第8話 重ね合わせた手
つい先程入ってきた扉をアシュは慎重に開ける。
スーッと抵抗も音もなくスライドする扉。
秀次が周りに人はいないと言っていた為その行為はいらないと思われるが、それはアシュの恐れの現れだ。
それはそうだろう。
ただの少年が先ほどまで死の象徴とも言うべき者に追いかけられていたのだ。
その恐怖は心の奥底に爪痕となって残っているだろう。
容易には消えてくれない心の
永遠に消えない噛み傷を。
刻み込んでいる。
扉を完全に開けると、鼻孔を擽るのは薬品の匂い。
長いようで一瞬の時間が、空白が、流れて、流れて、───流れ出て、アシュは動き出す。
部屋に入り直し、車椅子を押してでる。
目指すはエレベーター前。
そこに着いて乗れれば第一の関門は突破である。
エレベーターを動かす音を聞かれればこちらへ来られかねない。
だからこそ、ここら一帯から遠視によって遠ざけられたのだが、階下で聞かれ来られたらアウト。
それに、もし仮にエレベーターに乗れたとしても玄関口にいるであろう集団に捕まっても終わり。
負傷者+子供二人には難易度が高い。
きっとこの作戦は成功する確率が低いだろう。
そんな中行動を起こすなど死と隣り合わせであろう。
しかし座して待てば、ゆっくり、そして確実に死が背後から迫ってくる。
そのプレッシャーに押され、誰かがやらなければならないと知って、隣には絶対に守りたい存在がいて、君たちしかいないと白羽の矢が立ったのならば行動ぜずにはいられないほど、二人は青かった。
二人に白羽の矢を放った本人は車椅子の上で頼もしい同行者に笑顔半分、冥府への片道切符を渡してしまった事への懺悔半分という具合の顔をしている。
そんな三人は地獄への道に片足を突っ込んでいく。
地獄への道は善意で舗装されていると言う。
それは、あながち間違いでは無いかもしれない。
何故ならエレベーター前まではいとも簡単にたどり着けたのだから。
佳境に差しかかるのはこれから。
困難が立ち塞がるのはこの後。
地獄はきっとこの先に鎮座している。
その地獄とは罪人を裁く断罪の象徴としてではなく、目の前に立ち塞がる絶望としてそこにある。
彼らはありのままを不器用に継ぎ接ぎして、この地獄から抜け出し、天国に至るための蜘蛛の糸を作らなければいけない。
恐怖を律し突き進む。
エレベーターの傍のボタンを押すと、上から降りてくるようだ。
13という表示から徐々に下がっていって、七階で一度止まった。
しかしアシュたちが今いる階層は五階。
どうやら誰かが乗ったらしい。
三人は顔を見合わせる。
「魔法を掛けてみる。『
そういうと目を閉じる。
暫しの時が流れ、エレベーターが近づいてくる。
「なッ!」
目をこれでもかと見開き、驚きを露わにする秀次。
その瞬間にもエレベーターがポーン、という音とともに扉を開く。
「「ッ!」」
アシュもアリスもその異容に息を飲む。
ヘルメットとガスマスクが一体化したようなフルフェイスマスク。
それに肩に担げそうなほど大きいツインバレルの銃を持っている。
服装は防弾チョッキの様な物を着用していて性別もわからない。
少し焦げているのか、プラスチックなど無機物が焼かれた臭いが充満する。
それは先程窓から突入して来た人物の片割れだった。
不可思議な力で、撃ち合っていた危険人物の一人だ。
その人物は、エレベーターから出て、こちらに一瞥もくれずにすれ違い、この階の何処かへと去っていった。
こちらに見向きもしないという好都合に押されて、アシュとアリスは一刻も早くと車椅子を押し、エレベーターに乗り込んだ。
一階のボタンを押して、一息。
「ま、魔法があって助かった」
緊張からか、息も絶え絶えの様子でアシュが安堵する。
アリスも咄嗟に声が出ないほど安心して、豊満とはかけ離れた胸を撫で下ろしている。
秀治は手を鼻につけて何かを考え込んでいる。
下に着くまでの間、長いようで短い時間は静寂に包まれた。
「「「着いた」」」
グウンという擬音が相応しいGを感じながら、エレベーターの扉が開いていく。
昼間だというのに、窓の外から見える青空は薄くなり、太陽は陰る。
そのため、今の現状と合わさって妙な雰囲気を醸し出している。
薄暗い、物音一つ押し殺された病院は異様だ。
不気味で、押し殺した不安の萌芽が芽吹く。
人影は、ない。
三人は静寂に合わせて音を立てないように廊下を歩いていく。
進んで、曲がって、時に引き返して何とかエントランスホール付近に到着する。
エントランスは白を基調とした内部で、ここだけ切り取ればごく普通の病院だ。
右奥に受付があり、待合席が多数ある。
そして待合席の傍に両手を腰あたりに回してうつ伏せになり、無抵抗を示している人々。
老若男女問わず、すすり泣く声も聞こえた。
皆、自らに降り注ぐ不運な境遇に涙している。
そんな阿鼻叫喚な地獄に、鬼たちは闊歩する。
地獄を守護する番人ではなく、地獄を創るものとして。
その地獄の熱気は正しく喉を焼く。
焼かれた喉は、大した音を出さない。
いいや、出せないのか。
「…これは、まずいね」
「沢山、警備がいますね」
「…このまま抜けられるでしょうか?」
とアリスが言うのにも訳がある。
三人の移動速度は著しく遅いのだ。
子供だからという理由も少なからずあるが、その子供が青年とはいえ一人が座っている椅子を押しているのだ。
そんなの亀と比べたっていいレベルで遅い。
「やっぱり、二手に別れようか。僕は、もう大丈夫。いざとなればリモコンでも手で車輪を押してでも奴らから逃げ切るさ」
彼の手は包帯で覆われている。
うっすら血が滲んでいるのだが、それで押してでも二手に別れると言うのだ。
先程までギブアンドテイクで行こうと言っていたのに彼の心境に一体何があったのだろうか。
そこには、二人が関与し得ない複雑な事情があるのだろう。
そこに異議を唱えるほど、彼らは強くないし、わがままでもなく——素直だった。
「わかりッ、ました」
「気をつけて…」
「大丈夫、また会えるさ」
微笑んで、さよなら、と口遊んで角を曲がっていく。
その姿は、死地に向かう勇猛な戦士のようで。
涙を堪えて見送る覚悟をしなければならない。
その覚悟に泥を塗らないように。
引き止める資格はないのだから。
「おいッ!こっちに来てみろよウスノロども!おまえらは車椅子に乗った患者一人捕まえられないのか!?」
先程の丁寧な言葉遣いではなく、自らを鼓舞するためであろう凶暴さを伴った言葉で叫ぶ。
それと同時に血の滲んだ手で精一杯車輪を漕ぐ。
それを境にダダダダ!と乱れる靴音が響いて、その車椅子の主を追いかけて行った。
(今しかない!)
廊下の角から隠れながらエントランスを窺っていたアシュは、誰もいなくなったエントランスを見て、アリスの手を引き走り始める。
出口まで目算20メートル。
手前の椅子の群れを迂回し、人の間を縫っていく。
遠ざかって行った足音に顔を上げ、困惑している人々に構う余裕もなく、ただ走る。
出口まで目算12メートル。
「おい、動くんじゃねぇ!止まれ!」
聞こえてくる怒鳴り声。
死角になっていた部分に敵がまだ居たのか、想定外の事態となった。
だが、止まれない。
ここで止まれば全てが台無しになる。
秀次が無理してまでも作った隙だ。
目的を完遂するまでは諦められない。
その声に止まりそうになる足を叱咤して。
出口まで目算10メートル。
長いようで短い道のりだ。
地獄がすぐそこまで迫っている。
「おい、こいつがどうなってもいいのか!」
声とともに姿が確認できたのは、今までやり過ごしてきた大人たちと同じ戦闘服のようなものに身を包み、禿げ上がった頭が眩しい男だった。
人を殺してそうな眼光と、興奮しているのか口の端から涎が溢れている。
その男が片手用の銃を幼い少女に突きつけている。
そのちっぽけな道具は少女の命を奪うには充分すぎた。
少女は静かに泣いていた。
極度の緊張から、声も出ないのだろう。
アシュたちの足はそれに止められた。
出口まであと7メートル。
「おいッ!余計なこと考えんな!そこで蹲って手を後ろに回せ!」
「…ッ!」
「アシュ!言う通りに!指示に従いましょう!このままじゃ殺されてしまう!」
こちらの歩みを止めてた優越からかいやらしく口角を上げた男は命令する。
その気持ちの昂りによって引き金を引く指は軽いだろう。
(まずい…でも、僕たちが出て約束を果たさなきゃ!誰がこの状況を打開するんだ!…いや、でも…)
惑う。
少女を見殺しにして逃げるか、従順を示して天命を待つか。
二人の少年少女に託された決断は重い。
しかし、現実は非情で、時間は今、敵の味方だ。
「おい!早くしろ!」
「アシュッ!!」
急かす声が二つ。
(でも…このままじゃ…アリスは守れない!どうすれば…)
いつまで経っても固まったままの二人に焦れたのか、少女を乱雑に投げ飛ばしこちらに歩いてくる。
しかし、今この瞬間に逃げ出そうとすれば男の手の中に収まる小さな凶器は自分たちに牙を剥くだろうとアシュは悟った。
アシュの脳裏を一つのプランが駆け巡る。
(一か八か、ここに賭けるしか…近づいてくるときに、組みついて、アリスを逃す。それしかない!僕はどうなってもいいから、彼女を…。『この状況を打開する一手』を!)
そう願った瞬間に鈍い痛みが、頭に入ってくる。
一瞬ではあったが、鈍器で殴られたかのような痛みだ。
頭が陥没したかのような錯覚すらする。
頭を抑えて痛みに喘いでいると、男の背後に人影を見た気がした。
虎のような眼が一瞬アシュに向けられる。
(──…え?)
その次の瞬間。
「オラァ!」
気迫のある叫びと共に飛び上がって、鈍い光沢のある金属の棒が振り下ろされた。
それは油断していた男にクリーンヒットして男は昏倒する。
男は白目を剥き、泡を口から吐き出して、失神している。
余程当たりどころが悪かったらしい。
片手用の黒い銃が失神し、力の抜けた男の手から滑り落ち、カシャと音を響かせて床を滑っていく。
それを慌てて後ろから追ってきたオールバックの青年が回収する。
それから虎のような瞳の青年に向けて言う。
「…ったく。相変わらず無茶が得意な奴だ。まだお前病み上がりだろ。何してんだ」
「ちょうどそこら辺に鉄パイプがあったもんで。飛び出さずには居られなかった。あの子たちも危なかったし」
「まずは自分の身を顧みろよ」
オールバックの青年にそう飄々とのたまうと、アシュより少し大きな少年…いや青年だろうか?、はこちらに笑いかける。
背丈は170あるかないか。
同じ年齢の人から見たら高い方ではないだろうか。
肉付きは良かったのか、筋肉の名残りがみてとれる。
しかし何かあったのか大部分は衰えているようだ。
虎のような目は優しげに細められていた。
「大丈夫か?」
「あ、はい。助かりました」
声をかけられたことで、安心しきってしまったアシュに気づく術はない。
青年たちも背を向けていて、気づく素振りもない。
「それにしても夢から覚めたと思ったら次はこれかよ。ついてねぇな」
「魔導士でもないのにこんなことしてたら、命がいくらあっても足りねぇよ」
「でも放って置けない」
「まぁ確かに。とりあえず、早くみんなを外に…」
「──つれねぇこと言うなよぉ。少し遊んでいこうぜぇ?」
突然背後に現れたのは、頬に浅い傷がいくつも走り、やはり戦闘服に身を包んだ男。
先程の男が人を殺していそうな瞳だとしたら、この男は人を殺すことに快楽を見出していそうな狂人の瞳をしていた。
「──不味い…」
誰かが零したその言葉は、ありのまま全員の気持ちを代弁していた。
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