第十三話 雨夜の獣
13-1 雨と子犬
雨の音が聞こえる――
僕は雨が好きだった。雨は僕を世界からほんのわずかながらに遠ざけてくれるような気がしていた。うるさい音も、わずらわしい色彩も、雨が薄れさせ掻き消してくれる。そんな気がしていた。
今は以前ほどに雨が好きではなくなったように思われる。きっと、あの忌々しい前世の記憶とやらのせいだ。雨の音は、あの木の洞のなかの湿っぽい薄暗がりとその暗がりに浮かび上がる少女の顔をいつでも連れてくる。少女は笑っている。京野舞がクラスメートに振りまいているのと全く同じ笑顔だ。
……忌々しいのはなぜ?それが誰しもに与えられる薄っぺらい善意であるからか。そうだ、あの笑顔とそこに込められた善意は、天つ乙女が
薄暗がりに浮かんだ京野舞の笑顔が歪む。京野舞だろうが京姫だろうがこの際どうでもよい。薄っぺらい笑顔が剥がれ落ちて、絶望と涙がその後に浮かぶのであれば。僕に(あるいは紫蘭に)突き放されて絶望する少女。誰もに愛され、誰もを愛する少女。この少女を苦しめようというのはこの世界で僕一人ぐらいだろう。だとするならば、京野、もう二度と僕に笑顔を向けないでくれ。僕はせめてそこに僕が僕である意味を見出すから。
雨の音が聞こえる――
結城司は水たまりに踏み込みかけて足を止めた。雨音が遠ざけた世界のなかで何かが聞こえたような気がしたのだ。脳の片隅をひっかくような、だが決して耳障りではないかすかな音が。
司はあたりを見回した。まだ昼の三時過ぎだというのに午後から急に降り出した雨のせいで住宅街はすでにどんよりとして薄暗く、家人はあらかた出払ってしまって留守なのであろう、カーテンを閉め切られた家々の窓は皆一様に灰色で、軒先は陰鬱な影を湛えている。元より閑静な住宅街であるからこんな日はいよいよ静まり返っている。時おりそう遠からぬ場所から、タイヤが濡れたアスファルトの上を横切る音が聞こえてくるだけだ。
さて、さっきの音はどこからしたのだろう。ただの聞きまちがいだったのだろうか。一通り道路を見渡したあとで、司は前方へと向き直った。こんなところでのんびりしている余裕はないのだ――なにせ傘を持っていないのだから。と、その時、足元になにか物音を聞いた気がした。
足元を見下ろして、司はいささか狼狽した。そこにちっちゃなとがった耳の、ふわふわした小さなものを見出したのであった。これは……子犬だ。灰色だか茶色だか、汚れなのだか元の毛の色なのだかよくわからない色をした子犬が、つぶらな瞳で司を見上げ、短い尾をぱたぱたと振りながら、司の革靴にあるかなきかも怪しいほどの前足を載せている。司が自分のことを認識したことに気づくと、子犬は鼻でクンクンと鳴いた。先ほど聞こえた音はこの子犬の鳴き声だったのだ。
「なんでこんなところに……」
思わず声に出してつぶやきながら、司は身を屈めた。すると、子犬は前足を司の靴から降ろして尾の動きをいっそう速めながらたどたどしく後ずさり、そのまま先ほど司が踏み込みかけた水たまりに飛び込んだ。慌てた司が伸ばしたブレザーの袖に、水が跳ねた。その冷たさに怯んだ司が一瞬固まると、子犬は差し伸べられた手に湿った鼻を近づけてくんくんと嗅ぎ、それから濡れた毛並みを押しつけた。水たまりにとっぷりと浸かっているのはさほど気にならないらしい。
「お前な……」
司は呆れて溜息をつくと、慎重に子犬の体を抱き上げて水たまりから救出した。子犬の毛から滴る水で制服を汚さないように気を付けながら。子犬は特に恩も感じていない様子だったが、ぶるぶると身を震わせて水気を飛ばした後で(また雨で濡れるにもかかわらず)、それでも小さな桃色の舌を突き出して笑っているような表情を浮かべた。そしてまた、司の手に濡れた毛並みを押しつけるのである。
司のなかで、無垢なるものを慈しむ気持ちと、見知らぬ濡れた子犬の不衛生を警戒する気持ちが同時に起こり、やがて前者の方が勝利した。その場に屈みこんだまま、司はぎこちなく子犬の背を撫でた。しかし、なぜ子犬がこんなところにいるのだろうか。周りには飼い主らしき人物は見当たらない。どこかから逃げ出してきたのだろうか。それとも野良犬だろうか。野良犬なんてこの辺ではめったに聞かないが、首輪をしていないところを見ると可能性はなきにしもあらずだ。
……もしかしたら捨て犬なのかもしれない、と司は思い至る。しかし、捨て犬だろうが野良犬だろうが行き先は一緒なのだろう。保健所へ送られて、引き取り手がいなければ殺処分される――何千、何万という多くの犬と同じで。
救いたければ自分で引き取るか、自ら引き取り手を探すしかない。だが、結城家ではとても無理だ。司自身は学校があって昼間の世話ができないし、母親はだいぶよくなってきたとはいえ、やはり病人だ。体調の方はともかくとしても、日中は母親の方も仕事があるからまず世話は頼めなかった。
では、引き取り手を探す?そんなことを頼める人間がどこにいる?一瞬頭に浮かんだ少女の顔を司は急いで振り払った。それから東野恭弥が浮かんだが、どうも気が引けてならなかった。大体あの少年に物を頼むとどんな見返りを求められるかわからない。親戚――母方の親戚は関西にいて東京にいない。父方の親戚とは最近疎遠になっているし、そもそも…………
ふと気づくと、濡れた毛並みの感触が消えていた。司はさっと立ち上がってあたりを見回した。子犬はどこにいった?
「……この子、君の子かい?」
振りかえった司はそこに男性の姿を見た。年齢は四十代半ばといったところだろうか。黒い髪にちらほらと白髪のまざった男性で、四角いフレームの眼鏡をかけている。いかにも品がよさそうな反面、痩せた体には不似合いなぶかぶかのシャツに(しかも袖をまくりあげている)、アイロンをまともにかけていないらしいグレーのスラックスというなんとなく絞まらない出で立ちをしている。だが、男性の出で立ちよりも男性が指さした先に関心があった司には、こうしたことはあまり気にならなかった。先ほどの子犬は男性の汚れた革靴に前足をかけて、ぶんぶんと尻尾を振っていた。
「い、いえ、僕の犬ではありません。今ちょうどここで見つけて……きっと捨て犬かと」
「そうか、しかし、捨て犬にしてもまだほんの子犬だね。かわいそうに。ほーら、よしよし」
そう言いながら男性は、古そうな黒い傘を右肩の上に載せて、手や服が汚れるのも厭わずに濡れた子犬を抱き上げた。犬がよほど好きなのか、口元が綻んでいる。子犬の尻尾の動きも心持ち速くなった気がした。それに合わせて、司はなぜだか自分の鼓動も不思議と速くなったことに気がついて当惑した。一体なぜだろう。
男性は司にはお構いなしに、抱き上げた子犬の体を
「捨て犬なら警察だか役所だかに届けないといけないんだろうけど……まずは洗ってきれいにしないとな。これじゃあ元の色もわからないぞ」
「はあ……」
「病院にも連れてった方がいいかもしれないね。なにか病気にかかっていたら困るから」
「そうですね……」
「僕の家でできればいいんだけど、でも今の家はペット禁止なんだよなぁ。一日ぐらい……駄目だな、きっとバレたら怒られる。引っ越しさえしちゃえば……うーん」
綻んでいた男性の顔が真顔に近づいていく。決して芝居がかった調子ではなかった。捨て犬か、と、小さく胸のなかで呟いてみる。そこから沸き起こる自身の感情を、司は水面に石を投げ入れて波紋がひろがるのを見遣るようにじっと見守ってから、ひとつ息を吸って言った。
「一晩ぐらいならうちで預かれると思います」
男性の顔がぱっと輝いた。
「ほんとうかい?」
「はい。飼うことはできませんが」
「そうか、ありがとう。よかったな、お前も。優しい人に拾われて」
言われ慣れていない言葉に胸のあたりがくすぐったいような気がしたが、決して不快な感情ではなかった。
男性はふと司の方を見て、不思議そうに目をしばたかせた。
「ところで、君、傘差さないでいいの?随分濡れてるけど……」
「あっ……」
なんたること。雨に濡れているのも忘れているとは。
「その、今日は傘を忘れてしまって……」
「おや」と男性が笑うのに、司は思わず赤面した。自分らしくもないと思った。傘がないから急いで帰る途中だったではないか。それほど子犬のことに気を取られていたというのか、僕は……
「なんだ。だったら僕の傘を使うといいよ」
「でも……」
「いいんだよ。僕も忘れ物をもらってきただけなんだ。それに僕はすぐにタクシーに乗るつもりだし」
戸惑う司に男性は傘を突き出して微笑みかける。白いシャツの胸を前足で這い上がってきた子犬が、その頬を嬉しそうにぺろぺろと舐め出した。まるで男性のすることに賛同するかのように。まったく子犬というものは落ち着きがないものだ。抱かれていても少しもじっとしていないのだから。男性の微笑はたちまちやわらかく崩れた。袖からむき出しになった腕が、子犬の泥で濡れていた。
「こら、くすぐったいったら。やめろって……さあ、じゃあ僕はもう行かないと。この子をよろしくね」
「はい」
傘を受け取った瞬間、最初に触れた男性の指先を、司は紙のようだと思った。右肩に黒い傘を預けた姿勢で子犬を受け取った時、二度目に指が触れた。司はその指が同じ温もりを抱えていることに気がついた。しかし、おどろいた司と男性の目が空中でぶつかったその刹那、見えない薄紫色の炎が線香花火のようにかすかに空中に舞い上がったことは司もついに知らなかった。
司はほんの小さく会釈をすると、男性に背を向けた。途端に胸元に子犬がきゅうきゅうと悲しげな声で鳴きはじめた。男性との別れを察したのであろう。司はためらいつつも、子犬のあたたかな重みを揺すぶってぎこちなくあやしながら、男性の方を振り返った。子犬は司の腕のなかでぱたぱたともがいて、男性を恋しがった。
「気をつけて帰りなよ。近頃この街も物騒だからね」
「はい、ありがとうございます……」
まるでその言葉をもらうのばかりを待ち受けていたかのように、司はくるりと踵を返すなり足早にその場を立ち去った。子犬はまだ腕のなかで鳴いていたが、生まれて初めて抱えるやらかく心もとないぬくもりをぎゅっと胸に押さえつけるようにしながら、司はいよいよ勢いをつけて通りを突き進み、いつもより二つほど手前の角を曲がった。それでも飽き足らずなじみの薄い通りを駆けていた司は通りの半ばほどまで至ってはっと我に返って立ち止まる――何を急いでいるのだ。そんな必要はないというのに。
雨空を見上げようとした司の視界は、傘の色に遮られた。そうだ、もう急ぐ必要はない。今日は傘を持っているのだから……
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