月の美しい夜のこと
「月が綺麗だ」
動かなくなった母の瞼を手で閉じさせた、養父の穏やかな顔を思い出す。その頃の自分は、ちょうど近代文学を読みふけっていた。夏目漱石の言葉が頭をよぎったことを覚えている。二人とも、穏やかな顔をしていた。二人の間に何があったのかは今でもわからないけれど、あそこにきっと愛はあったのだと思う。翌日になって、養父は首を吊った。そこからまた自分は一人になったのだけれど、最後の最後で彼ら自分に愛の形を教えてくれたのだと思っている。
死は、永遠で、幸福だ。また、あの行為は救いなのだと信じている。
実際、今まで見送ってきた子どもたちも穏やかな顔をしていた。
深夜二時、昼に公園に行きたいと言った月子を連れて夜を歩く。セレナを抱いた月子からは、笑いこそしないがその歩みに喜びが見られた。
「公園ははじめてかい」
「ずっと前に、一回だけ行った」
「そっか」
淡々と会話する。彼女の姿を見ないで話をしていると、年齢がわからなくなる。そうして他愛ない話をしながら、公園へたどり着いた。
「ブランコ、乗る」
彼女はそう言って抱いていたセレナを降ろし、ひょい、と座面に腰を預けた。すう、と彼女の姿が月に透ける。
「高い」
嬌声を上げることもなく淡々とした声であったが、漕ぐのをやめないあたり、楽しんでいるのだろう。
「ゾンビは乗らないの」
地面から浮かぶ彼女を見つめていた自分に問いかけが落ちてきた。
「僕はもう大人になってしまったから、ブランコは上手く漕げなくなっちゃったんだ」
適当な事を言って返す。自分は、少々高所恐怖症の気があるからだ。しかし、大人になったらブランコが漕げなくなるというのは、案外まっとうな答えなのかもしれないな、と思った。
「ふうん、そっか。楽しいのに」
漕ぐ足を止めないままに、彼女は言う。楽しいなら何よりだ。眼を細めるようにして空を仰ぐ。
その瞬間だった。
どさ、と音がした。月夜に弧を描いたブランコは主を失くしていた。
横たわる月子に駆け寄る。
「月子」
「月子」
「月…」
「だいじょうぶ」
何度となく名前を呼んだ自分をたしなめるように、月子は起き上がり大丈夫だと主張した。目は潤んでいたが、その雫を零すような真似を彼女はせずにすぐにそれを拭った。差し伸べた手も丁寧に払う。
「大丈夫、泣いたりしません。月子は強い子です。ご心配かけてすいません。迷惑をかけるような悪い子でごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
違和感。冷静な口調に、おびえた声。止まらない震え。既視感が脳を巡る。これは、いつもの月子ではない。いや、これが本当の月子なのかもしれない。
「シーソーに指を挟ませるのだけは、やめてください。もう、悪いことしませんから。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめ、」
彼女の視線の先を見遣る。そこには赤いシーソーがぽつりと佇んでいた。どうやら、あれを見て怯えのあまりにブランコから落ちたらしい。
謝り続ける月子の口を手でそっと塞ぐ。
「大丈夫だよ。月子。怖いことなんて何もないし、月子は悪い子じゃない」
震えは一向に止まらない。手を頭に近づけないようにして、そっと抱きしめる。きっと、頭より上に手を上げたら、もっと月子は怯えるだろう。それは、きっと彼女に似ている自分だからこそ知っている。
「今日はもう帰ろう。大丈夫だから」
そっと、月子を抱き上げる。一か月ほどで少し増えた命の重みが腕に伝わる。風邪が吹けば消えてしまいそうだった彼女が思い出された。彼女は家に帰るまでの間、ごめんなさいを呟きながら、やがて、緊張の糸が切れたように眠った。セレナは、彼女を心配するように付いてきていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます