13-2 「うちの子になってもらえば」


「いいじゃない。飼い主がいないんだったら、うちの子になってもらえば」


 母のあっけらかんとした物言いに司は唖然とした。



 連れて帰った子犬にシャワーを浴びさせ、ドライヤーで乾かすのに司は手間取った。なにせ生まれて初めての作業であることだし、母は仕事に出かけて留守であったために誰にも助けを求めることができなかったのだ。子犬はシャワーを嫌がりこそしなかったものの、はしゃぎまわって司の手のうちをあっという間にすり抜けてしまい、なかなか泥を洗い落とさせてはくれなかった。半時間ほども悪戦苦闘してようやく半分ほどのサイズになったところにドライヤーをあてる際中にも、子犬は絶えず司の手を甘噛みしたり、短い前足で司の腕に絡みついたりしてせわしなく、あたたかい風を全身に満遍なく浴びようなどといういじらしい心がけはみせなかった。


 子犬が毛並みが黄金色こがねいろに輝くころには、司はへとへとに疲れきっていた。思わず司は居間のソファに座りかけたが、足元にからみつき制服のズボンの裾を引っ張ろうとする子犬をぼんやりと撫でているうちに、せめて水ぐらいはやらねばと気がついて、仕方なく立ち上がった。キッチンから適当な皿を取り出して水をやると、子犬は風呂上りのせいかよく飲んだ。司はそれを見ると疲れのうちにもなぜだか心なごんだ。


 子犬はそのままあたりを嗅ぎまわり、絨毯の隅をしばらく引っ掻いていたが、司がふと目を離したすきにそこに倒れ込むようにして眠ってしまった。司はようやく息をついた。


 これからどうするかということについては大体の目星がついていた。これから帰ってくる母親に事情を話し、それから雨があがったら交番に行って犬を預ける。先ほどの男性には一晩ぐらいならとは言ったものの、それはあくまで最長の場合であって、どうせ手放さなければならないなら早いに越したことはない。あまり一緒にいると情が移りそうだ。今でさえ、静かに上下している黄金色の腹が視界の端に映るのから必死に目をそむけているというのに。


 しかし、もし飼い主が見つからなかったどうなるのだろう――いや、自分の知ったことではない。司はたまたまこの犬と出会ってたまたまこうして連れ帰る羽目になっただけだ。自分はこの犬に対してこれから交番へ預けにいかなければならないという以上の義務を持たないし、何の責任もない。この子犬の今後の運命がどうなろうと、自分はどうせ知り得ないのであるし…… 



「いいじゃない。飼い主がいないんだったら、うちの子になってもらえば」


 ところが、帰ってきた母親が靴を脱ごうとしゃがみこんだ姿勢のまま子犬を抱きかかえつつ、司の話を聞いて放った返答がそれであった。司は唖然としてしばらく何も言えずにいた。


「えっ……」

「そりゃあ万が一ってことがあるから交番には届けなきゃいけないかもしれないけれど。でも、どうせ飼い主なんて見つからない可能性の方が高いんだし、うちで面倒みればいいじゃない」

「でも、面倒なんて誰が……」

「もちろんあなたよ」

「……」


 「あたりまえじゃない。ねーっ?」と母親は胸のなかの子犬と示し合わせてひとり喜んでいた。


「まあ、あなたができないっていうなら仕方ないけど。でも、司、この子がたとえ捨て犬だったとして、新しい飼い主が見つからない可能性の方がずっと高いのよ。飼い主が見つからなかったらどうなるかわかってるでしょう、あなたにだって。それにあなた、暇じゃない。サッカー部だって結局入らなかったんだし」

「でも、それは……」


 母さんが病気だからとは言いかねて、司は口ごもった。この件に関してはなにもそればかりが理由ではなかったので。しかし、聡い母は息子の言わんとするところを悟ったらしい。鮮やかに口紅をつけた唇で「大丈夫よ」と微笑する。


「母さんだって働けるぐらいにはもうすっかり元気だもの。まあ働ける分わんちゃんの面倒みてあげられないんだけど。でも、お手伝いぐらいはしてあげる。一晩考えてみなさい……無理にとはいわないわ。だけどね、母さんのために何かを諦めるのはもうやめてね、司?」


 司はうつむいて黙っていた。母はそんな息子にはかまわぬようすで鼻歌を歌いながら子犬を床の上にそっと下ろし、脱ぎ捨てたパンプスをを履きはじめた。


「どこか行くの?」

「お買い物。わんちゃんのごはんが必要でしょ」


 必要ないと言い張ればよかったのに、司はどうしてもそれができなかった。母が出かけていったあとの扉を、子犬はわけもわからぬ昂奮につつまれたまま尻尾をぶんぶんと振って見守っていた。司はそのかたわらに立って、そっと子犬を抱き上げる。あたたかく、やわらかい…………





「せっかくの土曜日なのに雨なんてねぇ」

「……奈々さんは関係ないんじゃないですか?受験生だし」

「まーた翼ちゃんはそーいうこと言う」


 奈々のデッサンのモデルになっていた翼は、ソファの上から呆れた目を奈々に向けただけで、「動かないでよ」とむくれた奈々に叱られた。奈々が鉛筆を動かす音は十月の雨音を刻んで心地よい。キッチンでは今夜の夕飯のカレーの具を煮ている鍋がコトコトと音を立てている。


 雨の日の黒田家である。今日は奈々の両親は二人とも出勤しているため、家には奈々とお客の翼と、奈々の妹弟たちだけだった。翼はデッサンのモデルをしてほしいという理由で朝から強引に呼びつけられ、黒田家と夕飯を共にして一晩泊まって帰る約束まで無理やり取り付けられてしまったのだ。奈々の妹弟たちは先ほどからお客に構いたくてうずうずしているのだが、一方で血の繋がっていない姉を大変慕っているので、奈々が絵を描いている時には邪魔をしないように三人で仲良く遊んでいてくれるのだった。先ほどまで末弟の悠太は「外に出たい」と駄々をこねていたのだが、ここ数日前から子供だけの外出は禁じられていたため、今は姉たちに絵本を読み聞かせてもらっている。翼の耳にも、双子の姉妹の音々ねね美々みみがきれいに声をそろえて朗読するのが、隣の部屋から聞こえてくる。



『……それはむかしむかし、この桜花市がまだ深い森や山々に守られていたころのおはなしです』



「ところでさ、もうすぐルカさんの誕生日だよね?」


 奈々が切り出すと、翼も「はい」とうなずいたが今度はお叱りの声は飛ばなかった。


「誕生日パーティーの招待状、すごかったですね」

「ああいう正式のパーティって初めてだからなぁ。ドレス着なきゃいけないんでしょ?どうしようかなぁ」

「あたしはお姉ちゃんのお下がりにしました」

「あっ、いいなぁ。何色?」

「青です」

「さっすが青龍」

「じゃあ奈々さんは黒ですね」


 二人はくすくすと笑う。


「ところでプレゼントはもう考えた?」

「いいえ。でも、この間お母さんとデパートに行ったとき、ルカさんが使ってそうなかっこいいシルバーのペンを見つけたのでそれにしようかなぁって。奈々さんは?」

「あたしはチェロモチーフのアクセサリーにしようと思ってるんだ。ネクタイピンとかさ」

「手作りですか?すごーい!」


 「まあね」と奈々は照れる様子もなくさらりと言ってのけた。


「そういえば、舞ちゃんはルカさんの犬……なんだっけ、ボルゾイ?ともかくルカさんの家の犬にそっくりなぬいぐるみがあったから、それにするって。海外公演の時もさびしくないように」

「もう、子どもじゃないんだから」


 翼は呆れたように言う。



『そのころの日本にはまだたくさんのオオカミがくらしておりました。この桜花市の近くでも、しばしば、オオカミたちのすがたがみられたものです』


「玲子さんはどうするんでしょう?」

「うーん、聞いてみたけどまだ決めてないって言ってたよ」

「きっと高いものなんだろうなぁ。敵わないですね、玲子さんには」


 肩を落として溜息をつく翼に、奈々は意味ありげにふふと笑った。不思議そうな顔をして奈々の顔を見遣る翼に、奈々は優しく「動かないで」と言ってから、微笑みをくずさずにこう続けた。


「たとえその辺の石ころだったとしても、玲子さんのプレゼントには敵わないんじゃない?あたしたちじゃ」


 「あっ……」とつぶやいて翼はほのかに頬を赤らめる。奈々の顔はすぐにスケッチブックの影にうつむけられたが、言葉の投げやりさとはうらはらに、奈々の声は朗らかだった。


「そっ。だからさ、別にいいんじゃない?あたしたちはあたしたちのできる精いっぱいで。翼ちゃんが精いっぱい選んで悩んだプレゼントなら、『おめでとう』って気持ちは伝わるもの。ぜったい」


 二人の少女がじっと沈黙を支えはじめる。翼はペンにしようか、名前を入れてもらおうかと思い悩み、奈々は次の鉛筆の線にこだわって。二人の少女の沈黙により幼い二人の少女の声が明るく響く。


『そのなかに『琥珀こはく』と呼ばれるオオカミがおりました。黄金色にきらめく毛なみを持った、大きな大きなオスのオオカミです。人もけものも、みな、琥珀のことをおそれました……』


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