(8)
美しい横顔。赤子を見つめる優しい眦に白が走る。
赤も青も黒も全部、全ての色が不透明な白に塗り潰されていく。
端から端まで丁寧に、一滴も零さないように。
これでもう、大丈夫。
誰も貴方を傷付けたりなんかしない。
「……ごめん」
「どうして先輩が謝るんですか」
「だって」
「大丈夫です」
きっと聞き飽きてしまっただろう言葉をまた投げ掛ける。大丈夫。きっと上手く行く。これは自分へ向けての言葉。
──この白は私だ。
どうしよう。役目を終えた刷毛を持つ手が震えているかも分からない。先輩がこれまで描いたどの絵よりも、これから先描かれるであろうどんな素晴らしい絵よりも、この絵が──先輩の秘密と、先輩と私の秘密が塗り固められたこの絵が、喉から手が出るほどほしい。
一度思ってしまったら、行動は早かった。ホームセンターで必要なものを買い揃え、ダミーを作り出すと、隠すように置かれた先輩の絵とすり替える。罪悪感が全く無いわけではない。けれど、そんなのどうでも良くなるくらいにずっと、遥かに魅力的だった。上手く行ったと思っていたのに。どうして。
「どうしてバレたんだろう……」
「長谷川くんに聞いたの」
「あぁ」
思わず溜め息が漏れた。彼の行動は私の計画上、全くもって──とまでは言わないが、想定外のものだった。極めて迷惑甚だしい。本当にやる馬鹿がいるとは思わなかったのだ。
あいつ、ぴぃぴぃ泣くまで虐め倒してやったのに、また懲りずに私の邪魔をしたのか。
「あの子が……剥がした絵の中身は真っ白だったって。彼、私がただ何も、一筆も描けなかっただけだと思ってたみたいだけど」
「わぁ」
恥ずかしい奴。
「ねぇ、私の絵はどこなの」
「どこでしょう……あぁ、怖い顔しないで下さいよ。ちゃんと私の家にありますってば」
「っか、返して」
「嫌です。因みに家に押しかけても無駄ですよ。先輩には見つけられっこないところに隠しましたから」
「っ、どうして……」
どうして。
すう、と潮が引くように体が冷たくなって行く。
どうして。
どうして。
そればっかり。
「……ねぇ先輩」
これ以上話を聞いたところで、その先に意味のある言葉は望めないと分かった。
「私今日、正直言って暇じゃないんです」
「でも」
「ごめんね、先輩。さようなら」
この話はもう、おしまい。
静かな拒絶を差し出して、真っ直ぐと、振り向くことなく先輩を一人取り残すように。
過ぎ去る間際、先輩が愛用しているシャンプーの匂いがふわりと香った。
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