24-4 禁足

 右大臣が火を起こし、清水を飲ませ、傷の手当を施している間、朱雀は沈黙を守り続けていた。そうした世話を受けるのは皇女としてごく当然のことであったから。ただし、朱雀は禁足の地に堂々と踏み込んだ右大臣を決して赦したわけではなかった。その証に、砂の上に燃えるおきの強さをそのままに、朱雀の眼は時おり右大臣の横顔を射た。だが、右大臣がその憤りに快く甘んじようとするとき、朱雀の眼はいつでも遠のいて、虚空のような海と空の果てに吸い寄せられていった。不思議と星のない夜であった。


「なぜ追ってこられたのです」


 歯がゆいほどに冷然と、朱雀が尋ねた。やはりそのは右大臣の方を向いてはいなかった。


「あなたをお守りするためです」

「貴方がここに立ち入ることは禁じられています」

「知っております。しかし、私はたとえあなたが愛し信じた全てを踏みにじってでも、あなたをお守りすると誓いました」

「何にです……?」


 朱雀はどこか心もとなさそうに黒目だけを動かして、ようやく右大臣の方を見据えた。


「何に誓われたというのです?」

「私自身、とでも言いましょうか」


 愛しい人に向けるのにはあまりにそぐわない不敵な笑みと共に右大臣は言い放った。その瞬間、朱雀は呆気にとられたような面持ちになり、それから意外なことに、ふっと笑った。右大臣の笑みを打ち散らすような微笑みであった――そこには確かに嘲りも含まれていたはずなのだが、その嘲りさえもが右大臣に向けられたものではなかったのだ。朱雀の瞳はたちまち虚空を仰いだ。


「私と貴方は異なる世界に生きているのですね、右大臣殿」


 朱雀は微笑に言葉をかぶせることで、殊更に右大臣を突き放した。


「あるいは異なる時代を。私はふる神代かみよの女です。貴方は来たるべき黎明の彼方に生きている。けれども、貴方の時代が来ることはありません。私が摘み取ってしまいましたから。そして私は明日、この国もろともに新たな時代を押し潰してしまうつもりです」


 『暁星記』を諳んじるときのように、朱雀はすらすらと言いのけた。右大臣は朱雀の言葉そのものよりも、血の気を失い、表情を閉ざして青ざめたかんばせ神憑かむがかりを見取って慄いた。


「何をなさるおつもりです?」

「明日私は地獄へと向かいます。この世界の終焉とともに朱雀は地獄へと降り、罪人どもの番をしなければならない、それが古よりの言い伝え。ですから、私はこのように解釈します――朱雀が地獄へ降ればこの世界も終わる、と」

「しかし、なぜ……」

「それを語るのは畏れ多いこと」


 朱雀は恥じらうようにうつむくと、火から遠ざけた場所に朱雀の領巾を被せられて眠っている姫の亡骸をじっと見つめた。


「それでも私を守ると仰いますか、右大臣殿。この世界に終焉をもたらす私を。貴方の未来を奪おうとしている私を」


 右大臣はもだしたまま立ち上がり、朱雀の前に跪いて深くいやした。懐に差し入れ、差し出された手には朱雀の短夜みじかよがきらめいていた。


「今はお返しできません」


 はっと顔を上げた朱雀の眼差しをたしなめるように、右大臣は低く言い切った。


「宮さま、これをどうぞ私にお預けください。これより先、私は下僕しもべとして貴女にお仕えいたす所存です。私は貴女の左手となりましょう。たとえ地獄の果てであろうとお側に参ります」

「なりません」


 朱雀の声は厳しさに震えていた。


「地獄の扉をくぐった者に来世はありません……」

「貴女のいない来世に何の意味が?」


 三白眼はまっすぐ朱雀を射て怯まなかった。


「ただお側に参ります。玉藻の国が明日滅びるというのなら、この国が確かに存在したその証だけでも残したい。貴女が皇女であり、私がその臣下であったということを。貴女は皇女なのだから、最後までかしずかれ守られるべきだ」


 言い終えるなり、右大臣は立ち上がった。右大臣の論理は詭弁であった。朱雀を説得するに足りぬばかりか、右大臣自身さえもを信じさせるに足らなかったに違いない。右大臣がたのんでいたのは、論理ではなく、ただそうしなければならないという己の信念であったのだ。恐らく彼のまつりごとというものはこれまでもかくのごとくして敢行されてきたのであろう。


 右大臣の立ち姿が炎の輝きに赤々と照らし出され、その影が朱雀の衣の裾へと触れたとき、朱雀はほんの一瞬怖じた。だが、右大臣は深く頭を垂れるとおもむろに砂浜を歩みだした。その背に朱雀は問うた。


「いずこへ?」


 番をして参ります、との右大臣の答えであった。


「番も無用でしょう。ここは禁足の地ですもの」


 それでも念のため、と右大臣は答えた。朱雀は右大臣の不審な態度を呑み込めぬまま、しばし当惑していたが、こんな感情がもっとも今の自分に不似合いなものだと気づいて愕然とした。明日世界に終焉をもたらすというこの時に、なにを些末なことを……


 朱雀は京姫の亡骸に向き直った。途端に涙は夜露のようにその瞼の下よりこぼれ出た。


 古くはやんごとなきお方が亡くなったときにはもがりの時を持ったという。その身を出でた魂を呼び戻し、蘇りを願いつつ、しかし芽生えたほのかに期待もろともにその胸に死の事実を浸潤させる――しかし、朱雀は待つことはできない。明日の朝までだ。そう、明日の朝までだから。今宵は夜伽を務めよう。ひたすらに火を絶やさず、姫に寄り添い、語りかけて夜を明かすのだ。死せる人の魂を鎮め、送り出すために。朱雀は姫の亡骸へといざり寄った。


「姫さま……今宵は星がありませぬ」


 その瞳に輝きを投げかけていた一番星までもが隠れてしまった今、朱雀は指先で触れて姫の瞼を下ろした。貝殻のような清らかな冷たい感触が、指先に沁みた。


「青龍は、玄武は、白虎は今いずこにいるのでしょうか。星が見えればあれこそ皆が世を去る姿だと認められましたでしょうに。それとも姫さまの夢のなかに参上しているのでしょうか。そうだとするならば限りなく羨ましい……姫さま、どうぞ心安らかに御寝ぎょしあそばせ。姫さまの夢は朱雀がお守りいたしますから」




この世自ずから成らず。日なければ明けず、月なければ暮れず。暁に消え残る星々は先の世を去いにし神々の名残なり。



 はつはつと焚き木が爆ぜる音ばかりが、女の黒髪のような闇にとよんでいる……

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