8-4 「今だよ、舞お姉ちゃん!」

 龍明神社の参道に、京姫はじっと息をひそめて立っている。篝火の話によれば、龍は篝火が放った独楽を京姫と思い込んで追いかけ続けてこの近くまで迫っているらしい。龍の姿は見えないが、その荒れ狂うさまは空気の震えや地の轟き、そして時折湧き上がる咆哮によって感じられる。それが段々と近づいてきていることも……むせぶほどの風雨が皮膚を打つのにひたすら耐え忍びつつ、京姫は目を閉じる。


(大丈夫。待っててね、翼。絶対に助けてあげるから)


 まだ手遅れじゃないよね……?胸をよぎる不安をいそいで振り払う。


(翼はそんな簡単に九頭龍に取り込まれたりしない。そんな簡単に恋の不安に呑み込まれたりしない。自分の恋の行方を誰かに委ねるような性格じゃないもの、翼は)


 たとえ苦しい恋のために流した涙があったとしても。非情な運命の前に憤った記憶があったとしても。


 いいえ、そうしたものがあるからこそ……!


『来るよ、舞お姉ちゃん……!』


 篝火の声に京姫は瞼を開く。龍の吼える声が響いて、鼓膜をじんじんとさせた。


「わかった……!」


 姫が答えたその時、稲妻が湖面の色を掻き消した。



「衣姫よ!」


 地を裂く雷鳴の後から、凛々しい声が上がった。


「鎮まりたまえ、衣姫よ。私はここにいる。瑠璃丸はここにいるぞ!」


 京姫の目に、嵐を前にたじろがぬ一輪の百合のような立ち姿が見えた気がした。


 が、篝火の変身の出来を批評するだけの時間は与えられなかった。黒い影に圧し掛かられて思わず夜空を見上げた京姫は、憤怒と憎悪に龍が身をくねらせて悶え、この世のものとも思えぬおぞましいおらび声をあげて湖に飛び込んでいくのを見た。その勢いたるや、水辺から離れた参道に立っている京姫でさえ、したたかに水しぶきを浴びたほどである。


「つば……!」

『舞お姉ちゃん、急いで!龍が水から飛び出た瞬間がチャンスだよ!』


 京姫は湖へ向かって駆けだした。そして、水柱と共に湖面から飛び出した龍が、瑠璃丸の姿を探し求めてわめきちらし、十八の眼をぎらぎらと光らせながら境内の上を低く徘徊しはじめるのに気づくと、ちょうど宝冠をかすめるばかりに真上に迫りきた鋼のような爪に向かって跳躍した。



 耳元でうなりを立てる風に吹き飛ばされぬよう、京姫は龍の手首にしっかりとしがみついた。髪を衿のうちにしまっておいてよかった、と姫は思った。風になびく長い髪はきっと邪魔になったことだろうから。


 龍の皮膚は見た目通り硬くなめらかで冷え切っていて、これを這いあがるのはどう考えても無理なように思われた。だが、とにかくやるしかないのだ。決して真下を見ないように、振り落とされないように気をつけながら、息が凍りつくほどの猛風のなかで、京姫は慎重に、けれどもすばやく動いた。勇気を振り絞って片手を龍の手首から離すと、龍の胴に掌を押し当て、鎧のような硬い鱗を掴んだ。再び死ぬほどの勇気を振り絞り、片足を鱗と鱗の間の窪みにかけ、龍がまっすぐ低く飛んでいるその間を狙っていっきに胴の上へと飛び上がった。


 龍のたてがみにしがみつくと、夜の闇は辺りを包んでいるものからすさまじい速度で流れ去っていく冷たいものへと変わった。雷が龍の鬣をきらめかせるほか、京姫にはもう何も見えなかった。手足の感覚さえもが失われそうだ。降るというよりは吹きつけてくる雨のなかで目を細め何度もしばたかせつつ、唇に受けた雨に喘いで、京姫はやっとのことで鬣をよじ登りはじめる。よじ登っているのか降りているのかは正直のところわからなかった。ただ頭の向いている方へ進むだけだ。滑り落ちないように、振り落とされないように、それだけ心がけて。



 闇は姫のまわりで膨らみ、捩じれ、いっきに滑り落ちていく。龍が吼える度に、鱗は一斉にカタカタと震え出し、京姫の足場を危うくした。九頭竜は瑠璃丸の姿を追っているのだろう。お願い、逃げ切って、篝火……!


 伸ばした手が空を掴んだとき、京姫はついに行きつくべきところへ行きついたのだと知った。呼吸をする気力を失って、恐怖と疲労に息を震わせながらぐっと身を乗り出してみると、はたして龍の額が真下にあった。突き出した鼻先が闇に閃いている。


 その時、龍が勢いよく降下を始めたので、吹き飛ばされかけた京姫は咄嗟に龍の金色の角を掴んだ。龍の鼻の向こうに、樹々の海と、その海沿いに続く道を、こちらを振り仰ぎつつ駆ける青年の姿がちらりと見えた。九つの口が同時に怒りの声を放った。


『舞お姉ちゃん、ボク、そろそろ限界なんだけど……っ!』


 さすがの篝火も切羽詰まった声である。


「着いたっ!!」


 京姫は風のなかで叫んだ。もっともこの音の洪水のなかで聞こえたかどうかは怪しいものだったが、京姫が龍の頭頂にたどり着いたことは伝わったらしい。次の瞬間、ぽんという軽やかな音とともに篝火の尻尾が姫の頭の上に現れた。


「うわあ……大丈夫?」

「だいじょうぶなわけ……ないじゃない……っ!」


 と、龍の角に掴まりつつ息も絶え絶えに姫。さながら突風に吹かれる鯉のぼりのごとくなっている姫の腰を押して、篝火は龍の首の上に姫を座らせた。


「あ、ありがとう……」

「とにかく振り落とされないうちに、さっさとやっちゃったほうがいいね。舞お姉ちゃん、できる?」

「うん……!」


 京姫が闇にかざした手に、篝火は雷光の閃きに照らし出されるところからしろがねの刃となっておさまった。目の前の化生の身に憐みを感じないわけではない――瑠璃丸もきっとそうだっただろう、とふと思う。まして瑠璃丸は自分が父親を殺したことが、姫を狂わせた原因と思い込んでいたのだから。それでも瑠璃丸は剣を振り上げた。百合煎の人々を守るために。


 京姫は翼を救うために、この剣を振り下ろす。


『今だよ、舞お姉ちゃん!』


(さよなら、衣姫……!)

 

 キーン!と高らかな音が鳴り渡る。振り下ろした刃は、九頭龍の金の角に当たって弾き飛ばされた。えっ、と姫が目を見開いた瞬間、龍は何か苦しげな悲鳴のような声をあげながら大きく全身をのけぞらせた。角を掴もうとして手を伸ばしたが遅かった。京姫の身は闇に放り投げられた。


「えっ……?」


 闇が姫の身を浮上させていく。ものすごい速度で。稲妻を孕んでいる黒雲の腹が間近になる。


 そして落下していく。浮上していくときよりはるかに速く。衿の中におさめた髪が解き放たれ、身につけている衣服がはためいて音をたてるのを感じた。ただ闇雲に虚空に手を伸ばす。


「か、篝火……!」

「舞お姉ちゃん!」 

「何とかして!」

「ムリだよ、ムリ!間に合わないもん!ボクひとりならどうにかなるけど」

「ダ、ダメ!私も助けて!!」


 「う、うわー!」という悲鳴が同時に二人の口から上がった。このままでは湖に墜落する。この距離では絶対に助からない。湖面に叩きつけられたらひとたまりもないだろう……!京姫はぎゅっと目をつぶった。すると、嵐の闇よりも一層濃く重たい闇が姫を包み込んだ。


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