(9)

「ただいま」

 誰に向けるでもなく呟いた言葉がしんとした冷たい廊下に響き渡る。

 母親は今の時間はパートに出ているし、大して会話することもない父親は出張でしばらく家には帰って来ていない。それなりに仲の良い兄も絶賛仕事中。だから今、この家には私一人きりだ。堪らず歪む口。湧き上がる興奮に身震いすると、くたくたになったローファーを乱雑に脱ぎ捨て、足音も気にせず二階に駆け上がった。

 お行儀悪くてごめんなさいお父さんお母さん。あとでちゃんと直すから今だけは許して。

 自室へ駆け込むと、抱えていた紙袋をそうっと下ろした。がちゃがちゃと音を立てるそれらがなくなったお陰で大分肩が楽になる。そのままドアにもたれ掛かるように、背中を引き摺りながら崩れ落ちた。

「……先輩、驚いてたなあ」

 本当に取り返しに押しかけてきたらどうしよう。

 もしそうなったら、丁重におもてなしせねばなるまい。美味しいお茶とお菓子を用意して、何が面白いのか分からない素敵な話に華を咲かせて。

「……無いわぁ」

 なぁんだ、私が一番先輩を傷付けてるじゃないか。

 ──最後にもう一度、見ておかなくちゃ。

 すっくと立ち上がると、紙袋の中、更にビニール袋の中の道具を取り出した。ちき、ちきちき。も一つおまけにちき、とカッターナイフの刃を出して、躊躇いなく壁に刺し込む。切れた端を指で摘んで思い切りよく引っ張れば、真新しい壁紙は気持ちいいほど容易に剝がれていった。念の為スクレーパーも用意していたのだが杞憂だったようだ。この間、十分。

 ──さぁ、幾日振りのご対面だ。

 壁の代わりをしていた薄っぺらな板をどけて、厚さ拳一つ分の狭いスペースにそれはぴったりと収まっていた。

 自然な布地の色からかけ離れた、不気味なほど真っ白なキャンバス。

 薄っすらと浮かびかけた笑みは、頬が気付く前に静かに消えた。明日になれば、また同じようにして隠さなくてはいけない。

 次にいつ間見えるか。そのまた明日、来年、五年後十年後。死ぬまで心のうちに秘めたまま、ずっと壁の中かも分からない。

 だから──だから、今日だけはその秘密を胸に抱いて眠るのだ。

 制服のままベッドに寝転び、キャンバスを引き寄せる。布団を被ってしまえば、傍から見ても厚い羽毛が私の体を曖昧に象るだけで、その私がひしと胸に抱き寄せる存在は無いに等しいだろう。更に頭まですっぽりと布団で覆い、眠気が来るのをじっと待った。

 睡魔は、案外早く私のもとへ訪れた。

 気付かなかっただけで私の体は随分と疲れていたらしい。微睡むうちに指が溶け、制服のスカーフが溶けて、体が溶けて、どろどろになった腕の中、冷たかったキャンバスに体温が移る。それから……そう、きっと角から白が溶けて混ざり合って、私の一部に、私が絵の一部になる。

「もう……どっちでもいいや」

 下にした腕が痺れるより早く、私は意識を手放した。




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