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相変わらず無心で学校まで行き、教室では本を読む。あの本はバッグの中にしまったままだ。人目に触れさせたくない。これが独占欲というものか。何かにここまで執着したのは初めてだ。かわりに読むのはありきたりな文庫本。タイトルを見ても面白みが分からないような、かといって内容も面白いわけじゃない、そんな程度の本だ。だけど暇つぶしにさえなってくれればいい。あまり意識せずに今日が終わってくれればそれでいい。
夢があれだけいいと、現実がよけい嫌になる。四季との夢を見たのは、おそらくあの本によるものだろう。SHIKIという題名の、今読んでいる文庫本ほど面白くもない、だけど儚げな中身とそれを強固に守る過剰なほど丁寧な表紙。あれは内容だけでなく、紙の束であり、紅紫色を身に纏うから価値があるのかもしれない。そして、もしかすると夢のトリガーになる霊的な要素もあるのかもしれない。僕は霊的なものは信じないが、こういう風に考えてしまうのはリアリストになりきれず、現実逃避に走ってしまうからか。ともかく、今日もう一度寝てみて、それであの夢を見るようなら、そういった能力があるということだ。もしそうだとしたら、僕はかなり救われる。現実で苦しむからこそ夢が価値を持つ。
ああ、まだ午前中か、まだ三限目か、そう考えながら一日が過ぎた。思うとあっという間だ。今日もいじめは無かった。そのせいか不思議と予備校へ行く足取りも軽かった。映像授業は全く頭に入らなかったが仕方あるまい。ひとつの講座を終え、予備校を出る。いつもはここでコーヒーなんかを買うが、睡眠に影響したら嫌だから買わなかった。家に帰り、また作業のように夕食をとり、風呂に入り、そして本を開いた。前回は半分ほどまでだったが、今日はどこまで進むだろうか。そう思いながら翻訳を始めると、そのまま眠りについてしまった。
ああ、心地いいな。この心地よさをどこかで体験した気がするが、分からない。ともかく頭が回らない。何もかもがどうでもいい。
「…、…ちょ…と」ああ、この声は四季か。僕を起こそうと、あの細い腕で、小さい体を精一杯使ってゆらしているんだろう。だがむしろ心地いい。
「もう少し…」僕は声に出して言った。
「何を言ってるの?寝坊助さんなんだから」今度ははっきり聞こえた。また四季が遊びにきたのか。僕は仕方なく体を起こした。「やっと起きたわね」
「ああ、すまない。寝てたみたいだ」目を開けると、ここは縁側で、いつものように夏らしい入道雲が出て、遮るものがない太陽はここを眩しいほど照らしている。ひまわりは太陽を真っ直ぐに見つめているが、眩しくないのだろうか。
「まったくよ。せっかく私が来てるのに」四季は不機嫌なようだが、僕は反省よりもその顔に見入ってしまっていた。「で、今日は何をするの?」
「何って…?」僕は聞き返した。
「何をして遊ぶの?ベーゴマは中途半端に終わっちゃったし」ああ、そういえばベーゴマをやったな。勝敗はどうなったんだろうか。全く記憶にない。思い出そうにも記憶のかけらさえ見つからない。だけど、まあ…いいか。今が楽しければそれでいい。
「そうだな…切り札でどうだ」何となく思いついたカードゲームを言ってみた。思えばどういうルールだったか、やったのが数年前だし覚えていない。
「切り札ね、私は強いわよ」四季も乗り気なようで良かった。だが、そこまで有名なゲームじゃない。やった事があるのが意外だった。まあ、偶然だろう。
「それじゃあ、上がってくれ」僕がそう言うと、四季は縁側でサンダルを脱いで部屋に上がった。
縁側のすぐ横には10畳ほどの畳の部屋があり、ちゃぶ台がある。これを壁際に立てて床に切り札ができるスペースをつくった。肝心の切り札は確か引越し用のダンボールの中にあったはずだ。障子を挟んだ更に隣の部屋にあるダンボールの山から自分のダンボールを漁ると出て来た。さて、これを持って四季のところへ戻ろう。僕は左手に赤い切り札の紙箱を持って、ダンボールから顔を上げて立ち上がった。
すると耳鳴りが鳴った。聞き覚えのある耳鳴りだ。よくわからないが、何だか凄く嫌な気分になる。耳鳴りの高音は徐々に輪郭がはっきりし、目覚まし時計のアラーム音に変わる。僕は毎朝やっているように目覚まし時計を叩きアラームを止めた。そして完全に現実の世界に戻って来たのだった。
また中途半端なところで夢が終わった。左手には切り札はなく、喪失感しか残っていない。何故遊ぶ前に終わるんだ。いや、それはいい。大事なのは、一度ならず二度も同じ夢を見たことだ。正確には同じ夢というよりは、前回の夢の続きという感じだった。しかし状況は同じだ。今なら確信をもって言える。あの本には四季の夢を見せることができる、そんな能力があるのだろう。もしかしたらあの世界は僕の無意識が作り出した幻想かもしれないが、あの本がトリガーになっているなら同じようなものだ。少なからず僕にとって重要なのは夢が見れるか否かだけだから。
今日も同じように支度をし、学校へ行く。昨日と同じようにあの本も忘れずに鞄の中へ入れる。だけど昨日より前の日々と明確に違うことは、一日の最後だけとはいえ希望を持っていることだ。これがいかに重要か、それは言葉にはできないだろう。それに、無理に言葉にして薄っぺらくなってしまうのは避けたい。
学校では今日もつまらない授業が続く。今朝もいじめが過激ではなかった。受験が迫っているからだろうか。僕から関心がそれているのかもしれない。お陰で嫌な思いも少ない。とはいえ学校にいる時間は苦痛で、長々と続けたいものではない。早く終わって欲しい。
二限目の国語の授業の際、授業の後半で僕は寝てしまった。仕方ない。授業がつまらないのだから。しかし、僕の鞄の中には当然のようにあの本が入っている。つまりはあの夢を見ることになるのだ。この時の僕は本当に迂闊だった。
「…、ねえ」また心地いい気分と、僕を揺らす女の子の声が聞こえる。しかし僕は心地いのだ、この状態を壊したくはない。
「…やめてくれ、四季」僕はそう訴えた。
「起きてよ」四季の声と一緒に誰かの声が聞こえた。幼い女の子ではない、おそらく20はいっているであろう女性の声だ。「起きなさい!」その声は次にははっきりと聞こえた。ああそうだ、これは国語の女教師の声だ。
起きてみると、クラスメイトの視線は僕に集まっていた。「なに?四季って…」そんなヒソヒソ喋る声もあった。どうやら僕は女教師に対して四季と呼んでいたようだ。血の気が引くような気持ちだ。実際に僕の顔も青くなっていただろう。クラスメイトの僕に対する侮蔑の目はよけいに強くなった。
いい夢が見れると浮れていた僕は、いっきに地面に叩きつけられた。そうだ、浮かれてはいけない。僕は迂闊だった。こんなこと誰にも気付かれてはいけないのだ。もし誰かに話しても狂人扱いされるだけだろうし、何より本の存在は知られたくない。あれは僕だけのものだ。これからは気をつけなければならない。
「おい!寝言野郎!」休み時間に本を読んでいると、クラスを仕切るバスケ部が俺の席に来た。脂ぎって汗臭そうだ。ニキビだらけの顔をニヤけ顔にして、ただでさえ見れない顔が更に酷いことになっている。
「…なに?」僕は臆していることを気付かれない様に、なるべく声の震えを抑えて返事をした。
「四季ってのはなんだ?画面の中の彼女か?」そう言うと、顔を歪めて馬鹿笑いした。唾が飛んで汚い。いつの間にか周りに集まった野次馬も一緒になって笑っている。そしてその奥、野次馬からも数メートル離れた位置で女子が一団になって馬鹿にするようにクスクス笑っている。クソったれめ。
「さあ」僕は目を逸らして答えた。そっけない振りをしているつもりだが、実際は怖くて目が向けられないのだ。
「あ?舐めてんの?」バスケ部はそう言うと、椅子に座っている僕を押し倒した。僕は椅子から落ちて教室の床に這いつくばった。椅子も一緒に倒れ、大きな音がなった。その様子を見てバスケ部はまたバカ笑いした。満足したのか自分の席に帰っていって、同時に野次馬も消えた。
僕はやり返すことも出来ずに黙って立ち上がって、椅子も元の位置に立てて置いた。もう一度座り、内心泣きそうになりながら、それを堪えて俯いた。クソったれクソったれクソったれクソったれ!誰かは親や教師に相談しろなんて言うが、僕の経験上役に立ったためしがない。というか実際に申告してみたが、結局握りつぶされて終わった。両親とは口を聞く気にもならない。ああ、早く帰りたい、帰って四季に会いたい。
その後、放課後まで何もなく過ごした。あの馬鹿共も休み時間毎には来ない。いつもならせいぜい一日のうちに一度か二度くらいだ。今日は久々にされた気がしてショックも大きかった。思い返せばそんなに久々でもない。そして放課後になり、しかし予備校には行かず家に帰った。行く気にはなれなかった。
家の前についたときに、またいじめにあった時のように肌がピリピリしはじめた。親に何か言われるんじゃないか、そんなことを心配し始めたのだ。しかし鍵を開けてみると、中には誰もおらず胸をなでおろした。そのまま自分の部屋に行くと、着替えさえせずにベッドに倒れこんだ。そして少しだけ泣き、眠りについた。
ああ…凄く嫌な気分だ。ジメジメして、暗闇が襲いかかってきているようだ。手を伸ばそうにも掴む場所がなく、五感からくる情報は不快感しか与えてくれない。目や耳や肌や指先から来る全ての刺激が嫌だ。全て投げ捨ててしまいたい。何だこれは、こんなの嫌だ、どれくらい続くのか、死んだ方がマシだ。誰か助けてくれ…誰か助けてくれ!
「お兄さん!」
「あ…四季…」僕は縁側に横になっていた。目の前には見覚えのある女の子の顔があった。僕を揺すっていたようで、彼女の両手は僕の肩に置いてあった。外の天気は雨で、これ以上ないくらいの曇天だった。当然太陽なんて見えず、あたりは夕方のような暗さだった。
「お兄さん…うなされてたよ…」四季は心配そうに僕の顔を覗き込む。起き上がると何かが頬を伝い手の甲に落ちた。どうやら僕は泣いていたようだ。しかし何故泣いていたのだろうか。思い出せない。まあいいか。
「はは…大丈夫だよ、四季」僕は無理に笑顔をつくり、そう言った。四季に悲しい顔なんてしてほしくなかった。「さあ、何をして遊ぼうか」
「もう…」四季は不安そうな顔をしていたが、僕が笑ったからか、少しだけ表情が緩んだ。「それじゃあ今日は雨を眺めていましょう」
「それがいい」僕は同意した。
四季は僕の右隣に座った。四季の方を見ると、それに気付いた四季はこっちを向いて僕に笑いかけた。何も喋らず、ただ雨を眺めて、ときどき四季を見る。しばらくすると四季はおかっぱ頭を僕の肩に預けた。四季の髪からはお香のような匂いがした。
それがどのぐらい続いたのだろう。おそらく1時間はそうしていただろう。だが僕には一瞬の出来事のように感じた。まるで僕の傷を癒し、荒んでいた心を浄化していくような、そんな時間だった。これまでの人生の中で最も幸せな時間に感じた。この時がずっと続いてくれればいいと、そう思った。
目を瞑り、幸福に溺れ、もはや四季の中にある熱以外の何も感じなくなると、急にそれさえ感じなくなった。何が起こったのか分からなかったが、目を開けるとあたりは真っ暗だった。しばらく硬直してしまったが、辺りを触って確かめると、自分が今ベッドの上にいることが分かった。そうか、僕は今まで夢を見ていたのか。
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