を意識してしまう。
手を差し伸べるその人が二人に増えて。
朧気な人物像が今、線を結ぶ。
一人は目の前の少年、一人は、やんちゃな人に。
その象も涙で濡れて、霞んで、ボヤけて行く。
消えそうになった線が、重なり合わないはずのふたつが、ボヤけて、重なり合って、やがて一人の少年になる。
いっその事忘れてしまいたい、それでいて、忘れてしまうはずも無い景色を彼の背に見る。
あぁ、寂しかったのだなとアリスは思う。
彼が居なくなって、彼の場所に別の誰かが立っていた。
それが許せなかった。
でも、彼は彼で彼ではない。
だから当たり散らしてしまった。
でも彼に──アシュに非はない。
面と向かってさよならは言えなかったが、新しい出会いはあった。
彼がアシュになろうとならまいと、アシュのような優しさは確かに彼の中にある。
どちらでも、惹かれてしまうだろうな、と思いながら。
アシュに体を預ける。
新しい出会いを歓迎する前に。
──今はただ、彼を亡くしたことを嘆いていたい。
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