8-5 「ここ、九頭龍のお腹のなか」

「……ちゃん」



 ……誰?



「……おねえちゃん……まいおねえちゃん……!」



 揺すぶられて、舞はゆっくりと重たい瞼を開いた。篝火の面輪がおぼろな月のように二重にぼやけて浮かんでいる。


「あれ、私……」

「けがはない?だいじょうぶ?」


 篝火の小さな手に助けられて身を起こす。長いこと気を失っていたのだろうか、変身は解けていた。疲労のために体はぐったりと重たいが、痛みはない。あれだけ風雨に曝されたのに寒気もしない……で、私はどこにいるんだろう?


 見渡すかぎりは暗闇だが、どうやら屋外ではなさそうだった。しんと静まり返っていて風のそよぐ音ひとつせず、頭上には星の瞬きひとつ見当たらなかった。だが、屋内だとしても変な感じだ。大体空間の広さが掴めない。ものすごく広いようでもあり、狭いようでもある。それに灯りひとつないのも変だ。灯りひとつないのに、篝火の顔や自分の姿ははっきりと認識できるという点も。


「ここはどこ?」


 舞が尋ねると篝火は肩をすくめて首を振ったが、それはわからないという意味ではなかった。


「聞いて驚かないでよ、舞お姉ちゃん。ここ、九頭龍のお腹のなか」

「……?」


 舞は口元に引き攣った微笑を浮かべつつ目をぱちぱちさせた。その言わんとしているところは――えっ?冗談だよね?


「ううん、ぜんっぜん冗談じゃないからね。ボクたち、落ちたときにそのまま龍の口のなかにすぽんって入っちゃったの。たまたまだけど。舞お姉ちゃんはそのまま気絶しちゃうし、ボクずっとどうやってここから出ようか考えてたんだ。今のところ妙案はないんだけどね」

「えっ、ってことはつまり……わ、私たちこのままだと消化されちゃうの?!」


 どうだろう、と篝火は首をひねる。


「確かにボクたちは九頭龍に呑み込まれたけど、九頭龍の胃袋のなかにいるかっていうとまたちがうみたい。九頭龍には『形』はあっても『中身』がないから。つまりさ、さっき言ったこととつながってくるんだけど、九頭龍っていうのは人々の『信仰』によってよみがえった存在でしょ?だから人々がイメージするような姿形だとか能力だとか、そういうものは持ってても、内臓とか脳とかの生き物としての器官は持ってないんだよ。だからといって必ずしも空っぽってわけでもなさそうだけど」

「じゃあ、どうやってここから……」


 舞ははたと口をつぐんだ。何か聞こえた気がしたのだ。人の声のようだった。誰かがすすり泣くような――舞と目を合うと、篝火もこくんとうなずいた。声のようなものは幻聴ではなかったようだ。


「今のは……?」

「……九頭龍にとって脳や内臓の代わりになってるのは、九頭龍への『信仰』、そして衣姫自身の『想い』なんだよ、舞お姉ちゃん」


 いつになく真剣な口調で、篝火は低く語った。


「行こう、今の音の正体がわかる。ボクの予想が正しければ、外に出るためのヒントにもなるはずだから。舞お姉ちゃん、立ち上がれそう?」

「う、うん……」


 手を借りて立ち上がった舞は、篝火が闇のなかを浮上しながら導く先へと歩みだした。九頭龍のお腹のなかですって?このどこまでも続いていくような空間が?篝火の説明はわかるようでわからない。内臓がない、脳がない、それはわかるけれど、『信仰』や『想い』がその代わりってどういうことなの?さっきのすすり泣きのような声はなに?誰か、私たちの他に九頭龍に呑み込まれた人がいるというの……?そこまで考えて、舞ははっとした。


「翼?!」


 舞は思わず叫んだ。その声は闇のなかに幾重にも反響した。


「翼、どこにいるの?!」


 舞は篝火の制止も聞かずに駆けだした。闇のなかではまっすぐ進んでいるのかがわからない。ただ無我夢中に駆け続けて、冷たい水のようなもののなかに足を踏み入れたとき、ようやく立ち止まった。恐る恐るもう一歩踏み出してみようとして、舞は足元の段差を踏み外し、「わあっ?!」と声を上げながら深く溜まった水のなかに飛沫をあげて転がり落ちた。すかさず立ち上がる。水のかさは舞の膝のあたりまであるようだった。


「ちょっと、舞お姉ちゃん気をつけてよね!」


 ようやく舞に追いついたらしい篝火の声とともに、小さな蒲公英たんぽぽ色の狐火が現れてあたりを照らし出した。満ち満ちている黒い水面に波を描いてゆらめくのは燃える狐火の光ばかりではない。先ほどから、なにか、ごくささやかなものが、水に浸かっている腿のあたりにたわむれのように触れては離れていくようなそんな気がしてならなかったのだが、それが、水面にあふれ咲きこぼれるおびただしい花なのだということを舞は認めた。舞の見たことのない、青い花であった。夢のように、嘘のように青い。狐火の色を投げかけられてもなお。


「舞お姉ちゃん、あれ!」


 篝火が指さす方を望んだ舞は、当惑を忘れてあっと息を呑むと、水と花を蹴散らかしながら走り出した。舞が暗闇のなかに認めたのは、少女の顔のほのかな輪郭だった。少女は白い衿を合わせた胸元まで水に浸り、背後にある壁らしきところへと背をもたせかけている。右肩の方にうなだれているせいで少女の左肩はわずかに上がっており、長い髪がその上に流れて水藻のように黒々と見えた。


 舞が少女の顔を両手ではさんで持ち上げると、群れ集いひしめきあっていた青い花たちは、自ら意志を持つかのように、少女の胸乳のあたりから離れていった。舞は狐火に照らし出された顔にはっとした。翼ではない。


「美香?!」


 目を閉ざしたまま、美香はかすかにうめいた。


「どうして美香がここに……!」


 困惑して篝火の顔を振りかえる。舞としては単に答えを求めたつもりだったのだが、篝火は気まずそうに目を逸らした。ふわふわした耳と尻尾が垂れている。こんな姿を見るのは初めてだ。


「あのさ、すっごく言いづらいんだけど、ボク、かんちがいしてたみたい……」


 篝火が小さな声でぼそぼそとつぶやく。


「かんちがい?」

「翼お姉ちゃんじゃなくて、そのお姉ちゃんだったんだと思う。九頭龍に取り込まれたのって」

「じゃあ、翼は……」

「無事、だと思う……たぶん」


 舞は呆れた目つきで篝火を見た。狐というものも案外賢くないみたいだ。頼りないんだから、まったく。しかし、状況は変わらない。翼が美香になったにせよ大切な友人が危機に瀕していることには変わりないのだから。美香は気を失っているようだが、命はあるのだからきっと助けられるはずだ。とにかく水に浸かりっぱなしで寝ているのはよくない……風邪を引くし。いや、それよりももっと悪いような気がする。この水はただの水ではないようだから。舞の直感が告げるところによれば。


「とにかく美香をここから出さなくちゃ。それで、篝火君!外に出るためのヒントはあった?」


 自分よりもいくらか背の高い美香をもやすやすと抱き上げる舞に、篝火は目を丸くしていたが、舞がじっとにらみつけると慌てたように言った。


「う、うん!あったよ!」

「今度はかんちがいじゃないよね?」

「かんちがいじゃない……というか、今にやってくると思うよ、ヒントというか答えというか」


 舞はけげんな顔をした。篝火が黙り込んだあとの静寂に、美香の白い湯着から滴る水の音が響いた。一体なぜ美香は湯着なんか着ているのだろう……


 滴る水の音が素足で闇を踏む足音に変わった時、舞ははっとして振り返った。その時すでに篝火は、口元に笑みのようなものを浮かべつつ目を細めてそちらを見つめていた。


 女がひとり、そこに立っていた。

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