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予想以上に外は寒かった。制服だけでは身がもたない。だが、幸いにもそれについて考える必要はなかった。四季もあの世界も失って、残すはこのクソったれな現実だけ。もうこの世界に生きる価値はない。死のう。どうしてもっと早くにこの結論に至らなかったのか。もっと早く死んでいれば、こんなに苦しまずにすんだのに。
思えば苦しいばかりの人生だった。楽しいことなんて何ひとつなかった。苦しいことばかりが募り、しかもそれは僕を嫌う人々によって与えられるものだった。僕を嫌う人はいても、僕を好きになる人はいなかった。厳密に言えば何人かはいたが、多少でも人受けするように演じていた僕の本性を知っている者など誰ひとりいない。知れば僕を嫌いになるに違いなかった。どうして僕はこの世界に生まれてしまったのか。僕は苦しむために生まれたのだろうか。思考がグルグルして色んなことを考えたが、そんなことはどうでもいい。今考えるべきは、どう死ぬのが一番楽なのだろうかという、その一点だけだ。どう死ぬのが一番楽なのだろうか。
夜10時にもなる商店街は、昼間でさえもシャッターばかりなのに、夜ともなれば完全なシャッター街へと変身する。明かりはなく、人通りもなく、そこだけ人類が滅んでしまったといった風貌だ。シャッター街をとぼとぼと歩いていくと駅周辺の市街地に出た。ここまで来ればいろいろなビルがある。飛び降りることのできる場所も見つかるはずだ。しかし、エントランスのセキュリティが厳重なビルが多く、また屋上の扉まで空いている建物となるとほとんど無いに等しかった。時間が経つごとに死ぬ意欲が失われていくのを感じ、このままでは自殺を達成できないと焦り始めたときに、ようやく理想の場所が見つかった。
エレベーターで11階まで上がり、鉄でできた重い扉を引くと、急に強風が襲ってきた。起こったことといえば前髪が立ち上がって後ろに流れたぐらいだったが、僕には何か大きな意味があることのように思えた。ドアを出るとまっすぐに、一歩一歩、屋上の縁に向かって歩いた。うつむき、緑色に施工された屋上の床を眺めながら、何十歩か、60歩はいかなかったと思う。それぐらい歩くと、つま先が縁に引っかかった。ここが人生の終着地点なのだろう。不思議と落ち着いていた。それに、早く飛び降りなければ、自殺する機会を失ってしまう。
右の膝を曲げ、足を上げ、一段上がっている屋上の縁に乗せた。次は左足でも同じことをする。上げてしまえば、あとは落ちて死ぬだけ、簡単なことのはずだった。決心はとうについていたはずだった。だけど左足は、地面とくっついて離れなかった。僕は焦った。今まで冷静だった頭がガンガンなり始めて、肌がピリピリした。気がつくと息をしてらず、苦しくなったところで始めて息をしていなかったことに気付いた。一度呼吸を整えて、両足の力を抜いて、力まないように、今まで自分がどうやって足を動かしていたのかを思い出しながら左足を上げた。
「お兄さん」
驚いて肩をビクッとさせて振り返った。だが幻聴だったのだろうか。見えるのは、30メートルほど先にある半開きになった屋上のドアだけだった。幻聴だったのだろうか。確かに今、後ろから四季の声が聞こえたのだ。とうとう僕は聞こえないものまで聞こえるようになったというのだろうか。
しかし、これは残酷というものだ。僕はついに自殺する機会を失ってしまった。僕は自分の無力感に打ちひしがれ、無様に床にへたり込んですすり泣くしかなかった。
その後、僕は一晩街を放浪していたが、ついに補導され、警察署へ送られた。警察官は優しかった。なんだかその優しさが無性に心に沁みた。警察署では、家出の経緯みたいなことをいろいろ質問されたが、正直何を言ったのかは覚えていない。ただ子供みたいに泣いたことは覚えている。醜い姿を晒した。「夢の中に、ずっと夢の中にいたいんです。」みたいな、他人から見れば頓珍漢なことを言ったりしたと思う。しばらくすると母親が来て大小様々な書類に記入をして、警察官の方が僕の精神科の受診などいろいろな話をした後に、母親共々頭を下げて外に出た。できれば二度とこの警察署には来たくない。自分の泣き顔を見た他人と、もう一度会いたい男なんていないだろうから。
これ以降、僕の両親は僕に関するほとんどの事象について干渉しなくなった。話しかけなくなったというよりは、急に興味さえ無くなってしまったぐあいだ。僕にはいくぶんそれが良い傾向につながったから、どうしようとも思わなかった。それに、この地獄にいて、背中に刺された30センチの剣を10センチ引き抜いたって、何も変わりはしない。
学校は休学扱いとなり、行かなくてよいことになった。その代わり精神科に行かされ、診察を受けたあと、いくつかの精神の病名を聞かされたが、残念ながら何ひとつ頭の中には入ってこない。この世界で聞く値打ちのあることなんて何ひとつ無いんだから。僕はまったく価値のなくなったこの世界で、生きる気力もなく、ただ寝て起きるだけの飼育されている動物、いや肉塊へとなり下がった。何もやる気は起きない、何も聞きたくない、何も言いたくない、何も見たくない。とはいえ、実際はそれを嫌がるだけの気力すらなく、指示されたら何も考えずに行うだけだ。
そうやって無為に過ごす日々がどれくらいになっただろうか。おそらく半年はそうしていたはずだ。四季との日々は遠い昔、恐竜が生まれる前にまで飛んで行ってしまったかのようだ。懐かしくは思う。戻りたいという気持ちもある。だがどうしても、自分の力ではどうしようもないことがあるのだと、思い知っている今からすれば、それは夢のまた夢なのだ。毎日毎日、唯一考えるのはそのことばかり。どうだろうか、2億年も前の記憶を思い出せる人間がいるだろうか。試しようがないことは想像もつかないだろう。だが僕はそれを体験している。四季の顔も、声も、今や遠い彼方に消えていっているのだ。完全に、最後の一片も消え去ってしまう日も、きっと遠くはないのだろう。
僕はいつもの通り、通院の帰宅中だった。まだいくつか商店が開いている、完全なシャッター街にはなっていない商店街は、白く曇った、もとは透明であったであろう天井から夕陽が差していた。僕はそこを、うつむきながらとぼとぼ歩き、代わり映えのしない、いつも通りの様子だ。いつものことだから、意識をしないで行う行為だ。そう、本当なら意識なんてしないから、周りの景色なんかも見ずに終わる。ただその日は、検査も面談もほとんどなくて早く終わってしまい、不幸にも何かを考える余裕があった。そのせいで周りの景色を見渡したりなんかしてしまったのだ。
シャッターばかりの夕陽のさした商店街は、アニメの舞台になったせいで、そこらじゅうにポスターなんかが貼られている。閉まっている商店にはシャッターの上にでかでかと貼られている。こんなことをしても寂しさを助長するだけなのに。僕はいつもよりゆっくりとした足取りで家に向かった。顔を上げて、周りを見ながら、ゆっくりとした足取りで家に向かったのだ。そのせいで、僕はひとつの店頭の大きなガラス面に貼られたポスターを見つけてしまった。
「ウェイクフィールド展開催!」
近くの博物館で行わている特別展示の宣伝ポスターだった。日付を見ると、今日が最終日らしい。ウェイクフィールドという作家は知らない。だがポスターの真ん中に、ガラスケースで囲まれてライトアップをされている本がある。説明文では、現存していないと思われていたウェイクフィールドの若き日の幻の著作とされているその本。紅紫色の革のような調本がされ、草の蔓のような模様をあしらったその本の表紙には、アルファベットで「SHIKI」と書かれていた。僕のものだ…。咄嗟にそう思った。
商店街の天井にかかる時計は16時半を指していた。博物館は17時半で閉まる。30分で向かえば十分時間がある。僕は柄にもなく必死で走った。久々に走ったから走り方さえ忘れていた。時々足がもつれそうになったが、走っているうちに慣れてきた。時間は刻一刻と迫っている。その意識が僕を余計に急がせた。とにかく、早く四季に会いたいと思った。根拠はなかったが、行けば確実に会えるという確信があったのだ。
博物館についたときには17時を回っていた。1600円の入場料を払ったが、あと30分で閉まってしまう。だが急ぐ必要はなかった。入口からまっすぐに進んだホールの真ん中に目的のものはあったからだ。ガラスケースの中で、透明な台に開かれた状態でライトアップされている本は、間違いなくあの本だった。
凄まじい懐かしさに襲われたが、同時に恐ろしくも感じた。僕は2億年の時を超えて、やっと四季に会うことができるのだ。緊張で鳥肌が立った。皮が引きつってピリピリする。
”四季────、私が心から称賛を抱いている全てものを一身に体現したような少女────”
ライトアップされたページのその一節は、脳裏に刻まれた記憶を、もう薄れかけていた記憶を強烈に引き出した。四季との思い出は、もうどれだけ前だか分からないが、それでも昨日のことのように思い出された。赤い着物と、その裾から伸びる細い肢体。そして、こちらを見て首を傾げるおかっぱ頭の女の子。四季は僕の頬に手を伸ばし、僕はその手に自分の手を重ねた。そしてもう片方の手は四季の背に回し、四季も同じように僕の背に手を回した。
やっと会えた。懐かしいお香のような香りがする。四季の体からは熱が伝わってくる。温かいというよりも、熱いといったほうが正しい。触れ合った部分からは鼓動も伝わってくる。すぐそこに四季がいるのだと確信させてくれる。ああ…温かい。ずっとこのまま。四季だけがいる世界で、ずっとこうしていたい。でももう会えたんだ。なにも難しいことは…。
「君!何をしているんだね!」
僕と四季の世界を壊す声が聞こえる。僕はガラスケースを破壊して、あの本を抱きしめていた。そしてすぐさま警備員に取り押さえられ、僕の腕の中から四季は、いとも簡単にすり抜けていった。
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