13-6 神なる獣

 その低い唸りは冷たい霧となって地を低く伝い、司の皮膚をぞくりと粟立たせる。猫の子どころではない。街灯に照らされて、されどその白さに染まり切らず、金色こんじきにきらめく毛並みを闇夜に浮かび上がらせている巨大な獣がそこにたたずんでいた。並んだ耳は夜空の漆黒を慕う星のごとく雨空に向かって佇立し、そのまなこは緋色に燃え立っていた。司はかくも神々しく、かくも恐ろしい獣をいまだかつて見たことがない。だからこそわかる。これは神なる獣であると。


 かつて狼によく似た怪物に追われ、舞とともに苧環おだまき神社へと逃げたことがある。しかし、あの怪物とこの獣とが本質的に異なっていることは直感でわかった。あの怪物から死臭のように漂い出していた邪悪な気が、この金色の獣にはない。しかし、この獣にも憎悪はあった。人々を畏怖させ、その場に立ちすくませるほどの憎悪が。臓腑を底から揺るがし、血液をも凍りつかせるほどの憎悪が。


 ふと、それまで獣の姿に魅入っていた司は、獣の前に誰か人間がうずくまっていることに気がついた。どうやら男性のようである。生きているのか死んでいるのかはわからないが、先ほど声をあげたのはまちがいなくあの男性だろう。獣の緋色の瞳が司を捉えて、地を揺るがすほどの唸りが放たれるとき、司は男性がうずくまった姿勢でこちらを振り向くのを見た。眼鏡が街灯に反射して光ったのでそれと知れたのだ。男性が叫ぶ。


「逃げろ!!」


 怯えて一歩後ずさった司をめがけて、獣は駆けてきた。遠くに見えた金色の被毛がほんの五秒と数えぬ間に、目の前に迫っていた。足の裏がまるで地面に貼りついてしまったかのようだった。太腿の筋肉が石のように重くて、司の神経とは切り離された何かのようだった。駄目だ、間に合わない……!獣の生温かい吐息が顔にかかる。


「やめろッ!!!!」


 さながら山のごとき獣の巨体の向こうから男性が叫ぶのが聞こえてきた。獣の口腔と牙の色とを確かに見たのに、それが遠ざかったのは男性のおかげであるらしい。背後を振り返る獣がわずらわしそうに眉間に黒い皺を寄せる様子までもが司にはつぶさに見えた。男性はどうやらうずくまっていたところから死に物狂いで駆けてきて、獣の長く太い尾にしがみついたらしかった。無論一振りで吹き飛ばされてしまったわけだが。男性が遠からぬブロック塀にまで跳ね飛ばされて黙り込んでしまうと、獣の憎悪の松明たいまつは再び司の方を見た。


 ああ、これこそが例の事件の犯人だったわけだ……不思議にも冷静に司は考えていた。喰い殺されることへの恐怖が、あらゆる感情を麻痺させてしまったのだろうと思われた。しかし、嫌な最期だ。生まれ変わってもこのざまか。前世だって相当ひどかったとはいえ。でも、あの時と同じだ。やはり死ぬときはひとりぼっちなのだ。そうだ、もしかしたらこんな風に生まれ変わってもなお無残な最期を遂げるのも紫蘭の罪なのかもしれない。



『……駄目ッ!!!!』



 少女の声が耳の奥に響いた。掌によみがえる朽ちた柄杓の感触――はっとして見開いた瞳に迫る、獣の影。


「舞……」


「結城君!!!!」


 肩を突き飛ばされた司はそのまま後ろ向きに地面に倒れ込んで、見開いた瞳をしばたいた。桜色のやわらかなものが視界をよぎった気がしたのだった。それは決して間違いではなかった。いくらか余計なおまけがついていたとはいえ。


「姫さま、とうとう見つけましたぞッ!!」

「わかってるよ!あんまり大きい声出さないで!みんな起きちゃうから!!」


 そう怒りながら自身も十分大きな声で怒鳴る桜色の衣装をまとった少女と、そのおまけの狩衣かりぎぬ姿の老人が一人。老人の方が白刃を振るうと、獣が苛立ったように飛びのくのが見えた。


「結城君、怪我はない?」


 老人が獣と対峙している間に、少女が顔だけで司を振り返って尋ねる。


「京野……」

「今は京姫だよ」


 そう言って少女はなぜだか少し悲しげに微笑むと、きりっと表情を変えて獣の方へと向き直った。


「結城君、とにかく家のなかに避難して。ここは私たちでどうにかするから」

「待て、僕の他にも人がいる」


 司はふらつきつつ立ち上がって獣と左大臣が睨み合っている右斜め後方あたりを指さした。京姫は人影を認めたのであろう。すぐにこくんとうなずいた。


「大丈夫。絶対助けるから」


 そう答えるか細い後ろ姿が、司の目には眩いほどに凛々しく映えた。


「さあ、家に戻って」



 その時、この場にひどく不似合いなキャンキャンという鳴き声が聞こえてきて、京姫と司とは同時に眉をひそめた。恐らくは左大臣も同様であったろう。しかし、鳴き声に最も敏感に反応したのは金色の獣で、左大臣の刃を見もせずにかわしたのち、尖った耳をぴんと立てて雨雲の方へと顔をもたげると、すぐに鳴き声のする方を察知して、ぱっと燃ゆる瞳をそちらへ転じた。人間たちの目もそれにならった。


 ……子犬だった。司の部屋で寝ていたはずの子犬が、いつのまにか階下へやってきていて、玄関から飛び出してきたのである。子犬は門へ続く階段を転げるようにして駆けおりてくると、門の下をするりとすり抜けて、雨の道路に躍り出た。そして、京姫や司の方には目もくれず、尻尾をちぎれんばかりに振りながら、獣に向かって短い足でとてとてと駆けていく。司ははっとして叫んだ。


「バカ、戻れッ!!」

「結城君、ダメ!」


 子犬を追いかけようと踏み出した司を制したのは京姫の声ではなく、獣の険しい睨みと唸りであった。しかし、司がひるんだのはほんの一瞬のことで、すぐに京姫の手を払いのけ、子犬を追って駆けだした。雨が針のように頬に、眉に襲いくる。その間にも恐れ知らずの子犬はまっすぐに獣へと向かっていく――あのバカ……!あいつはお前の父親じゃない。喰い殺されるぞ。八つ裂きにされてしまう……駄目だ、戻るんだ。せめて立ち止まってくれ、頼むから。伸ばした掌にこもった熱気は雨夜に逃げていく。


「駄目だ、行くな……!」


 と、金色の獣がぱっと地を飛び上がったかと思うと、子犬と司の前に立ちふさがり、子犬の頭の上に屈みこんだ。凍てつくような絶望感が司の足を止めた。トビーが食い殺される……!


 だが、獣は子犬に牙を剥かなかった。子犬のにおいを嗅いだとき、獣の眼からはおどろおどろしい緋色のかがやきが消えた。子犬の嬉しげな声が静まり返った住宅街に響き渡る。獣はちょうど親犬が自分の子を咥えて移動させる時のように、自分の牙ひとつ分の大きさもない子犬の首元を慎重に咥えあげた。そして、ちらりと人間たちを一瞥すると、疾駆して夜の闇に消え去ってしまった。





 長いこと、残された人間たちは唖然として立ち尽くし、雨に打たれ続けた。三人が我に返ったのはブロック塀にぶつかって気を失っていたのらしい男性がうめき声をあげたからだ。変身を解いて、舞が最初に男性の元へと駆けつけた。司も舞とテディベアの後を追ったが、その足取りはうつろであった。


 司も薄々気づいてはいた。この男性が、子犬を拾った日に司に傘を貸し、そして今日の午後水仙女学院で再会を果たした男性であることに。けれども、うつ伏せになっている男性を抱き起したときの舞の言葉は、司には予想だにしないものであった。


「結城君のお父さん?!」


 舞はぱっと口を覆った。が、もう後の祭りであった。

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