4-2 「さあ、祭りの余興で済ませられるうちに」

 父親に構ってもらえなくなると、早くも人混みにんだ玲子は柏木に命じて拝殿の方へと車椅子を運ばせた。しばらく一人でいたいからお父さまの元に戻っていなさいというそっけない命令に、柏木は恭しく従いかけて、つい今しがた若い女主人の身を抱きかかえてきた石段の半ばで立ち止まり、鳥居を振り仰いだ。主人は早くも柏木に背を向けていたが、片頬だけで見下ろすその目線で早く立ち去るようにと告げていた。


 柏木が再び石段を下りだしたのを確かめてから、玲子は慣れた所作で車椅子をすべらせる。地面の傾斜やおうとつをタイヤの裏に感じ、その揺動を全身に受けるとき、玲子はまるで直にその手その足でそこに触れているかのように思う。参道に敷かれた石畳はなめらかで冷たく、人の群れのなかで火照った皮膚に心地よかった。そうして玲子は、雑音とおびただしい提灯の灯りからやすやすと遠ざかることができたのだ。


 愛すべき静謐と、弱々しい夏の星が投げかける薄明かりのなかで、玲子は夜にそびえるご神木の桜を見た。高い葉叢はむらは昼の陽光の下にみればさぞかし眩く見ゆるのであろう。日の落ちた今は、より集って眠る蝶の群れのように黒々として安らかに憩い、夜風がそのはねをそよがすに任せている。注連縄しめなわに下がるぬさの雪のような白いひらめきに、玲子は長いこと心奪われていた。


 やがて玲子は再び車椅子をすべらせると、拝殿の方へと参り出た。闇のなかで、拝殿の屋根は夜の海のように重たく凪ぎ、今まさに波の上に漕ぎ出ださんとするみよしのごとくそそり立つ千木ちぎは暗く硬質な影に過ぎなかった。祭りの夜とは言っても夜間のことであるからすでに拝殿の扉は閉ざされていたが、賽銭箱の前にあって、玲子が手も合わせずにいたのは殊更そのためでもない。祈るべき神はもうこの世にいないのだ。神々はこの世界を離れ、暁に消え残る星となり、今はその光さえも届かぬほど遠くへと去っていった……この世自ずから成らず。日なければ明けず、月なければ暮れず。暁に消え残る星々は先の世をにし神々の名残なり――『暁星記』が記すのは、神代かみよの出来事と思われて、変わらぬ世界の終焉と誕生なのである。


 玲子は長いことその場にたたずんでいた。たたずんでいるというそれだけのことが、もっとも哀切な祈りの姿に見えることも知らず。



「……一体僕に何を求めてるんだ?」



 少年の瞳の色が闇の色によみがえる。



「僕に思い出せるはずがないじゃないか……忌々しい六条紫蘭の記憶を思い出させておいて、そのうえ以前の結城司の記憶まで思い出せというのか?」



 少年の怒りは懇願に似ていた。玲子はその理由がわかる気がした。彼はきっと恐れているのだ、幸福だった自分の記憶を取り戻してしまうこと。幸福な自分と、今の自分を比較してしまうこと。


「思い出せるはずがない。思い出せるはずなんて……だって、他人じゃないか……!」



 生ぬるい風が吹きつけてきたその時、玲子はふっと何者かに見つめられているかのような気がしてならなくなった。物思うことを妨げられて、玲子はまだ夢の途中のような瞳のままで、ほとんど無意識のままに振り返った。そうして、桜の向こうに立ち尽くす浴衣姿の少女を見つけた。


 紅の瞳が見開かれた。


 京野舞の姿は儚く思われるほど小さく、遠く、玲子の目に映った。けれども、あまりに長い時を共に過ごした玲子には、その翡翠の瞳がじっとこちらに注がれていることが見えずともわかる。しかし、なぜ舞は玲子が玲子であることに気がついたのだろう。転生してから玲子の方ではずっと舞のことを追いつづけていたが、舞の方で玲子を認識したことはなかったはずだが。


 そして、玲子はふと気づく。自分の容姿が前世からさほど変わっていないことに。疎ましいほど……となると、舞が玲子の正体を遠目で悟ったのはまさしく前世の記憶を思い出したという証拠だった。玲子の胸におごそかな震えが走った。


 舞が玲子から目を逸らす。そんなささいな拒絶では、するべきこと成したという玲子の確信は揺るがなかった。ひとりの少年の人生をかきみだしていることへの後悔も、懺悔も芽生えなかった。ただ、今すぐ京姫の前に馳せ参じたいという古く強い願いが、器の縁が欠けるようにこぼたれた。


 玉砂利を踏み損ねたらしく、舞がその場でよろめいた。玲子ははっとして立ち上がりかけたが、その刹那は駆け寄ることのできる自分を少しも疑っていなかったのである。四月十二日に苧環おだまき神社の石段を駆け降りたのと同じように、また舞の元に駆け寄ることができると思っていた。ごく当然の摂理によって車椅子の上に引き戻されたとき、玲子はことを妨げられたような憮然とした心持ちになった。やがてそんな心持ちになること自体が、立ち上がる力を失って以来初めてだと気づいたときに、それはかぎりない悲哀へと変わりゆくのであろう。


(どうして……!)


 翡翠の瞳が揺らぎはじめる。泣きだしそうな、苦しげな表情をいっぱいに詰め込んで。鏡のごとくその揺らぎを捉えてみはった瞳の縁から、あふれ出しそうになるものを玲子もまた感じている。今ここで、奇跡的な邂逅かいこうを果たしてさえ、言葉ひとつ交わせないのだから。けれども、揺らぎは鎮められなくてはならない。自分には苦しむ資格さえない。いまだ悔いひとつ覚えていないその罪のために。この足から立ち上がる力をぎ取ったその罪のために。


 舞はようやく玲子に背を向けた。そして、参道に戻る手間も惜しんで、玉砂利を踏みながら、立ち並ぶ提灯と屋台の灯りをめがけて駆けだした。玲子はただ目を細め、その後ろ姿が光満ちる方へと遠ざかるのをじっと見守っていた。




(どうして……!)


 駆け降りる足がもつれかけて、舞は石段の半ばで立ち止まる。そう長い距離を駆けてきたわけでもないのに息は乱れ、心臓が激しく動悸を打っていた。舞は掌で胸元を押さえながらやや屈みこんで息を整える。不意にみじめになったのは、せっかく夏祭りに来たというのに少しも楽しいとも思えていないこの瞬間の自分に気がついたからだ。予期せぬことばかりが次々と起こる。それも悪いことばかり――何がいけないというの?私が何をしたっていうの?私はただ美香と一緒にお祭りを楽しみたかっただけじゃない。そんなことも許されないというの?それは、それはもしかして、京姫の、前世の私の罪のせいなの……?


 涙で歪んだ視界で見下ろすと、祭りの灯が遠い海に溜まった漁火いさりびのように思われた。あの楽しげなざわめきはきっと異界のものなのだろう。だって、あまりにも遠すぎる。あの光の海には降りていけない。降りていってはいけない。降りていけるはずがない。


 ……ふと、ざわめきが止んだ気がした。静寂のなかに残る太鼓の音――石垣を突き崩し桜陵殿おうりょうでんの庭に押しかけてきた人々。その瞳は皆一様に疲れきって、厳しかった。京姫に死を言い渡した女御さまの慈愛深き微笑み。風に吹かれていた誰かの亡骸の衣服。喉の渇き。低く鳴り響くの音――


 嫌な汗が眉のそばを伝い落ちる感触に、舞は目を開けた。その目が、白く清い石段の上になにか異質なものを見出した。は黒くわだかまっていた。闇に慣れてきた目は、巨大な黒い鳥のようなものの輪郭をそこに描いた。舞より数段離れたところに、その鳥のようなものは居座っていた。全身に生えているのは羽毛というよりは獣の被毛に近かった。重ねているせいで一本のように見えるその足は炭のように黒い。すぼまった首の上には、頭と思しき黒くて丸い物体が据えられてはいたが、目もなければ嘴さえも見られなかった。ただ一面黒いばかりなのである。


 舞が慎重に一歩後ずさったとき、下駄の歯が石段を踏むかすかな音を聞きつけて、それは突如として目を開いた。黒くて丸い頭にたったひとつの黄色い眼がめいっぱい開いた。と、その黄色い眼がくるりと背中側へ消えたかと思われると、今度は一つ目の真後ろにひっついていた鶴のそれのようなくちばしが舞の方を向いて、くわっと開いた。世にもおぞましい鳴き声が響き渡った。


「ひっ……!」


 舞は石段を再び駆けのぼった。一つ目の鳥は途端に飛び立った。広げた翼の内側に血に濡れたような暗紅色あんこうしょくがぬらつき、房になった尾が夜空に垂れさがった。舞は袂に入れた鈴を握りしめた。


(お願い、鳴って!今すぐに変身しないと……!)


 鈴の返事はない。鳥は背中に向けた嘴でやかましくわめきながら、感情のない黄色い眼で舞を睨み、急降下してくる。


(お願い……!)


 石段を踏み損ねる。舞は目を大きく見開いた。バランスを崩した体が仰向けに宙に放り出されていく。袂からこぼれた鈴が目の前に浮かんでいる。落下する……!無防備な舞の顔に尖った鉤爪が迫った。


(嫌っ……!!)


 舞は最後の一瞬に賭けて手を伸ばした。指先が鈴に触れたその瞬間に。


 ……しかし、鈴は輝き出さなかった。舞を助けたのは一発の銃声と、その背を受け止めた何者かの腕であった。まだ中空を見上げている舞の視界で、怪鳥は悲鳴を上げて地に墜ちた。同じ視界に見知らぬ男の顔が映り込んだ。


「お怪我はございませんか、姫さま?」

「……あっ」


 見知らぬ男と思ったのは誤りであった。落下する舞を片腕で抱き止めた男の声にも、その精悍な顔つきにも、明らかに覚えがあった。ただ、どうも記憶よりいささか年嵩なような気もしなくはないが……舞は震える声でそっと尋ねた。


「右大臣……?」


 男はかすかに笑いを浮かべた。京姫がついに馴染めなかった、あの皮肉めいた笑い方であった。


「そう呼ばれていた時期もありました。今はただ柏木武という名が残るのみです」


 柏木の視線にならって石段の上に目を遣った舞は、車椅子の上で銀色の銃を構えている玲子の姿を認めた。


「……柏木、皆を避難させて」


 京野舞が聞く、赤星玲子の最初の言葉であった。


「お嬢様おひとりで戦われるのですか?」


 柏木が眉をひそめて物申す。舞はその時はじめて柏木のスーツの肩越しに、参道の真上で宙を舞う例の怪鳥の一軍を見つけて青ざめた。いつかテレビ番組で見た、死肉を狙う禿鷹はげたかの群れそっくりだ。時々黒い体に灯台がともるごとく黄色い小さな光がひらめいて見えるのは、単眼で下界を睥睨へいげいしているためであろう。のものどもは獲物に襲いかかろうと、祭りの客どもを吟味しているにちがいなかった。


「あの程度なら今の私でも片付けられるわ。ここからでも撃ち殺せるから。今はあなたしか皆を避難させられる者はいない……さあ、祭りの余興で済ませられるうちに早く」

「姫さまは?」

「お連れ申し上げなさい」

「かしこまりました」


 柏木が舞を抱きかかえて駆け出そうとすると、舞は慌てて「待って!」と叫んだ。


「私にも何かできるかもしれない!私、確かに今は変身できないけど、でも!このままひとりで逃げたら、本当に京姫じゃなくなっちゃう……!私、ここに残る!」


 玲子がこちらを見つめたとき、先ほど桜のご神木を挟んで向かい合ったときの表情が拭い去られているのに、舞も気づかざるを得なかった。そこにはもはや慈愛も憐憫もなかった。敬意さえもが冷たく硬かった。


「……舞」


 この名を容赦なく呼びつけにする声に、思わずどきりとした。


「邪魔よ、去りなさい」

「……っ!」


 何か言いかける間もなく、舞は柏木によって軽々と抱きかかえられ、石段の下へと運ばれていった。遠ざかる玲子を呆然と眺めやる舞の景色に重なったのは、内裏における朱雀との別れの場面である。京姫を桜陵殿へ向かわせるべく、朱雀はひとりその場にとどまって漆を留めんとした。姫の乗る馬を走らせるために鳴らされた銃声の厳しさを、舞は思い出したのである。舞の口からあの時と同じ叫びがこぼれ出そうになった。


「すざ……っ!」 

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