17-4 「僕は一体どうしたんだ?」

 頬に触れている少し湿っぽい感触には覚えがあった。草の上でまどろんだあの朝、こうして夕景に起こされた。これは紫蘭の記憶…………

 

 ……いや、違う。なぜなら彼女の声がする。それに、ここには夜露に濡れた草の冷たさも、夜のうちに冷えた土の硬さもない。温かくやわらかなものがこの身を包んでいる。まさしくのあの朝、紫蘭はこんな目覚めを望んだのであった。


「ダメだってば、はなちゃん!結城君が起きちゃうじゃない」


 ソファの上に横たえられた司から愛猫を引き離そうとしていた舞は、司の瞼がかすかに震えるのに気がついた。瞼の下から滲み出たものがひとしずく、頬骨をかすめてクッションカバーに伝っていく。薄っすらと開かれた瞳の色はそのひとしずくに洗われた後で、澄明にきらめいた。


「結城君……!」


 司が最初に捉えたものは、安堵と喜びの声を上げる舞ではなく、恐らくはなちゃんの顔であっただろう。なにせ、すぐ目の前にあったのだから。司が指先をもたげてはなちゃんの頬に触れると、気難しやのこの美しい白猫は、めずらしく見知らぬ人間に気を許した様子でにゃあと鳴き、ほんの一瞬頬を司の手にすり寄せて、それからもう満足したように、ぴょんとソファの肘掛から飛び降りて去ってしまった。おかげで司の目にもようやく舞の姿が映り込んだ。


 嬉しいやら気恥ずかしいやら、でもまだどこか心配やらで胸がいっぱいの舞は、笑顔にもなり切れないへにゃっとした表情を浮かべて、何も言えずに立ち尽くしていたが、司がふっと笑ったのを見てぱちぱちと目をしばたかせた。


「な、なに?」

「いや……ただ、変な顔だと思って」


 「へ、変な顔?!」おおいにショックを受けながらも、舞はふと思う。今の司の表情は以前の司とよく似ていると。まるで「前の司」が戻ってきたみたいだ。


「そ、それより、結城君!」


 でも、やっぱり違うのだ。呼びかける名が違うから。


「体は何ともない?」


 そして、それはきっと悲しいことではない。


 司はゆっくりと上半身を起こしながら、怪訝そうに自分の体を検めていた。琥珀に噛まれた怪我はすでに治したし、濡れた体もタオルで拭ったし、服も全部着替えたから(舞の父親が着替えさせてくれたのだ。ちなみに司が今着ているのも父親のお古である)、風邪も引いていないはずなのだが。


「いや、特に。だが……」


 司は急にはっとして、


「トビーは?!」


 と勢い込んで尋ねた。


「大丈夫!先にお家に帰ってもらったよ。はなちゃんと一緒になってすごい暴れまわるから、うちが壊れそうで……」

「僕は一体どうしたんだ?」


 司が突き詰めた表情で尋ねる時、今度こそ司の質問になにひとつ隠すことなく答えられることを、舞は嬉しく思った。舞は、薄紫の視線が放り投げられている司の膝のあたりに歩み寄って、カーペットの上にそっと腰を下ろした。


「琥珀に噛まれて、川に落ちたところまでは覚えてる?それからね、私と左大臣で川から引き上げたの。怪我は、後から駆けつけてくれた玄武が治してくれたよ。それからルカさんの家の車でうちに送ってもらったの」

「なぜお前の家に?」

「お母さん、びっくりさせないように。何があったかと思ってびっくりするでしょ?一応うちのお母さんから連絡してあるから心配しないで。それにね、話したいことがあったの……」


 舞は長いことためらっていたが、司が力なくももの問いたげな視線を上げると、やっと決意をしたように立ち上がり、何も言わずに二階へ続く階段を昇りはじめた。寝室に入った舞は充電器につないだ携帯電話を取り上げながら、机の隅できらりと光ったものに目を留める――ハート型のガラスのオルゴール。舞の誕生日に、司がプレゼントにくれたものだった。


 居間へと戻ってきた舞は、やはり何も言えぬまま、携帯電話の画面を司に向かって差し出した。司がそれを読んでいるあいだ、舞はソファの足元に正座をして、ただじっと司の表情を見つめていた。携帯電話の画面の白いライトを受けている司の表情に大きな変化はなかった。


 はあ、と溜息をついて、司は目を逸らして携帯電話を舞に押し返した。


「余計なお世話だ」

「そうだよね……」


 舞はしょんぼりとしてつぶやいた。


「ごめん」

「だいたい今何時だと思ってる?」

「……八時半」

「もう遅すぎる」


 その語尾がほんの少しかすれていく調子に、舞はふっと無意識に、なにがしかの期待をして司の顔を見上げる。そんな舞とちらと目が合って、司はまた溜息をつきながら、携帯電話をことさらに舞の方へと押しやった。舞はあきらめてそれを受け取った。しかたがない。どれだけ強く願ってもかなわないこともある。世の中には舞の手ではどうしようもないこともあるのだ。


「……帰る」


 ソファを立って廊下を突き進んでいく司の後を、舞はとぼとぼとついていった。和室に控えていた家族がそっと襖をあけてこちらの様子をうかがっている気配がしたが、今はとてもかまっていられない。当面の間、何も聞かないでいてくれることを願うだけだ。


 京野家の玄関を出た司は、門の前に停まっている高級車に眉をひそめたようだったが、取り立てて言及もせず、存在そのものを無視することにしたようだった。それは司の帰宅の足にルカが気を利かせて手配してくれたものではあったのだが。門の前まで見送って、舞は小さく「おやすみなさい」を言った。それから「気をつけてね」とも。


「琥珀は倒せたか?」


 振りかえりはせずに、ただ静かな住宅街の道路の真ん中に足を止めて司が尋ねる。その後ろ姿の半ばは街灯に照らし出されていたが、半ばは夜にかくされて、か細く見えた。


「うん、倒したよ」


 か細い背中に縋りつくように、舞は小声で答える。まだ胸のなかに燻るものがある。


「……それなら心配ない」


 きっとそれが「おやすみ」の代わりだったのだろう。あるいはなにかもっと違う言葉の……舞がそれを占っているあいだに、司はもう帰路を歩みはじめていた。司の背中は夜の闇に吸い込まれるように消えかけて、雲間の月に再び照らし出される。




 余計なお世話だとつぶやいた時から心境に変化はない。あの瞬間、決して嘘をついたわけでもない。それなのになぜ帰宅を急く足が躊躇するのだろうか。


 とある十字路に差し掛かって立ち止まった司は、しばらくじっとうつむいたきりでいた。次第に握りしめた拳が震えはじめる。少し伸ばした爪が掌にぎゅっと食い込むほどに。


(どうして僕が……!)


 覚えている。なぜだか知っている。幼いころの交通事故のあの夜、母を責め立てていた父の言葉を。卑劣で臆病な言葉の数々を。父のいなかった空白の時間、司には不足などなかった。なかったけれども、病弱な身で、女手一つで息子を育てなければならなかった母が、どれほどの労苦を背負い、どれほどの孤独と立ち向かってきたかもよくわかっている。そして、その母親は、司の帰りを今か今かと待っているのだ。それだというのに。


(どうして、僕は……)


 この感情はなんと不条理なのだろう。なんと愚かしいのだろう。なんと苦しく、なんと切なく、そしてなんという強さで司を惹きつけることだろう。それはまるで、重力のように。人々はその戒めに縛られながらも、そこに無数の日常の色どりを、生命の色彩を施す。


 遅すぎるとわかっている。遅いのは司だけではなく、あちらにしたって同じことだ。だが、二人がともに遅すぎたからこそ、出くわせる地点があるのかもしれない。あの雨の日、二人がそれと知らずに再会を果たしたように。


 司は十字路の真ん中でくるりと方向転換すると、胸苦しさと苛立ちを込めた足でめいっぱい地を蹴り、駆けだした。




「…………もっとご一緒にいて、父上……お願い、こっちを見て……」


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