13-5 雨夜の訪問者

 舞が玄関まで駆けつけたとき、父親はたいそう不機嫌だった。娘の帰りが遅くなったうえに、中学生とはいえ一つ屋根の下に男女が二人きりでいて、しかも仲良く(父の目からすれば)食卓を囲んでいたというので、父親からすればけしからぬことのオンパレードであったわけだ。それでも司が愛想こそなかったものの、礼儀正しく父親に挨拶してくれたのに、舞は少なからず感動した。


「そういえば、君は舞と幼馴染なんだってね」


 と、屈みこんで犬の背を撫ぜながら、いくらか態度をやわらげて、舞の父が言った。司がほんの一瞬困ったような表情をしてみせるのを舞は見た。


「そう聞いてますが……」

「だったら、きっと以前に会ったことがあるんだろうね。ところで、舞から聞いたけど、お母さんは大丈夫かい?」

「はい、明日の朝には退院できるとのことです」

「それならよかった……しかし、今夜はくれぐれも気をつけてくれよ。ほら、このところ色々あるからさ。もし、何かあったら連絡してくれ。これ、電話番号だから」


 周囲に聞こえぬように声をひそめて舞の父が言うと、司は礼を言って頭を下げた。舞は今夜一晩、一人で留守をしなければいけない司の不便と孤独を思った。舞もつい忘れがちであるけれど、司は傍目に見せないだけでさまざまなものを背負っているのだ。けれど、決してそれを人に見せることはない。たとえ今宵何があったとしても司は絶対に電話をかけてこないだろう。誰かに頼るぐらいならば、どれだけ辛かろうとも自分ひとりで何もかも片付けてしまう。舞はそれを憐れむわけでないけれど……


 戸外の肌寒さに触れたせいか、急にうどんの温かさが思い出された。レインシューズを履いた舞は父親の隣に並んで、街灯の白い光を背に負った。


「結城君、おうどんごちそうさま。長いことお邪魔しました」

「ああ……」

「トビーちゃん、またね」


 子犬はフローリングの床の上で爪の音をかちゃかちゃと立てて暴れまわりながら、返事をするようにぶんぶんと尻尾を振っている。「その名前で呼ぶな」と司が低くつぶやくのを聞きつつも、玄関前の軒先で傘を広げて舞は迷う――を言った方がいいだろうか。振り返った舞の目が、父子おやこを見送っている司の瞳とぶつかった。宵闇のような紫色の瞳だ。


「どうかしたか?」


 司の言葉がこんなにも無邪気に聞こえたのはこれが初めてだった。舞の胸のうちで秘密が焦れた。落ち葉の下で燻る焚火の残り火のように。


 でも…………


「ううん、なんでもない!お母さんによろしくね」


 舞は傘の下でくるっと向きを変えて一足先に門を出た父親の後を追いかける。司が怪訝な顔しているのは知っていたが、やはり何も言わなくてよかったと思った。胸の中の秘密も、雨の音に濡れて次第にうとうとと眠りはじめていく。


「それで、あの結城という男の子とは本当に何もないんだな?」

「な、なにもないって!」

「いい子だとは思うがお父さんは認めないぞ」

「だからそーいうのじゃないの!」





 家事を片づけていたら寝るのがだいぶ遅くなってしまったが、どうせ明日は休みだから構わない。家中の雨戸を閉じ終わって二階の自室へと引き上げようとすると、子犬がさびしげにズボンの裾に縋ってきた。いつもなら部屋に入れないことにしている。だが、今夜は……司は屈みこんで犬を抱き上げると、重々しい足取りで階段を上っていった。


 ベッドの上に子犬を放つと、純白のシーツに降り立った子犬はくんくんと辺りを嗅ぎまわって探索をはじめた。寝転がってからも司はしばらく寝入らぬまま、まず携帯電話が受信していた東野恭弥からのメールを一読したあとで放り出し、枕元のランプを頼りに本を読み始めた。が、内容は頭に入らぬまま、目は活字を離れて犬の方ばかりを追っていた。子犬はようやく寝る場所を定めたらしく、司の腹のあたありのシーツを引っかいて理想の寝床を作っていた。


 ……いつの間にか本は閉じていた。司は子犬の小さな背にうずめて、その小さな身を両手で抱きすくめた。こんな風に司が感情を示したことはなかったので子犬は落ち着かなさげなようすであったが、やはりどうしたって別れのさびしさには耐えがたいものであるから。


(やはりうちでは飼うことはできない)


 司は子犬の毛のあたたかな闇のなかで物思う。子犬の背は日向に干しておいた布団のような、焼き立てのビスケットのようなどこか甘いにおいがした。


(母さんは完治したわけじゃないんだ。そんなことは最初からわかっていたじゃないか。うちでは面倒はみられない。そうだ、僕一人ではとても……明日の朝いちばんに交番に連れていこう。母さんが帰ってくる前に。それで永遠にお別れだ)


 司はぱっと子犬の背から離れるとそのまま枕に顔を埋め、子犬が湿った鼻先でつついても決して顔を上げようとはしなかった。




 雨の音が聞こえる――




 いつの間にか子犬は眠り、司もまた悲しみの夢の浅瀬に足を浸しかけたところであった。その時、戸外でなにか物音がした気がして、司はまどろみから目を覚ました。カタン、というかすかな音――そうだ、郵便受けの音だ。郵便受けに何かが差し入れられたときの音。


 デジタル時計は午後十一時過ぎを指している。いくらなんでも新聞ではあるまい。こんな時間に郵便が届くはずもなし、今夜はそれほど風が強いわけでもないから風のせいでもない。考えられるのは野良猫ぐらいだ。それ以外であれば……


 母親の病気は今に始まったことではないとはいえ、一人で夜を明かすのは司にとって初めてのことであるから、気づかぬうちに緊張していたのも無理からぬことであった。しかし、司は年頃の少年らしくそんな自分を叱りつけながら、ランプの灯りを消し、携帯電話を持って、そっと階下へと降りていった。


 まずは居間にあるインターホンのカメラで外部の様子を確かめる。スピーカーから流れだすくぐもった雨の音の大きさに司はびくりとした。ぼんやりとした灰色の画面に目を凝らすと真向かいの家の輪郭が見えてきたが、画面のなかで動くのは雨の影ばかりだ。人の気配はない。


 司はインターホンのカメラの電源を切ると、床板の軋む音にさえ神経をとがらせながら暗い廊下を慎重に伝って玄関へと向かい、ドアスコープを覗きこんでみた。やはり人影はない。気のせいであったのだろうか。いいや、音は確かにしたのだ。結城家の郵便受けになにものかが確かに触れたはずだ。


 司は携帯電話を見た。何かあったら連絡してくれ、と舞の父親は言っていた。と、自嘲の笑いが司の唇を歪ませた。これしきのことでを騒がせてどうする?もし何もなかったらとんだ笑いものだ。自分のことは自分でできる。これまでだってそうしてきたのだから。


 暗い玄関の床から足先だけでスニーカーを探り出して突っかける。身をよせている扉の冷たさが皮膚に沁みわたる。数分間か数十秒か、いずれにしても司にとっては永遠とも思われる時間じっと息をひそめて待ったあとで、司は汗ばんだ手を寝間着のズボンで何度も拭い、そろそろとドアノブを押した。


 頬がはじめに暗闇に触れた。冷たい風が前髪に触れ、雨音が急に間近になる。扉から顔を突き出してうかがってみても、猫の子一匹いやしない。


 音もなく外の世界へと滑り出る。いくらなんでも警戒しすぎかと自省しつつもどうしても投げやりにはなれずに、いざというときのために家の扉をあけっぱなしにしたまま、スニーカーの爪先で足元を探るようにしながら階段を下りた。雨が降りかかるのも今は気にならない。無事に郵便受けまでたどり着くと、司は携帯電話の懐中電灯機能で手元を照らしながら、郵便受けの中をのぞいてみた。先ほどと同じカタンという音、そして――――何もない。


 そこでようやく司は息をつくことができた。そこでふと思ったのは、もしかしたら何者かが郵便受けのなかに何かを入れたのではなく、何かを抜き取ったのではなかったのかということだ。とすれば盗難ということになるが……それはまた明日考えればよいだろう。スカーレット・オハラの受け売りではないが。


 階段をのぼろうと身を翻した途端、司にとっては左側、通りの向こうから声があがった。男性の声だ。何やら叫んでいるように聞こえてくる。すでに恐怖から解放されていた司は、ほとんど反射的に階段を駆け下りて門を飛び出した。が、通りを数歩駆けたところで司の足はすくんだ。司は通りの向こうに予想だにしていなかったものを見出したのである。


「なっ……!」



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