10-6 「生きよう、ルカ」

「わたくしを毒婦と呼んだことを、最後の痛みで後悔なさい」


 痛み?指先から感覚が剥がれ落ちていくというのに――私は今、何を見ている?今、何に触れている?駄目だ。これでは前世と同じだ…………



 前世…………



 ねぇ、玲子……いや、朱雀。私はね、嬉しかったんだ。君が私を苦しみから解放してくれて。


 何も見えない闇のなかで君を感じていた。生まれ変わって、私はようやくわかったんだ。あの時の感覚は決して幻などではなかったって。


 芙蓉の毒に目も眩み四肢も萎え、それでも地を這って京へたどり着いた惨めな獣に、君は憐みをくれたんだね。もう私が助からないことを君は見抜いたんだ。だから、君は私を手にかけた。銃弾で憐れな獣の頭を撃ちぬいて。痛みは何も感じなかった、私の方はね。でも、君は魂の純潔を穢したんだ。私のために。



 朱雀、この恩を、私はまだ何も返せていない。



 ねぇ、朱雀……いや、玲子、私はこんなところでくたばるわけにはいかないんだ。



 君と約束した。私が白虎として覚醒したあの日、必ず姫さまをお守りすると。舞を幸せにすると。




 こんなところでくたばれないのに。約束したのに…………




「ルイ、どうして泣いてるの?」


 ……


「なに、大事なものを落としちゃったの?」


 そうなんだ。でも探しにいかないで、ルカ。あの時もそう言って、ベランダの手すりから身を乗り出して、君は……


「だいじょうぶだよ。今度はこんな近くにあるんだもん、ほら」


 闇のなかで薄っすらと光るものがある。懐かしい小さな手がルカの手を導いてくれる。


「ルカ、でももう私は……」

「ルイ、ぼくはルイなんだよ。ルイがルカなのと同じ。だから力をあげられる。君がぼくとして生きることで、君はぼくに生命いのちをくれた。だからこんどはぼくが生命をあげる。生きよう、ルカ……さあ、戦って」




 ふと気がついたとき、ルカはかたわらの女性の首飾りに手を伸ばしていた。パールの首飾り――いや、このパールの光に紛れていたんだ。四神の証の白い鈴。


 意識は澄みわたり、体は力にあふれていた。ルカは芙蓉の鞭の先を鮮やかに交わすと、すくっと立ち上がり、蝶の闇に向かって高く鈴を掲げた。




 鈴から一片舞い降りたのは、雪の結晶である。結晶はきらきらと銀色に輝きながらルカの胸元へ零れ落ちる。結晶はルカの皮膚に張りついたまま、たちまちルカの全身に氷の枝を張り巡らせ、雪の花を咲かせた。凍れる花はたちまち白い袖となって広げたルカの両腕に纏わりつき、銀の縁取りと刺繍のある白い背子はいしがその上に重なった。旋風つむじかぜの起こって、ルカの足元に絡まりついたかと思うと足首のあたりから紺色の袴の裾が揺れ始める。風の外に伸ばした足袋の足は黒い長靴ブーツが覆った。風が止むと、舞い上げられていた透明な領巾ひれがルカの両肩を包んで、たちまち白の布地へと変わり、外套マントとなってルカの背中にひろがっていった。その腰に巻かれた帯革ベルトから佩けるのは、彼女の武器である剣・桐一葉きりひとはである。


 白虎が桐一葉で宙を薙ぐと、空間を埋め尽くしもはや翅の動きさえ鈍くなりつつあった蝶たちは、紫色の凍れる葉となって雹のごとく白虎の足元へと降り注いだ。雹は悉く砕け散り、銀の星を鏤めたような壮観が辺りにひろがった。


 白虎は観客席の背もたれを蹴って高く飛んだ。空を踏む白虎の長靴の裏を結晶した空気が支えて、氷の階段を作り出す。その果てに閃いた白刃は、芙蓉の肩を切り裂いた。


 傷ついた肩を庇いながら、予想外の成り行きに芙蓉は顔を歪めてみせた。


「往生際の悪い……!」

「それはこちらの台詞だ」


 大きく旋回して芙蓉の背後に回り込むと、白虎は鞭の先を剣で払って逃げる芙蓉を追った。


氷室ひむろ!』


 氷で模られた剣が四方から芙蓉を取り囲んできらめいたその刹那、一斉に獲物に向かって突き刺さる。芙蓉は鞭でその切っ先を逸らしたものの、いくつかの剣はまともにその身に突き刺さった。片翅の破れた蝶のように、芙蓉は空中で大きくよろめいた。


 氷柱つららが刺さった太腿から血が滴り落ちている。一度地上に降りた白虎は、血の雨を肩に受けたその時、芙蓉の顔から芙蓉の面影が薄れていくのを確かに認めた。白虎は肩の上の鮮血を見て目を細めた。


松風まつかぜ……!』


 海の唸りを連れた風がジュリエットドレスの裾を煽り、芙蓉の身は風に流されるままに舞台上の寝台に崩れ込んだ。垂れ下がる天蓋が絹の川のようにさらさらと流れ落ちてその腰を覆い隠した。



 少女の息づかいが芝居めいて、静まり返った講堂内でたったひとつ脈を打っている。上下する白い砂の上に紅の海が広がりゆく。


 寝台の前に立って、白虎は身を起こそうとする少女を見下ろした。白虎を見上げる涙を湛えた瞳はすでに香苗の瞳であった。


「やはり血だな、芙蓉」

「……!」


 不自然なほどの芙蓉の狼狽にも白虎は取り合わない。


「血が貴様と香苗を媒介なかだちとして結びつけているということだ。血を失えば貴様も力を失うのだろう。芙蓉、お前を倒すのはもはや容易い」

「しかし血を失えば香苗も死にますわよ。お前はそれでもいいのね?」


 笑みともつかない醜悪な表情を少女は浮かべる。香苗にはもっとも似つかわしくない表情に、白虎は顔をしかめた。


「いや、香苗は殺さない」

「そう。ならばやってみるがいい。さあ、香苗を刺し貫きなさい、その剣で。さあ……!!」


 寝台から降りて立ち上がる香苗の腰元から血に濡れた絹の布がはらりと落ちる。この誘いは罠かもしれない。何よりこれは一か八かの賭けだ。殺さない。でも、香苗の命が助かる保証はないのだ。風のなかで必死に玄武に呼びかける。返事はなかった。


 だが、もう機会は逃さない。白虎は桐一葉を振りかざしかけた。





「かな、え……っ!」


 上手から飛び出してきた人物がその刃の前に立ちふさがった。


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