おやすみ、月子

 ついに、二か月半が経ってしまった。


 十月の風がさやさやと吹いているのが窓の外から見える。空が土曜日の色を忠実に選んでいた。涼しい気候だ。月子と出会った八月の夕暮れを思えば、随分時間が経った。時間としてはたったの二か月なのだが、今までで一番長い二か月だったかもしれない。


 最期の時を告げる方法は、夕食時に食事に睡眠薬を混入させる。そうして、眠っている間に首を絞める。これだけだ。


 淡々と準備をする。夕食の春雨スープに一袋。麦茶にも一袋。食器は分けているのでこちらが誤飲することはない。慣れた作業だ。ご飯を茶碗に盛り付けていると、とて、とてと月子がこちらへやってきた。

 「もう、ごはん、できたの」

 「できたよ。今日は春雨スープとハンバーグだ。ハンバーグ、好きだよね」

 最期の晩餐、にしてはお粗末なものかもしれないが、好きなものを食べてほしい。

「うん、ハンバーグ、一番好き」

 やっぱり最後まで月子は笑わないんだな、と思った。嬉しそうな声色はよく聞くようになった。けれど、変えられないものもあるだろう。変わらなくていいことは変化し、変化を望むことが不変のままであるのが世の常だ。彼女は天の国で笑えれば、それでいい。

 ただ、一度だけでいいから月子の笑顔は見たかったかもしれない。


 いつも通り、二人黙々と食事を進める。食べるとき、基本的に話さない月子であるが、ハンバーグの今日は「おいしい」と言葉を零した。薬は遅効性だ。子供達は逃げない。食事後の眠さは薬によるものだということに気づかないらしい。入浴後に効いてくる、というような感じだ。セレナは、というと、これから起こることが分かっていたのかはわからないが、いつもより大きな声で鳴き続けた。

「どうしたの、セレナ」

「どうしたんだろね、エサが足りなかったかな」

 動物の本能というものは、超常的なものがあるな、と思った。


 月子が風呂に入っている間に、月子の部屋へ向かう。月子があまり興味を示さなかったリカちゃん人形。月子が描いたセレナの絵。彼女が好んで読んだシェイクスピア全集。

 もしかしたら、月子はシェイクスピアの悲劇に自身の人生における無情を重ねていたのかもしれない。もちろん、彼女が無情という言葉を知っていたかどうかはもうわからないけれど。


 ガチャリ、と部屋のドアが開いて月子が現れた。

「ゾンビ、ねむい」

 半乾きの髪で今すぐに眠りに落ちそうだった。

「月子、髪、ちゃんと乾かさないと風邪ひくよ。もっと乾かしておいで」

「ん、わかっ、た……」

 月子はそう返事をして、また戻ろうとしたが、それは叶わなかった。崩れかかった彼女の身体を支える。


「おやすみ、月子」


 そう言って、月子を抱きかかえ、ベッドの上にそっと寝かせる。

いつの間にかそばに来ていたセレナがこれまでにない声で鳴いている。彼女に何をするのだと言わんばかりに。ナアナアナアナアナアナアナアと、鳴いていた。飛び掛かってきそうな勢いだったので、首根っこをつかみ、部屋の外に出す。鳴いていたのではなく、泣いていたのかもしれない。


 すう、すうと寝息を立てる月子の側に立つ。手が震えた。満月でも三日月でも何でもない月光が光量だけを最大にして部屋にさした。


 そっと、手を首にかける。細い首はひんやりと冷たかったが、微かに脈動し、生を主張していた。

 彼女の幸福は何だったのだろうか。

 この眠りが彼女の幸福で足りえることを祈り、両の手に力を込めた。


 クッと、身体を一つ揺らして、テロメアの灯は消えた。とても、静かだった。哭き続けるセレナの声だけが遠く聞こえた。


 動かなくなった月子の頬に、青い万年筆で『R.I.P』と記す。やすらかに眠れ。


 月子の身体は、ここで保管することにした。彼女はここが好きだと言ったからだ。たとえしょーきょほー、だったとしても、彼女はそう言ったからだ。そして、自分は彼女が好きな場所を他に知らない。

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