心は夏の放浪者

草蜻蛉

1

 僕はずっと絶望していた。家にいては親からの抑圧を、学校に行けば全体主義的な抑圧を受け、なおかつこの世の中にはインチキな大人の社会とエゴたっぷりの女とセックスにしか興味のない男しかいないことを知っていたからだ。それはもう毎日毎日、飽きもせず僕をいじめる奴ら、優越感を得れればそれでいい自分のことしか考えない教師、ヒステリックな母親、低能な父親。頭が狂いそうだ。

 今日も朝からキーキーうるさい声を聴いて家を出て、笑いあう同級生たちがいる通学路で孤独を感じ、何かされていないかと疑心暗鬼になりながら下駄箱を開け、何をされるのだろうとビクビクしながら教室に入り、周りの視線から気をそらすためにすぐに本を開いた。この全体の動作は毎日毎日、もはや意識なんてせずに行う。

 僕が絶望しているのはそれだけじゃない。高校三年生の5月。僕は不安の真っただ中にいる。周りからは「誰もが通った道」だの「これを乗り越えることで成長できる」だの、枯れた言葉ばかりを言われ、もはや聞き飽きたほどだ。そんな言葉を望んでいるわけじゃない。しかしそれ以外の言葉を望んだところで、大人から出てくるのは自分の不幸自慢ばかり。僕は大人に失望していた。そして自分自身にも失望していた。

 とはいえ何もしなくても時間は進む。たとえ非生産的な時間を過ごそうと、一日一日と、時は過ぎてゆき、受験という二文字が迫ってくる。別に受験が怖いわけじゃない。最も怖いのは周りからの評価に他ならない。親は生殺与奪を握っているのをいいことに、受験に失敗したら養うことをやめるとプレッシャーをかける。当然ながら教師の面々もプレッシャーをかける。しかし他人の子だからか、その言葉にはどこかインチキくささを感じる。そして同級生たちは、自分たちだけは大丈夫だと、根拠のない自信に溢れているように見える。さらに将来に対する漠然とした不安が重なり、まるで生きている心地がしない。

 僕の心はすでに悲鳴を上げていた。何日も何日も眠れぬ夜を過ごし、頭に浮かぶ漠然とした不安は、日に日に膨張を続けているようだ。それは決して表には出てこないが、気を抜くと僕を支配しようと襲いかかる。おそらく、こう思っている人は僕だけではないのだろう。皆が抱えていることだ。もし違う人がいれば、それは余程の世間知らずだ。そんなことは分かっている。そうだ、僕だけではない。だがそれが何の慰めになるんだ。僕はこの苦しさを捨てれる唯一の方法を思いついていたが、それは実行できずにいた。

 放課後のことだ。今日はめずらしく何もされなかったから、不幸なことに何かを考える余裕があった。商店街を通って下校しているときに、普段は見ない場所に古書店を見つけた。ヤケやヨレでひどい見た目になっている本が雑に積みあがった店頭に、普段なら中に入る気も本を見る気にもなれなかっただろうが、今日はほんとにおかしくなっていたんだろう。中に入ってみることにした。ほとんどの本が読める状態じゃないが、何かマシなものはないかといくつかの本の山を調べた。やっぱりどれも読める状態じゃなかった。だけど5つ目ぐらいの山を見たときに、一冊だけ目を惹かれるものがあった。

 厚紙のハードカバーの本で、紅紫色に近い色だった。全体に革で調本されたような模様と、表紙に蔓のような縁取りの模様が描かれていた。タイトルは「SHIKI」という、詳しくは分からないが海外の人の著作で中身はすべて英語だった。内容は”シキ”という名前の日本の女の子の話のようだ。見入って動けないでいると、その様子を訝しんだ店主の老人が声をかけてきた。おそらく僕が万引きを考えていないかと疑ったんだろう。疑われるのも気分が悪いから清算することにした。本の最後のページに鉛筆で値段が書いてあり、それには若干がっかりした。2200円という決して安くない金額を払ったが、本が手に入ったことの喜びのほうが勝っていた。

 浮ついた気持ちで店を出た。もしかしたらスキップもしていたかもしれない。ともかく、そのくらい嬉しかったのだ。内容も作者も知らない本に、何故ここまで惹かれるのか。不思議に思いはしたものの、それも深くは考えなかった。口もとに笑みを浮かべ、普段笑いなんてしていないから、おそらくは醜い笑顔だったと思う。人のいる商店街では不審な目で見られたが、商店街を出れば人のいない細い道だったため安心した。自宅のアパートまではずっとこんな道だ。

「ちゃんと塾へ行った?」家に帰ると聞こえてきた第一声がそれだった。「こんな早く帰ってきて、受験生なのよ?」母親はそう続けた。

「ああ、行ったよ」僕は何の罪悪感もなく嘘をついた。この後母親が続ける言葉は決まっている。自分がこんなに頑張っているんだからお前も苦労しろ。そんなようなことを言うのだ。

「私もお父さんも毎日働いているのよ?あんたもちゃんと塾に行きなさいよ」やっぱり、思った通りのことを言った。「まったく、お兄ちゃんは真面目なのにどうしてあんたは…」

「ああ、分かってる」いつものように気持ちのこもっていない返事をした。

 自室に入り、ドアを閉めた。カバンを下ろし、学ランだけ脱いで制服姿でベッドに座り、本を開いた。本は商売に必要なもの、バーコードとか、そういったものが見当たらなかった。だとしたら、これはどういったふうに売られていたのか。そもそも作者名も見当たらない。書いた人は何のつもりでこの本を作ったのか。いろいろ疑問は湧いてきたが、ともかく本を読み進めることにした。

 本の内容は、やはりシキという名前の日本人の女の子の話で間違いないようだ。シキの漢字はどう書くのだろうか。四季、子規、後者は男だ。普通に考えれば四季だろう。素敵な名前だと思う。夏休みの、これは夏祭りか。時期は夏らしい。ボブヘアー、ボブってあの短めの髪型のか。調べてみるとおかっぱ頭のことらしい。おかっぱ頭の着物の女の子。なんともアナクロな感じだ。出だしはフィッツジェラルドのグレート・ギャッツビー風に訳せば


“四季────、私が心から称賛を抱いている全てものを一身に体現したような少女─────”


あまり英語が得意でないから正しくは分からないが、こんなところだろう。意訳できればいい。

 その後も夢中になって翻訳を続けた。半分ほどを読み進めて分かったことは、この本は内容的にはほとんど面白みが無いということだ。150ページに渡って“私”目線の四季と過ごした夏祭りの3日間が延々と綴られているようだ。何か特別なことが起こるわけでもなく、恋愛的ないざこざもなく、ただ平穏な時間が流れる。全く価値がないように見えるが、その怠惰ともとれる日々は、決して壊してはいけないような尊さと儚さを備えていた。

「ご飯よ!」ドアを隔てた廊下の向こうにあるリビングから醜い声が聞こえてきた。それは私と四季の、壊してはいけない儚い世界を土足で踏み荒らすようだった。しかし行かなければ余計うるさくなるだけだから、仕方なくベッドから腰を上げた。意図せずに同じ姿勢でいたため、腰が悲鳴をあげていたが、反対に反らせたら治った。

 夕飯は無言だった。点けっ放しになっているテレビでは下らないバラエティ番組が流れている。出演者の笑い声は食卓の静けさをより助長した。僕は本が気になり、食事どころではなかった。急いでご飯を胃袋に流し込む。味なんて分からないが、分かってもどうせ大した味じゃない。小声でごちそうさまと言い、リビングを離れた。

 夕飯が終わると、早めに風呂に入った。といってもすでに21時になっていたからそう早くもない。歯磨きも終わらして、いつでも寝れる体勢にした。こうすれば、後は本だけに集中できる。ベッドに座り本を読み始めたが、どうしても集中できない。さっきの集中力は何処へ行ったのだろうか。そのうち意識が朦朧としはじめ、遂には寝てしまった。

 よく分からないが、なんだかすごく心地よい。例えるなら真っ白の世界で暖かい絹布に包まれているような、ずっとそうありたいと思うほどには心地よい、そんな気分だった。何故自分がこんな場所にいるのか、こんな状況なのか、まったく理解できなかったが、それでもいいと思った。しかし、それを遮る声が聞こえた。

「…、…え、ねえ」幼い女の子の声だ。なんで女の子が、というか、僕は今どこに、そもそも僕は誰だ?考えれば考えるほどに、まるで霧でもかかっているかのように思考が鈍ったが、女の子の声を頼りに考え続けた。そして遂に自覚することができた。

 そうだ。僕はこの土地に昨日、ちょうど夏祭りがあるその日に引っ越してきたんだ。そして両親に促され祭りに行き、四季という名の12歳ほどの少女と出会った。四季はおかっぱ頭で赤い着物を着ていた。夕方に会ったため少ししか遊べなかった四季は、翌日家に来ると言って別れた。その翌日が今日なのだ。僕は縁側で四季を待っているうちに寝てしまったらしい。

「ねえ、起きてよー」両手で横になっている僕を揺らす。おそらくは四季だろう。「まったく、こんなところで寝たら風邪引いちゃうよ?」

「ああ、ごめん」僕は起き上がって、返事をした。目を開くと、視線の先には夏らしい入道雲と、遮るものがない丸い太陽がある。眩しいくらいの陽の光が縁側を照らしていた。ひまわりはまっすぐに太陽を見つめている。

「大丈夫?」そう言って四季は心配そうに顔を覗き込んできた。白い陶器のような肌に、大きめの目と小さい鼻と唇がついている。

「何が?」何か心配されるようなことがあっただろうかと、考えても思いつかないため、そう質問した。

「暗い顔してるよ。何か悲しいことでもあった?」四季は本気で心配しているようだ。

「いいや。何にもない大丈夫だ」そういえば、とても気分が沈んでいたが、何故なんだろう。まあいいか。

「そう!じゃあ、今日は何をして遊ぶ?」四季は無邪気な笑顔をつくり、庭に飛び出した。季節を象徴するような草花の描かれた赤い着物から伸びる四肢はか細く、触れれば壊れてしまいそうな繊細なガラス細工のようだ。

「何でもいいよ」そう答えると四季はムッとした。彼女は表情がころころ変わる。

「そういう答えが一番困るの。何がいい?」また同じことを聞いてきた。

「じゃあ、ベーゴマで」僕は思いついたものを適当に言った。ベーゴマなんて一度しかやったことがない。

「よしきた!」そう言って四季はベーゴマを大小2個取り出した。小さい方が八角形で大きい方が円形だ。しかし、どこに持っていたのだろうか。

「じゃあこの大きい方が、お兄さんね」そう言って四季は僕の右手にベーゴマを置いた。“勝”という文字が書いてある。意外と重い。

 遊ぼうと思ったとき、突然耳が痛くなった。いきなりのことで状況が理解できなかった。痛みは耳鳴りに変わり、徐々にハッキリした音になりはじめた。そして、それが耳鳴りではないと理解するのにそう時間はかからなかった。耳鳴りはピピピピというアラーム音へと変わり、僕はベッドの上にいた。

 目覚まし時計を叩きアラームを止めると、はっきりと自覚することができた。今までのことがまったくの夢であったと。その証拠に縁側ではなく見慣れたベッドの上ににいるし、右手を開いてみても、そこにベーゴマは無かった。恐ろしい虚無感と喪失感に襲われた。あの夢なら一生見ていてもいいぐらいだ。

 アラームが鳴ったということは、もう7時ということだ。朝食を食べ、出掛ける準備をしなくてはいけない。まだ夢から抜けきれていないが、朝食をとるためにリビングへ向かった。母親の姿を見て、小汚いテーブルの上にメロンパンとコーヒーが乗っているのを見たとき、完全に現実へ引き戻された。夢の世界の四季との幻想は脆くも崩れ去った。僕は意気消沈しながらも、準備を済ませて家を出た。あの本も忘れずに鞄の中に入れた。

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