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手探りで壁をつたい、部屋の明かりをつけた。目覚まし時計で時刻を見ると朝の四時、まだ日も出ておらず、外も真っ暗だ。そういえばお腹が減ったし、体もベタつく。僕は帰ってきたそのまま寝たのだ。とりあえずシャワーを浴び、今日も学校があるため新しいワイシャツを着た。そしてキッチンに行って棚や冷蔵庫にあるパンやハムや納豆を適当に食べた。味はよく分からなかった。そしてもう一度寝た。次に起きた時は朝の6時で、母親には朝食はいらないと言い弁当だけ受け取って家を出た。今日もまたクソみたいな一日が始まるのだ。
あの本は決して見せず、そして学校では寝ない。この2つのことを守った今日は、いじめはあったものの前の生活に戻っただけだった。しかし家に帰れば四季が待っている。翌日も翌々日も、学校で怯えながら過ぎるのを待ち、一日の終わりには四季と遊んだ。本を読んだり、また切り札をしたり。それだけだが、地べたに這いつくばり嘲笑に耐えていた僕の生きる理由になった 。
そんな日々が当然のものになった今日。僕はまた夢から覚め、現実に絶望しながらも、それを受け入れて学校に行く準備をした。なるべく親と関わらず、周りを意識しないように、目立たないように。学校に来て机の横にバッグをかけて、席に着き本を読み始めた。そしていつものように、馬鹿どもが僕の周りに来た。
「おいオタク、お前俺の陰口叩きやがっただろ」ニキビだらけのバスケ部が不機嫌そうに聞いて来た。「舐めてんのか?」
僕が誰に何をしたとか、何のことかわからなかったが、教室の隅でいつもいじめの野次馬をしているゴボウみたいな野郎がニヤニヤしてこっちを見ていた。ああ、なるほど。あいつがけしかけたのか。やっぱり現実世界にはクソ野郎しかいないんだな。
「おい!何とかいえよ」バスケ部は必死になって僕に掴みかかってきた。臭そうだから触らないで欲しい。
「知らないよ。僕はそんなことをしていない」僕は弁明した。かなり凄まれていたから、もしかしたら声が震えてたかもしれない。だが最後まで言いきった。「その情報はガセだ。誰かがお前をおもちゃにしたんだ」
それを聞くと、バスケ部は僕を床に放った。「ケッ、冷めたぜ」そんなことを言っていた。バランスを崩した僕は椅子にぶつかって倒れた。バッグにもぶつかり中身が飛び出した。あの本はバスケ部の前に落ちた。
「何だこれ?」バスケ部はそれを持って、中身を開いた。「あ?全部英語じゃねえか」
「それに触るな!」僕はバスケ部からとろうとしたが、バスケ部は身長が高いのをいいことに上にあげて僕に取れないようにした。
「おい、そんなに大事なのか?」バスケ部はニタニタ笑いながら、それを投げて野次馬のサッカー部に渡した。「とってみろよ」
「返せよ!クソッ」僕は取り返そうとしたが、あいつらはふたりで投げて僕に取れないようにした。その間も本はパラパラとめくれて、痛みそうだった。
「ははは!こいつこんなに必死になってやんの」そのバスケ部の発言に野次馬たちは大笑いした。
僕は椅子を持ち出してバスケ部に向かって殴りかかった。何をしてでも取り返そうと思った。あんな奴に四季との日々を滅茶苦茶にされてはたまらない。走って勢いをつけて椅子で殴りかかった。残念ながら外れた。バスケ部は顔を引きつらせて「そんなに返して欲しいなら返してやるよ!」と言って窓から本を投げた。僕は急いで1階に取りに行き、地面に落ちた本を拾った。まだ授業が残っていたが校門を出た。
家まではいつものように歩いて帰った。だがいつにも増して惨めな気持ちだった。地面を見て歩いていたから周りの景色は分からない。気がついたら家の前だった。鍵を開けて家に入ると玄関で母親が仁王立ちしており、何かをヒステリックに叫んでいた。内容は聞いていないから分からない。僕は無視して自室に入り、ベッドに横になった。
しかし、横になってもなかなか寝付けずに、カーテンから漏れる光でうっすら照らされた天井を見ながらいろいろなことが頭に駆け巡った。その大半はこの世の中に対する怒りで、残りは全て自己否定だった。誰にも望まれないのなら何故自分は生きているのだろうか。僕の不幸は、元を辿れば全て親のエゴに起因する。周りに自慢するため、一時の快楽のために僕は生まれ、この十八年間苦しみ続けた。そんなことが頭の中でグルグル回り、いつの間にか眠りについた。
気がつくと、僕は和室でアリの描かれた引越し会社のダンボールに囲まれていた。ああ、片付けなきゃな。どこからか女の子の泣き声が聞こえた。僕は起き上がり、ダンボールを避けて声のする方向に向かった。障子を二回開けると縁側があった。外は雨が降っていなかったが曇りだった。ひまわりも心なしか元気がない。そして四季が、こっちに背中を向けて泣いていた。
「…どうしたんだい?」僕は四季の右隣に座り、顔を覗いた。四季の右頬には擦り傷があった。「この傷はどうしたの?」
「…村の子に…いじわるされて…」そう言うと四季は僕に抱きついてよけいに泣き出した。僕は四季の背中と頭に手を回して、泣き止むまでこうしていようと思った。しかし、何故だか僕も泣きそうになってしまった。
しばらくそうしていると、僕が慰めているつもりが、慰められているような気分になった。腕の中にある小さな熱に、必死ですがっているような気持ちになった。何故だかは分からない。ずっとこういうことを求めていたのかもしれない。そして満たされたような気持ちになった。クソったれな世界でクソったれな奴らとクソったれな生活を送ることに比べていかに今が素晴らしいか。いや、クソったれな世界とは何だ?僕はこの場所に引っ越してきて───────ああ…そうか、これは夢なのか。
なぜ今まで気付かなかったんだろうか。現実では気付いていたのに。僕の過ごしている現実は間違いなくクソったれで生きる価値はない。だが、この世界はそうではない。僕が生きている中で見た女性で最も素晴らしい四季という少女、眩しい太陽、青く澄んだ空、一面のひまわり畑、涼しい縁側、穏やかな時間、そして何より、この世界には僕と四季のふたりきりしかいないのだ。
いつの間にか四季は泣き止んでいて、空は晴れていた。目を瞑り、腕の中の温もりと日光の暖かさに浸っていると、あたりは真っ暗になり、僕は現実世界へ引き戻された。
時計を見ると朝6時だった。まだ日は出ておらず、家族も誰も起きていない。僕はシャワーを浴びて朝食をとった。昨日は混乱して確認できなかったが、今日あの本を見てみると、薄い擦り傷はあったが幸いほとんど傷はなかった。思えばこの数日間、初日以外でほとんどこの本を読み進めることをしていなかった。せっかくだからと読み始めた。とはいえ内容に変化はなく、面白い展開もない。しかし体験の記録ともとれる内容は、どうしようもなく僕を惹きつけた。
気がつくと日が昇っていた。カーテンの間から光が刺したことで始めて気がついた。僕の部屋ではない、廊下を挟んだ両親の部屋で目覚まし時計のアラームがなり、両親のどちらかが起きたらしくドアを開けた音が聞こえた。足音は僕の部屋の前で止まり、ドアを叩いた。
「あんた、いい加減にしなさいよ」どうやら母親らしい。なんとなく分かっていたが。朝から不機嫌そうな声だ。こっちまで嫌な気分になる。「予備校だけじゃなく学校もサボるなんて、どっから金が出てるの思ってんの?」そんなことを言うと、ヒステリックに叫び始めた。なんと言っているのかは分からないし聞くつもりもない。しかしドア越しでも耳が痛くなる。
これはたまらないと思い、家を出た。急いで制服に着替え、バッグの中に物を入れたが、昨日のことを思い出して、あの本は部屋の机の上に置いておいた。正直ここに置いておくのも不安だが、学校に持っていくのはもっと不安だ。僕がどれだけ傷ついても構わないが、あの本が傷つくのは避けたい。
学校までの道を歩いている間は記憶がなかった。道を体が覚えているのと、それ以外のことで頭の中がいっぱいになって、記憶なんてしている余裕がなかった。昨日あれだけされたのに、また学校へ向かう。なぜ僕はまた学校へ行こうとしているのだろうか。いや、今更考えるまでもない。家にも学校にも予備校にも居場所がなく、精神的に欠落した僕では社会には受け入れられない。それでも死ぬだけの気力がないから、なるべく波風立たないように学校に行くのだ。今更何を言っているんだ。ほんとうに、今更。もうこのクソッタレな現実は普通のことになっている。だから家では存在を否定されて、人の目に怯えながら学校に行って、いじめられても嘲笑を受けるのも普通で、予備校で落ちこぼれのレッテルを貼られるのも普通で、そう、全てが普通のことになっているんだ。
僕は学校にいる間も意識が朦朧としていた。本当にフラフラしてたわけじゃない。ただ社会的な営みの全てが僕の意識の外で行われていたというだけだ。だから、あたりまえだけど、今日起こったことは断片的にしか覚えていない。ただ確実なことは、僕が学校と予備校に行ったということだ。それは間違いない。そして家に帰った。家のアパートの前まで歩いてくると、全身を針でつつかれたような悪寒が走って、朦朧としていた意識が戻ってきた。その感覚について少しは疑問に思ったが、どうせ大したことはないと思い、すぐに忘れた。時計を見ると時刻は21時半だった。もうこんな時間だったのか。鍵を開けて、家に入った。
真っ先に気付いたのは、僕の部屋のドアが開いて、物が散乱していること。何が起きたかはだいたい察しがついたが、何よりもあの本の安否を確かめたかった。部屋に入るとタンスや棚が全てひっくり返されて、物が散らばっていたが、あるものが、たったのひとつも無くなっていた。本が一冊も無くなっていたのだ。当然ながら今朝机の上に置いたあの本も姿を消していた。唖然として机の前に立っていると、部屋の入り口に母親が姿を見せた。
「受験期なのに本ばっかり読んで!あんたは──────…」
母親が何かを喚き散らしていたが、僕にはそれを理解するだけの頭はなかった。気付いた時には母親の胸ぐらを掴んでいて、もう一度気付いた時には父親に殴られて鼻血を出していた。壁を背にへたり込んでいる僕に対して母親は親不孝だの叫んでいたが、何を言っているのかはほとんど聞き取れなかった。僕はどうしようもないこの悲しみと怒りを抑える方法が分からず、さんざん叫び散らした挙句に家を飛び出した。
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