(3)
「市橋」
「……はい」
自分を呼ぶ男性の声に、果たして、今の私は普通に振る舞うことが出来ていただろうか。変に思われなかっただろうか。声をかけられただけにしては、不自然に震えてしまった気がして落ち着かない。取り繕うように笑顔を作ると、その人──先生はぽりぽりと頭を掻いてから、私のそれよりずっと緩い笑みをへらりと返した。
美術部顧問の渚先生。ただの寝癖と無造作ヘアの違いも分からない、何が流行りだとか、そういったオシャレの類にはまるで疎い由紀子の目を通して尚、その所々白髪の混ざったくにゃくにゃの御髪は全く手を加えられた様子がなかった。
皮の浮いた唇が、アレさぁ、と、口を開けた瞬間、今から言わんとする内容を即座に察知した体が自然と強張る。アレ、とは。
「アレ──市橋が描いた元の絵、見させてもらったけど、……いやぁ、本当に残念だったね。よく描けてたのに」
ありがとうございます。心にもない言葉が喉からするりと抜けて出る。見たのか、あれの中身を。
暴かれたかに思えた秘密は、日の目を見ないうちに玲奈が再び覆い隠してくれた。中身をその目で見ているのは、ペンキを剥がした長谷川と、秘密を共有している玲奈だけの筈。まさか、間に合わなかったのか。
「あれって、やっぱり──」
あぁ!
叫び出しそうだった。
──そこまで訊かれるのか。
「──市橋の」
「はい、父と母です」
「……あぁ、やっぱりそうだよね」
言葉を遮られた先生は一瞬だけ表情を固くしたが、それもすぐ持ち直すと妙に芝居がかった仕草で時計を仰ぎ見た。おっと、もうこんな時間か。態とらしい言葉まで吐いて。自分で言っていて恥ずかしくなったりしないのだろうか。先生はご機嫌な曲を口ずさみながら廊下の向こうへ消えて行った。聞き覚えのあるメロディ。タイトルは思い出せないけれど、昭和のアイドルが歌っていたような。
「ターン、タタタ……しーろーいぱー……らそる……あ、」
「由紀子」
「うわぁ」
声に驚いて振り向くと、クラスメイトの立川春香が心配そうにこちらを見ていた。一七二センチの身長を屈めて私の顔を覗き込む。
「顔色悪いよ。大丈夫?」
「よく言われる。元からだよ、ほんとに平気」
なんてことない、ただ白から連想しただけなのだろう。けれど、手ずから描いた絵を白で塗り潰されたその人の前で口ずさむには、些か無神経な気がしないでもない。それとも皮肉のつもりなのだろうか。
「由紀子」
「なに?」
「由紀子のそれ、なんだっけタイトル」
「え?」
聴き覚えあるのにタイトルが出てこなくて。ねえ、なんだっけ。首を傾げる春香に尋ねられて、そこで初めて知らず知らずのうち自分が口ずさんでいたことに気が付いた。
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