21-6 「あけましておめでとう」

「翼、奈々、さあ御覧なさい。貴女たちが守った人魚さまのお姿を。そして、私が人魚さまのお姿を」



 胸をときめかせながら一方で旭の不審な言葉を翼が聞きとがめるとき、旭はその場に屈みこんで膝をつき、両手を海にむかって差し伸べた。海底より照らし出されたように洞窟の内部はぼうっと明るみ、異形のものの影がするすると波間を縫って寄り来るのが明らかだった。


 翼と奈々はあっと息を呑んだ。雪のように白い飛沫ひまつを飛ばして旭の膝に半身を乗り上げたものの姿は、二人が思い描いていたものとはかけ離れていた。人魚?この生き物を人魚と呼んでよいの?まことに美しい生き物ではある。だが、これは……


 僧衣の袖が重たく濡れながらも抱きしめている、それは少なくとも「人」ではない。「魚」でさえもないかもしれない。「獣」である。白いすべらかな皮膚を持ち、巨大な魚に似た紡錘形の肉体を持った海の獣だ。頭部は丸く、円らな瞳は青く澄んで、そこには深い理智のようなものが湛えられているのがうかがわれる。波より突き出た尾鰭は二枚の葉を重ねひろげたように割れて、その先が魚の尾のように透き通り、虹色にきらめいている。尾を覆う短い毛にちかちかと鱗が紛れている。尋常ならざる生き物でないのは確かだ。だが、嬌声のような高らかな声を上げて、旭の胸元に頭をこすりつけるそのさまは、残酷にも、水族館のイルカと変わりなかった。


「かわいらしいでしょう?」


 そう言って少女たちを振り見た旭の微笑に、夜霧のような悲しみが漂っていた。


「先ほど、九尾の狐が興味深いことを言っていました。『信仰』とは強大な力であると。命なきものに命を与え、また偉大なる神を塵にも等しい存在に変えてしまう。まことに……私が出会ったころ、人魚さまは伝承の通り、若い女の上半身と、そして魚の尾を持っていらっしゃいました。波間になびくのは玉藻と見紛うばかりの碧玉へきぎょくの髪。静脈を透かしていた薄い肌。裸のままの清らかな乳房と、燦然ときらめく鱗。わたくしは一目で人魚の虜となりました。わたくしたちは語り合い、手を取り合って海底に遊んだものです」

「でも……でも、島の人たちは……!」


 人魚を信じていたじゃない。だって、人魚の肉がなくなった時、あんなに怒って……!なんだか泣き出しそうになりながら訴える翼に、旭は変わらぬ笑みで返した。


「その通りです。しかしね、翼、信仰は祭祀の場のみにあるのではありません。人魚の祭りが近づいてきたときや、あんなことがあったときは、誰だって人魚のことを想うでしょう。でもね、やはり忘れているのですよ。神に代わるものを人が生み出せるようになってきた現代にあっては、特に。それにね、この島で生まれ、その島でその生涯を過ごす者がはたしてどれだけいると思います?島を出た若い者たちにとって、人魚の加護などというものは迷信でしかないのです」


 言葉を失った翼が立ち尽くすその目の前で、「人魚」はかしましく鳴き立てながら旭の胸に顔をすり寄せている。人魚の頬には傷がひとつある。旭は血のにじんだその傷に、いとおしそうに頬ずりし、やさしいまなざしを人魚の瞳にじっと注ぎながら、独り言のようにささやいた。


「そうですね……そろそろ参りましょうか」

「参るって……どこへ?」


 翼のかたわらに歩み寄りその肩に手を置きながら、奈々が尋ねた。旭はうつむいたきりで、こちらを振り見ようとはしなかった。


「……私は人魚とともに参ります。海神わたつみの国へと」


 私は長く生きすぎました、と旭は言った。その時、少女たちはこの老尼の疲労を知った。人魚と生きるという悦びのために払った多くの代償が、数々の別れが、永遠の安寧から追放された苦しみが、老尼の魂を蝕んでいたのだ。人魚と会う悦びがそれ以上のものであったとして。


「人魚さまはこのままではただの獣に成り下がってしまう。いつしか知性も記憶も失い、この島のことも、私のことも忘れてしまうでしょう。そうなる前に私はいきたいのです」

翼、と旭は静かに名を呼んだ。翼は顔を上げられずに、声を震わせながら返事をした。


「ありがとう。こうして私が旅立つことができるのも、貴女のおかげです」

「……この島はどうなるんですか?」


 翼の問いに、旭はただ首を振った。


「もはやこの島に私は必要ありません」

「でも……でも、あたし、まだ旭さまからなんにも教えてもらってません……っ!」


 勢いよく旭を見上げた翼の瞳は、涙に染まっていた。蒼玉の瞳――ああ、これこそ、自分が翼を選んだ理由だったのかもしれない。内省のうちに、旭はふふっと声をこぼして笑った。


「言ったでしょう、翼。わたくしは貴女に何かを教えようと思ってここに呼んだのではありません。むしろわたくしが貴女を頼ったのです……さあ、翼、これはわたくしが貴女に差し上げられる、たったひとつのはなむけです」


 奈々に促されて、翼は踏み出した。旭は留め置かれた小舟の方に屈みこんでいたが、近づいてきた翼に船底から拾い集めたものを手渡した。瑠璃色の数珠玉である。


「これを持っていて。悪しき夢や幻術から貴女を守ってくれます」


 まだいくらか納得のいかない気持ちで礼を言いながらも、涙を拭った手で翼は数珠を受け取った。


「忘れないで、翼。貴女は強い。わたくしが何もしなくとも、貴女は絶望の淵から立ち上がったじゃありませんか。なによりも、貴女には仲間がいる。いつだって駆けつけてくれる友人が」


 旭さまは翼の手を両掌りょうてで包み込まれた。祈るように合わせたてのひらで。






 東の空からのぼり初めた日が洞窟の水を藍色に透かすころ、少女たちは島を出た。まだ定期便の出る時刻ではなかった。少女たちが乗っているのは、島の漁師が操縦する一艘の漁船である。漁船はひたむきに乙姫市つばいち港へと駆け急ぐ。

朝陽を日に焼けた顔にまともに受けて、船を操縦するのは井頭である。いつもにまして黙りがちな井頭の脳裏からは昨晩の片鰭岳の悪夢が離れない。忘れられるはずもない。ただひとつ、あの惨劇が井頭に知らしめたのは、その存在を知り得るはずもなかったものの存在である。


 片鰭岳の頂きで幼児のようにむせび泣いていた井頭がようやくふらふらと山を下り、そしてそこでよそものの少女たちの姿を見つけたとき、井頭はこの少女たちを一刻も早くこの島から逃がさねばならないと思った。そうでなければ島民たちはこの少女たちを疑うことであろう。恐怖と憤怒に駆られ、その無垢な瞳の輝きも見えぬままに、少女たちを糾弾するにちがいない。以前の自分のように。ああ、これから島はどうなることだろう。人魚さまはもうこの島を見放してしまわれたのだろうか。だとすれば、我々はこれからは人の手だけで……



 井頭の性急でつっけんどんな親切が何を示すかを知らぬまま、翼と奈々は与えられた毛布に身を包み、手を取り合って、船尾にたたずんでいた。海神の国は東の海の果てにあるという。今こうして見守っているあの水平線、朝陽が金色に燃え立たせているあのあたりだろうか。それとも、もっと――


 二人はふと顔を見合わせた。


「あけましておめでとうございます、奈々さん」


 船のエンジン音にかき消されないように、翼が耳元でささやくと、奈々はぎゅっと強く手を握り返してくれた。


「あけましておめでとう、翼ちゃん」











 ……そうしたらね、わたくし、もう二度と貴女のそばを離れないと誓うわ――






 嘘つき、嘘つき、大嫌い……っ!





 誰かが泣いている――




【第五章 終了】

To be continued…

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