17-3 その手を


 ……あれは賊であったのか。それとも、白菊帝の最後の末裔を絶やすという使命を負って紫蘭を追ってきた京の刺客であったのか。今となってはわからない。



 細やかな水泡みなわがまとわりつき、僕の体を水底の闇へと引き込むのを感じる。そして、紫蘭ぼくの記憶はそこで…………




 ……いや、



 やはり彼女はそこにいたのだった。水底の闇のなかに。微笑んで、手を差し伸べて。長い樺色の髪を玉藻のごとく靡かせ、翡翠の瞳を優しくきらめかせながら、彼女が僕の名前を呼ぶ。


「結城君」


 結城……?


「大丈夫だよ。私が助けるからね、絶対に離したりしないからね」


 彼女の手が僕の手に結ばれる。水の冷たい抵抗など、はじめからないもののように、やすやすと。彼女のぬくもりが掌に滲む。


「どうして……?」


 どうして暗い水底だというのに彼女の姿だけが鮮やかに見えるのか。その声がまっすぐに僕の耳に届くのか。それに、どうして僕はこんなにも苦しくて、泣いているのだろうか。


 彼女が笑って、水のなかで僕の身を抱き寄せた時、僕は思い出す。そうだ、それは紫蘭ぼくがかつて彼女にした仕打ちを覚えているからだ。彼女の純情をもてあそび、突き放し、傷つけた。それはただ自分自身が傷つきたくないというその一心で。


「……大好きだから」


 紫蘭さんのことが大好きだから、と、以前も彼女はそう言った。桜陵殿おうりょうでんの石垣を乗り越えて。でも、その彼女をさえ僕は突き放したのに。


「私は、結城君のことが大好きだから」


 結城君――彼女にそう呼びかけられて、僕は初めて気の遠くなるほど長大な時の流れを知る。しかし、一つの世の終焉と始まりを超え、あれほどの仕打ちの後で、そしてあれほどの悲劇の後で、彼女は今もなお僕を愛し続けているというのだろうか。僕にはそれがにわかには信じがたい。信じがたいのに信じたいと願っている。彼女と出会いながら疑い続けた前世があって、それでも再び彼女と出会えて信じたいと思えた現世が、奇蹟のように僕に降りかかって。


「……京野」


 僕は彼女の手を強く握り返す――――







 ……篠川のほとりに一頭の金色こんじきの獣がたたずんでいる。かつて彼がこの辺りを自由に疾駆し、雨に紛れて獣を捕らえていたその時代も、彼はこの川に水を飲みにやってきたものだ。その時の川辺はもっと彼にとって親しみやすく、草も土も風もその足裏に馴染んだものであった。今はそこらに人間のにおいが染みついている。


 気に食わなさそうに、琥珀は低く短くうなった。


 ボルゾイたちは疲労して草の上でぜいぜいと荒い息を吐いている。もう琥珀にとっての危機ではないから敢えて構わないでおく。琥珀の足元にたたずむ黄金色の子犬は、さっきから川面を見下ろしたり、琥珀の顔を見上げたりを交互に繰り返しながら、不安そうにくんくんと鳴いている。しかし、琥珀の眼はじっと川面の上に据え置かれたまま、子犬の方を見遣ることなかった。


 見上げる月が夜の漆黒にあくまでも冷然と身を嵌め込んだのとは対照的に、黒い水に洗われた月は陶然としてあらかた形を失い、金色の藻のように岩陰に漂っている。かつて忌まわしい人間どもと対峙した時は雨の降らぬことが琥珀にとってあだとなった。あの篝火……身を焼かれる苦痛よりも、憎悪の方がはるかに勝った。数百年に渡る長い眠りの間にも、その憎悪は片時たりとも忘れたことはない。しかし、行き場をなくした幼い人間どもの魂に関しては別だった。人間どもが皮肉にも琥珀の父性を信仰するゆえ、水子とやら呼ばれる者たちはいつのころからか、眠れる琥珀の周りに群れ集うようになった。琥珀はか弱い者たちを脅かそうとする者から彼らを庇護し、世話をしてやったものだ。


 だが、そうだ。やはり人間どもを許したわけではない。思い出すのはやはり煌々と燃え盛るあの緋色の篝火のこと。この身を焼いたほむらのこと。人間どもも落ちぶれたものだ。よりによってあの邪悪なあやかしと手を組むとは。あいつはここ最近うろうろしているのには琥珀も子犬も感づいている。

……かつて琥珀を焼いた焔の色が、再びそのまなこに燃え上がる。水底よりひとつ浮かんできた小さな泡沫うたかたを琥珀は見逃さなかったのだ。今宵が雨の夜でなかったために。


 川岸から飛び上がった琥珀は、泡沫に続いて、月影に浮かび上がった黒い澱みがその正体を現すより早く、その影に喰いかかった。飛沫があがり、獣はその顎のうちで憐れな獲物をしとめたかのように見えた。だが、それはじっと待ち構えていた獲物にしてはあまりにも小さすぎた。なにせ、琥珀の牙の隙間からその腕ひとつ突き出ていないというのだから。


 異変に気がついた琥珀が、咄嗟に口を開いたその瞬間、くまのぬいぐるみの小さな影がそこからぴょこんと飛び出してきて、水面に降り立つとともに狩衣姿の翁へと変身を遂げた。


 獣は唸った。しかし、獣はおのれの唸りのなかにも、かすかな水音を聞きつけた。振り返ろうとした獣の眼光を、水面の色を返して黒鉄色に鈍く閃く剣の刃がさらっていく。その刹那、薄紅色の花びらが獣の鼻づらをそっと撫でるようにかすめた。


『桜花爛漫……!』


 少女のささやき声を顧みる琥珀は、夥しく舞い散る花の嵐を鼻先に浴びて、牙を剥きながらもわずかに目を細めた。もしかすると獣は遠い春の日を思い出したのかもしれない。この禍々しく輝く魔物のごとき巨躯を持つ獣にも、時代があり、その頃には傍らに妻もおり、その足元には子犬たちがじゃれついていたはずであるから。そして、その時の彼は野生そのものであった。ただ野性のままに獲物を追い回し、その肉を貪り食う、そうした彼のごくあたりまえのささやかな営みに、人間どもがどんな目を向けようと、どんな恐怖と畏怖とを抱こうと、彼には関わりのないことだった。人間ども?人間など、憐れな怯えた野兎に等しかった。震えあがる彼らの前を、琥珀は悠然として群れとともに駆けたものだ。そうだ、人間どもなど視界にも入らなかった、ただ野生の喜びに満ちていた、あの春の日――


 が、子犬の鳴き声を耳にした時、彼はたちまち憎悪の獣に立ち返った。武器を持った人間どもの群れが、救いを求めて鳴く子犬たちを閉じ込めた檻を囲んでいた。燃え立つ篝火はそのあまりの眩さゆえに群れ集う武士もののふの顔色を奪い、黒々とした巨大な塊のように見せていた。あの炎の色が点じられるとともに、琥珀の眼差しは桜の花弁を焼き尽くすかのように見えたが。


「琥珀」


 少女は怯まず呼びかける。彼女は細い左腕に、傷ついた少年の体を支えている。子犬にやたらと構っていたあの少年だ。水に浸って黒ずんだ衣服の胸元に目を凝らせば、傷口のあたりが赤く滲んでいるのが見える。しかし、その胸は確かに上下していた。


 桜の嵐を起こして突き出された少女の右腕は、まだ琥珀に向けられたままであった――食いちぎろうと思えば食いちぎることができる位置。


「ごめんなさい……でも、大丈夫だからね。トビーちゃんのことは、何があっても私たちが守るから」


 薄紅色の花弁が夥しく舞い、少女の髪と衣装から、ぽたぽたと雫が落ちる。その目まぐるしく、わずらわしい煌めきのなかで、少女の翡翠色の瞳だけがまっすぐに彼を見つめていた。突き出された右手がためらうように差し伸べられ、彼の頬に触れる。そう、今こそ食いちぎってやればよかったのだ。そうすれば、たとえ花の嵐にこの身はさらわれようとも、憎むべき人間どもに報いることはできたのだから。


 ……けれども、彼はそのまま遠い春の日へとさらわれることを選んだ。別れの間際、川岸で前足を水に浸してわめく子犬をほんの一瞥だけして、少女の瞳を睨むようにしかと見据えたのち、ふっと瞼を閉ざして。そして、琥珀は去った。少女は、閉ざされた瞼の内にもはや憎悪の篝火のかき消えたことを知っていたが、それでもというべきか、それゆえにというべきか、少女の胸のなかに燻るものは、長いこと消えることはなかった。




「……さようなら」



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