第12話 神田孤児院

都会の喧騒も遠く、二人だけの世界が訪れる。

世界から隔絶された空間にいる。

人目を憚らずに──というか必要が無い──抱きついて、抱きつかれて、慰めて、慰められての表面では決して見えないやり取りを交わす。

でも人目につかないからと言っていつまでもそのままでいる訳にも行かない。

この体勢が嫌かと言われたら、アシュは嫌いではない。

でも続けていようという気よりも気まずいという思いが勝った。


「ねぇ、他の子はどこにいるの?…というか、ちゃんと合流できたかな」

「アリスおねぇちゃんのこと?それならみんなと一緒に院長先生のとこ!のどかと一緒にいこ!」

「うん。のどか、…行こっか」


思わずちゃんをつけてしまいそうになったが、思いとどまる。

変にできた言葉の隙間を上手く誤魔化す。

アリスの言葉を思い出してみればアリスに対してもタメ口だったようだし、ちゃん付けはおかしい気がしてやめた。

そもそも住んでいるのが孤児院なんて話だし、家族に他人行儀はおかしい。

孤児院なんて訪れたことがないから正確なところを知らないが、まさかそこまで冷え切っている訳では無いだろう。

こうして迎えに来てくれる家族がいるわけであるし。

手を繋ぎながら、これから大変だぞと思っていると。


「アリスおねぇちゃん…とっても悲しそうだった。のどかも悲しかった。…もう居なくならないでね…?」


アシュの瞳を覗き込んでくる瞳は微かに濡れていた。

その姿が酷く哀愁を誘う。


「うん。大丈夫。もう居なくならないよ」

「アリスおねぇちゃんがあんなに泣いてるの、おばけを見たって時とアシュあにぃがいなくなった時くらいだよ?注射のときもぜんぜん痛がらないのに!ダメだよ!泣かしちゃ。のどか怒っちゃうよ!」

「それは勘弁して欲しいなぁ。…これからはみんなを笑顔にするために頑張るね」

「よろしい!」

「あはは、やったぁ」


何気なしの会話でも貴重な情報の入手手段だ。

真剣に話さなければいけない。

のどかはあんなにも楽しそうに、話しているのに──アシュは気を引き締め直す。

これは自分で選んだことだ。

何かのせいにしてはいけないし、何かのせいではない。

楽しそうに話していることを利用するようで気が引けるが、仕方ないと割り切るしかないだろう。

しかし、こんなこと以上に、彼女を傷つけるだろうから。

あとからこの行為の真意を知ったら一体どうなるのだろうか。

アシュになれなかったらどうするのか。

無数の不安もしもが頭を過る。

その不安をかき消すように力強く足を踏み出す。

青空の下を片手に花を持ちながら、歩いてゆく。

病院を通り過ぎて、交差点の通りを左へ。


「のどか、もしかしてこんな距離を一人で歩いてきたの?」

「え、?あ、ごめんなさい。さっき、アシュあにぃが目覚めたって聞いて」

「…アリスが?」

「うん」

「そっか」


意味深に、短く、そうとしか答えられなかった。

またあの記憶が呼び起こされる。

酷い裏切りをしてしまった記憶を。

彼女があの後、自分のことを何といったのか気になる。

自分が目覚めたと言った時の心境はどうだったのか。

それを聞いて駆け出したのどかを見た時に、どう思ったのか。

きっと複雑な心境に違いない。


(早く、謝りたい)


そう思う心に裏はない。

ただ純粋に彼女に辛い思いをして欲しくはないのだ。

泣いている顔を拭って、笑い合えるような日々に。

そう思っている間に、大通りから外れて、住宅街のようなところまできた。

そうして、そう遠くない建物の前に人垣ができている。


「あ、みんなだ!」


のどかが嬉しそうに走り出す。

おもちゃを自慢するような子供らしい表情で。

そして、泣き出しそうな顔で。

手を繋いでいたアシュはそれに引きずられるように走る。

まだ、心構えができていない。

どのような表情で、会えばいいのかわからない。

アリスにも、どんな謝罪をするべきかもわからない。

ここにきて、正直わからないことだらけだ。

でも、不思議と緊張はない。

緊張なんてないんだと言い聞かせ、心が揺れ動くことを叱咤して、奮い立たせる。


(こんなことじゃ、アシュにはなれない!僕は、!なれるのならなれないままでは


それは崇拝に近かった。

こうあって欲しいと、見たこともない他人への理想の押し付けであったかもしれない。

目指すべき、越えるべき憧憬として高くすることで自身に苦行を強い、罰するかのような。

歪な、それでいて気高い志。

決して揺らぐことのない意志。


「アシュあにぃが帰ってきたよ!」














人垣ができている建物は【神田孤児院】という看板があり、驚きをあらわにしている大人——孤児院の経営者であろう——が一人と、アシュより小さい子供たちの姿があった。

ガヤガヤと「帰ってきた」「アシュにいちゃんが帰って来た」などとお祭り騒ぎ。

その場を回ったり、突然泣き出したり、手を振って来たり。

十数人の子供たちがてんやわんや。

そこには【アシュ】に対する尊敬や信頼や愛などが詰まっていた。

本当は向けられるはずのない人物であるのに、その感情のうねりに泣きそうになる。

少年少女たちは「おかえりなさい!」と唱和した。

しかし、鋳溶かしたような金色の髪の少女の姿はなかった。

彼女がいてくれれば、どれだけ嬉しかった事か。


「アシュ、よく無事で帰ってきましたね…。いまだに、信じられません。…顔をよく見せてください。もう一度、みんなに」


そういって男性は屈む。

男性はさっと手を広げる。

どうやら来いといっているらしい。

アシュは戸惑いながらもその抱擁に包まれる。


「あぁ、アシュだ。本当に、お帰りなさい。あなたの、みんなの家、神田孤児院へ」


泣き笑いのような、喜怒哀楽では到底表現できないような複雑な感情がそこにはあった。

抱擁されて、そんな感情を向けられて、アシュはくすぐったいやら照れ臭いやらで何も言えなかった。

周りの子供たちは、その光景を見て、口々に「あ!先生ズルイ!」「私もギューってする!」「アシュ兄おかえり!」といってワラワラと集まってくる。

アシュに向けられる愛情が痛い。

やはり、アシュはとても慕われている。


「みんな、ただいま」


子供特有の暖かさと、水を詰めた皮袋のような柔らかい感触。

子供たちが大きなうねりになって誰かがアシュを触り、アシュもまた誰かを肌で感じる。

それから幾許の時間の後、パンッと手を叩く音。

みんなが音のした方を向く。


「はい、それぐらいにしてみんなそろそろ帰る時間ですよ。の準備をしましょう。アリスが今、ご馳走を買って来てくれていますからね。手を洗ってご飯の準備をしますよ」


一頻りもみくちゃにされた後、先生の一言で、「はーい」と言いながら子供たちが建物に入っていったことで解放される。


「先生、ただいま」

「…ええ、お帰りなさい。そして、…はじめまして。神田かんだ 狂花きょうかと言います。ようこそ、あなたの過ごした場所へ」

「やっぱり…その、知っていたんですね。僕が、記憶喪失なんだってことを」

「ええ。時間がありませんでしたからアリスから掻い摘んで、ですが聞きました」

「みんなには…?」

「…話していません。話しては、いけないと思っています。きっと幼いあの子たちは受け止められない」


その瞳には嘘をつくことに対する罪悪感が貌を覗かせていた。

その柔和な顔に反せず、心根が優しく、それ故に傷つきやすいのだろう。

他罰より自罰を優先するような人だと言える。

だからこそ孤児院の子供たちから「先生」と親しみを込めて呼ばれるのだろう。

慕われているからこそ、素直に言うことを聞くのだろう。


「僕は、アシュにはなれませんでした。なるって言ったのに、誓ったのに…破ってしまった。彼女を裏切ってしまった。僕は、アシュじゃない」


それは告白だろうか。

それは懺悔だろうか。

それは後悔だろうか。

それは慚愧の念だろうか。

いいや、この感情はそのどれでもあり、そのどれでもない。

どう言い表してもこの感情は表現出来ない。


「僕は、魔法があるなんてことも知らなかったんですよ?記憶喪失と言っても、言葉なんかの知識はあるんです。普通はエピソード記憶、思い出とか経験とかがなくなるものなのに、なんておかしいです!僕はきっと。赤の他人なんです」

「そう、なのかもしれませんね。でも、帰って来てくれた事はとても嬉しかったですよ。みんなも、もちろん私も」


アシュには正確には分からない。

この男の人と成りも。

この男の心理も。

その言葉の裏に絶えぬ激情があるかもしれない。

後悔と恨みに支えられた感情が善の貌をかぶっているかもしれない。


「その…怒んないんですか?僕は、アシュじゃないのに。自分はアシュだって嘘をついてみんなを騙した」

「多少の嘘は方便です。それが誰かのためになる『優しい嘘』ならきっと誰に懺悔しても許されますよ。もし仮にそれが『私利私欲の為の嘘』だとしたら、誰に懺悔してもきっと許しては貰えないでしょう。誰かのためにアシュになろうとすることの何がいけないのでしょうか?」

「僕がアシュになろうとすることは止められません。でも、憎まれる、と思いました。だってあなた達はアシュと関わっていた当事者で、第三者じゃない。赤の他人から見たら正義でも、当事者の救いにならないこともあるから…」

「私は、救われました。彼であろうとする人が…彼の生き様を尊敬する人がこうして目の前に現れてくれた。彼は救われたでしょう。彼の無念は晴らされた」


何故、ここまで言い切れるのか。

気休めで言っているのか、心の底からそう信じているのか。

しかしアシュはこの温情を与えてくれた人をそんな風に思いたくない。

この人は自分を憐れんでいる、なんて思っていたって辛いだけだ。


「ありがとうございます。僕も、その言葉で、救われた…」

「タメ口でいいですよ、アシュ。いつものあなたみたいに」

「……うん」


アシュは泣いたような不器用な笑みを浮かべた。


「ところでアシュ。あなた、病院から抜け出して来たままでよかったのですか?」

「————あ」

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