第十一話 毒を薙げ!
11-1 「香苗を、かえ、して……っ!」
「君は……!」
見開かれた白虎の瞳が映し出したのは愕きと当惑であった。今まさに芙蓉にとどめを刺すというその時、舞台袖から駆けつけてきた男装の少女は先ほどまでこの舞台の上でロミオの役を演じていたために、よく白虎の印象に残っている。否、それだけではない。この少女のことを白虎はよく知っていた。
(京野ゆかり……!)
京野舞の姉、白虎にとってこの世界でもっとも大切な人の家族――桐一葉の刃はわずかにゆかりの右肩を切っただけだ。致命傷ではないが、それでも痛みはあるはずだ。戦いに慣れていない一般人にとっては尚更のこと。ゆかりはぎりぎりと歯を食いしばり、痛みに足をふらつかせながら、それでも香苗の前に踏みとどまって退こうとしなかった。
「何よそれ……本物、なの……?」
ゆかりが顔をしかめて言った。しかし、そんなことは些事であるらしい。肩をぎゅっと抑えながらゆかりは次の句を継いだから。
「一体どうしてそんな物騒なものを香苗に向けようっていうのよ……?」
「君には関係のないことだ。そこを退いてくれ、さもないと……!」
君の背後に佇んでいる芙蓉の顔がどんな企みを宿しているかわからない。君も危険なんだ、そんな言葉はゆかりの怒りの声に遮られた。
「関係ない?クラスメートが、友達が刃物向けられてるのに、関係ないってことはないでしょ?!白崎先輩、あんた……自分が何してんのかわかってんの?!」
「わかっているさ!だが、京野君、いま君の後ろにいるのは北条院香苗じゃないんだ。私は香苗を救いたいんだ……!」
「香苗じゃ、ない……?」
かすれた声でつぶやいて、ふっと思い出す。本番の前の香苗の様子に違和感を抱いたことを。香苗の中にはまるで別の人格が潜んでいるように思われた。ゆかりはそれをジュリエットだと思い込んだのだったが、ゆかりのなかのロミオはどうしてもジュリエットを愛することができなかった。では、香苗のなかに他の誰かが
「ゆかり」
背後から唐突に名を呼ばれて、ゆかりはびくりとした。でも、間違いなく香苗の声だ。
「香苗……香苗だよね?」
「ゆかり、たすけて……痛いの、とても苦しいの……」
「香苗……!」
振り返ろうとした動きは細い腕に閉じ込められて塞がれた。胸を締め付ける力の強さと、衣装を透かして皮膚に染み入る手の冷たさに、ゆかりは戦慄した。対峙している生徒会長の表情がはっきりと物語っている。先ほどの言葉は本当だと。いま自分の後ろにいるのは北条院香苗ではない、別の何者かであると。
「かな……」
「動かないでいただけますこと?思いがけず殺してしまうかもしれませんもの……えぇ、白虎、この娘だけじゃなくて、お前にも言っているの。聞いていて?少しでも妙な真似をしたら、この娘の首を胴体から切り離しますわよ」
傷ついた肩に歪んだ笑いが生温かい吐息を押し当てた。
「それくらいの切れ味はあるでしょう?お前の氷でも」
「き、さま……っ!」
白虎が低くうなる。羽交い絞めにされたゆかりには目を動かすだけが精いっぱいであった。震えを押し殺して懸命に瞳を真下へと向けると、なにか、巨大な針か刃のように、艶やかに尖って光っているものが目に入った。ゆかりにはそれしかわからなかったがそれだけで充分であった。香苗が、香苗のなかにいる何者かが自分を殺そうとしているという事実はそれだけで十分にわかったから。
(なによ、これ……悪い夢?それともこれも芝居だっていうの?)
「剣を捨てなさい。そして、舞台から降りなさい、白虎。そうですわね、変身を解けと言った方が早かったかしら。鈴をここに置いていきなさい。さあ、早く」
白虎は無言のまま後ずさり、伏せた目で香苗の太腿の傷のあたりを探った。破れたドレスの裾から香苗の左腿はくっきりと露わになっていて、痛々しい傷跡からは変わらず血が流れ続けているが、突き刺さった氷柱のその先端が欠けていた。
「どうしましたの、この娘が死んでもよいと?」
ゆかりは青ざめ震えながらこちらを見つめている。訳がわからないながらにも、自分の命がもはや自分の力ではどうしようもないことを、他人に委ねるしかないことを悟ったらしかった。京野ゆかりを見殺しにすればあるいは――そんな考えが脳裏を過る。だが、京野ゆかりは京野舞の実の姉である。駄目だ。舞が不幸になるのであれば、芙蓉を倒す意味などないのだから。
手を滑り落ちた桐一葉は床の上で白い鈴となった。芙蓉が満足げに見つめるなかで、ルカは命ぜられた通りに舞台を降りた。
「そう、それでよいのですわ」
「会長……!」
「さて、次はお前の番ですわ」と、怯えるゆかりの頬に手をあてて芙蓉は微笑む。ルカははっとした。
「待て!その娘に手を出すな!」
「お前がわたくしに命令できる立場ですの?まあ、すぐには殺しませんから安心なさいな……ねぇ、ゆかり、わたくしを庇ってくれてありがとう。嬉しかったわ。わたくしね、先ほど知ったのです。お前たちは、たとえこの身を燻らせ、疼かせ、焦がしてやまぬ感情でなくとも、そのために命を賭けられるのだと。ですから、わたくし、お前に賭けたのですわ。だって、お前は香苗のロミオなんですもの、そうですわよね?」
友の手が妖しくいかがわしく胸元を撫でさすり、友の唇がやわらかく傷ついた肩に寄せられる。ゆかりの身はびくんと跳ねた。
「香苗を、かえ、して……っ!」
「おやおや、怖がらなくてもいいのよ。わたくしは香苗なの。わたくしは香苗とひとつの強い感情でつながっているのだから。ねぇ、ゆかり……だから、ちょうだい?そうでないと、わたくし、死んでしまうわ」
「い、や……っ!」
玉虫色の唇が息を傷口に吹きかけると、吐息に紛れて四匹の蝶が現れて血に濡れたゆかりの肩の上に足先を浸した。渦巻き状に巻かれていた
「大丈夫よ、ゆかり……ほうら、痛くない、痛くない」
掌に血がにじむほど強く、ルカは拳を握りしめる――なぜ私は何もできずにここに立っている?苦しんでいる少女ひとり救うことができない。鈴がなければ私は何もできないというのか……いや、その通りだ。前世の力がなければ私はただの無力な少女に過ぎない。組み敷かれ、屈服させられる、この世界にあふれる弱者のひとりに過ぎない。
それを前世では知っていた。女であるというだけで弱者だったあの世界で、白虎は男の装いを纏った。大切なひとを守りたかった。だが、その実いつも本物の男に脅かされていた。
「あっ、はっ……くっ……!」
(私は弱い。どうしようもなく弱い。このままではきっと負ける……みんな死んでしまうというのに)
ゆかりの苦悶の声を前に拳がわななく。今、唯一の頼みの綱は玄武だ。玄武が目覚め、芙蓉の気づかぬうちに矢を射てくれること。それを願うしかない。玄武は芙蓉の鞭に打たれて以来、目覚めていない。まさかとは思うが……いや、そんなことはないはずだ。
(目を覚ましてくれ。玄武、お願いだ……!)
奇跡を願うしかない自分。誰かを頼るしかない自分。弱い弱い自分……
「ああ、そういえば玄武を忘れていましたわね」
おもむろに二階席の方を見上げて芙蓉がつぶやいた。ルカは内心の動揺を必死に押し隠した。
「せっかくだから玄武からもいただきましょうか。ルカ、お前は駄目よ。お前は見ていなくてはね。観客として、この悲劇の全てをね」
「やめ……っ!」
「あら、攻撃してきてもかまいませんわよ、わたくしは。玄武の方がこの娘より大事なのは当たり前。だって、玄武は前世から共に過ごしてきた仲間ですものね」
たった今気がついた。魂の純潔を汚すとは、弱りきった憐れな仲間を手にかけることではないのかもしれないと。勝利のために弱い存在を踏みつぶすことなのかもしれないと。玲子はやはり穢れていないのだ。ルカが庇うまでもなく。ルカもまだ穢れていない。だが、今この場において純潔を穢さなければ仲間を救うことはできない。
芙蓉の元から蝶が飛び立つ。命を秤にかけてその価値を見定めること、重い命を選び取り、軽い命を見捨てること。それこそが真に魂の純潔を穢すことなのだ。
(私は先ほど京野ゆかりの命を秤に載せた。彼女は重たかった。なぜなら、京野ゆかりは京野舞の姉だから)
しかし、玄武の命と比べればどうなる?玄武は大切な仲間だ。そしてこの戦いを切り抜けるには玄武の力が必要だ。玄武を救うことが、この世界の大勢の命を救うことにもなる。
「私たちは前に進むしかない。立ち塞がる者を切り捨てるしかない」
ルカ自身の言葉が
(申し訳ございません、姫さま……この罪はきっと贖います)
白虎の鈴は照明を受けて輝いている。遠目からでもその位置ははっきりとわかった。私はただ、そこに向かって、風のように速く駆ければよい。
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